やっと出逢えた
どんよりとした分厚い雲が空を覆っている。遠くに見える山が赤や黄色に色づいていて、そろそろ紅葉の季節だなあとぼんやり思う。紺色のジャージに身を包み、グラウンドのすみっこで突っ立っている私は、ともすれば落ちてしまいそうな瞼を懸命に持ち上げていた。昨日一睡もできなかったせいで、眠くて眠くて仕方がないのだ。
今日のホームルームの時間は、体育祭の練習に費やされることとなった。私は練習の必要な競技にあまり出ないので、全体競技の練習をした後は、障害走に使用するハードルを用意したり片付けたりしていた。とはいえすぐにやることがなくなってしまい、私は手持ち無沙汰にぼうっとしている。今日は身体がやけに怠くて、動く気力がない。食欲が全然なくて、朝食も昼食もろくに食べられなかった。やっぱり学校を休んだ方がよかったかもしれない。
クラス対抗リレーに出場するメンバーが、バトンパスの練習をしている。グラウンドの真ん中で、高梨くんが青いリストバンドで汗を拭うのが見えた。私が誕生日にプレゼントしたリストバンドだ。ストーカー根性が染みついた私は、こんな状況でも彼のことを目で追ってしまう。彼が視界に入るたびに、抑えきれない恋心が湧き上がってくる。どうしてこんなに好きなんだろう。どれだけ諦めようとしても、私の細胞のひとつひとつが、彼じゃないとダメだと叫んでいる。
……体育祭前にまた二人で特訓しようと言ったのは、現実の高梨くんだったっけ。それとも、夢の中のハルくんだったっけ。どちらにしても、もう果たされることのない約束だ。
球技大会前に特訓をしたことも、放課後テスト勉強をしたことも、クッキーを作ってあげたことも、二人で文化祭を回ったことも、手を繋いで歩いたことも、おうちに遊びに行ったことも。今となっては全部、幻みたいに思える。もしかすると、あれもこれも私の夢の一部だったのかもしれない。
――私を抱きしめて好きだと言ってくれるハルくんは、私の夢の中にしかいない。
そのとき高梨くんがこちらを向いて、ぱちりと視線がかち合った。ただそれだけのことで、どうしようもなく「好き」が溢れてしまう。
砂埃の向こうで、彼の姿が次第に霞んでいく。地面がぐにゃぐにゃになったような感覚がして、足元がぐらりと揺らいだ。こちらを見つめる高梨くんが青ざめて、驚いたように口を開く。
「――璃子!」
ぷつっと意識が途切れる瞬間、遠くでハルくんの叫び声が聞こえた気がした。
目が覚めてすぐに目に飛び込んできたのは、白い天井と蛍光灯だった。
白い枕に白いシーツ、白い布団。夢に出てくる部屋にちょっとだけ似ているような気がしたけれど、全然違う。ツンと鼻をつく薬の匂いがする。
首だけ動かして横を見ると、パイプ椅子に座った高梨くんが居た。なんだか怖い顔をして、こちらをじっと見つめている。
「ぎゃっ!」
小さく声をあげた私は、勢い余ってベッドから滑り落ちる。ゴン、と音を立てて後頭部をしたたかに打ちつけた。い、痛い。
「あ、浅倉! 大丈夫!?」
慌てた声を出した高梨くんが、手を引いて私を助け起こしてくれる。険しい顔をしていたから怒っているのかと思ったけれど、どうやらそうでもないみたいだ。
私の手を掴むがっしりとした大きな手の感触に、心臓が破裂しそうになる。繋がった部分から「好き」が溢れて伝わってしまいそうで、私は思わず高梨くんの手を振り払った。途端に彼が傷ついたような表情を浮かべて、私の胸はずきりと痛む。
再びベッドの上に座り込んだ私は、きょろきょろと周りを見回して状況を確認した。白い無機質なベッドがふたつ。薬や包帯の並んだ棚がある。学校の保健室だ。閉まった薄い黄色のカーテンの向こうは静かで、保健の先生がいる気配はない。私が呆然としていると、高梨くんがゆっくりと口を開いた。
「浅倉、授業中に倒れてんで。覚えてる?」
思い出した。ホームルームの授業中に高梨くんと目が合って、意識が飛んで、そこから記憶がない。おそらく寝不足のせいだろう。多少眠ったせいか、さっきよりも頭がすっきりとしていた。私はおずおずと尋ねる。
「……高梨くんが、ここまで運んでくれたん?」
「……浅倉は嫌やったかもしれへんけど、一応」
私は無言で首を振った。ありがとうと言いたかったけれど、声にならなかった。
嫌じゃない、全然嫌じゃない。嫌じゃないけれど、辛くて痛くて悲しくて苦しい。お願いだから、そんなに優しくしないでほしい。諦めたいのに、どんどん好きになってしまう。
瞳にじわりと涙が滲んで、私はそれを隠すように布団の中に潜り込んだ。
「……間違えた、って誰と?」
「え」
「誰と間違えてキスしたん?」
そう口に出した瞬間に、涙がぽろりと零れ落ちた。一度涙腺が決壊するともう止まらなくて、すっかり枯れ果てたと思っていた涙が次々に溢れてくる。彼から顔が見えないのをいいことに、私は涙を拭うこともせず、鼻水を垂らしながら続ける。
「なんで、お部屋にコンドームがあったん? しかも、なんで開封済やったん? なんで、手繋ぐの慣れてたん? 髪の毛いじるの、誰で練習したん?」
今まで積もり積もった不安が爆発して、つい責めるような口調になってしまう。私に彼を責める権利なんて、ありはしないのに。自分で訊いたくせに、彼の返事を聞きたくない。私は布団に隠れたまま、子どものようにみっともなく泣きじゃくる。
「私以外の、誰とキスしようと思ったん……?」
「ちょ、ちょっと待って!」
高梨くんが切羽詰まったように言うと、私の布団をひっぺがした。ぶさいくな泣き顔が露わになるのが嫌で、私は「見んといて」と言って両手で顔を覆う。それでも高梨くんは両手首を掴んで、私の顔を覗き込んできた。恥ずかしくてかっこ悪くて情けなくて、また涙が溢れてきた。
「浅倉、なんか勘違いしてる!」
「……勘違い?」
「おれ、誰とも間違えてへん。浅倉にキスしようと思って、キスした」
「で、でも、間違えたって言った……」
はっきりと覚えている。私にキスをした直後、高梨くんはたしかに、「間違えた」と口走ったのだ。しかし高梨くんは、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「間違えたって、そういう意味ちゃうねん! えーと、なんというか……夢と間違えたっていうか……」
「夢……?」
ぱちぱちと瞬きをすると、涙がはらはらと頰を流れ落ちた。高梨くんは私の手首を解放すると、大きく息を吸い込む。膝の上で拳をぐっと握りしめると、意を決したように言った。
「……浅倉。おれ今からめっちゃキモい話するけど、聞いてくれる?」
やけに真剣味を帯びた声色に、私は思わず頷いた。起き上がると、枕元にあったティッシュで鼻をかんで、涙で濡れた頰をごしごしと拭く。背筋をぴんと伸ばして、彼の話を聞く体勢になった。
「おれ、今年の四月くらいから毎晩浅倉の夢見てんねん。変な白い部屋の中にいて、めっちゃくちゃリアルな夢で。ほんで、夢の中では……浅倉のこと璃子って呼んでて、キスしたりとか、他にもいろいろ……ここじゃ言えへんようなこと、いっぱいしてる」
高梨くんの話を聞きながら、私の心臓はどくどくと早鐘を打ちだした。喉がカラカラに渇いている。
まさか、まさかそんなことがあるはずがない。だってあれは私の夢で、私だけが見てる夢で。夢だからこそ、あんなこともこんなこともしてしまったわけで……。
「だんだん夢と現実の境界がわからんくなってきて、現実の浅倉とキス、したいとか……思うようになって。ほんで寝ぼけて……ついうっかり、やってしもた」
一息に言った高梨くんは、ほうっと息をついた。申し訳なさそうに眉を下げて、私の様子を窺ってくる。
「……引いた? 引いたやんな、ほんまごめん……」
私は信じられないような気持ちで、まっすぐに彼を見つめた。優しく抱きしめてキスをして、たくさん好きだと言ってくれる、夢の中だけの私の恋人。そんなの私の頭の中にしか存在しないと、そう思っていたのに。私はおそるおそる口を開くと、震える唇で、愛しい恋人の名前を呼んだ。
「……ハル、くん」
高梨くんが――ハルくんが、ぽかんと口を開いた。顔いっぱいに驚愕の色を浮かべて、まじまじとこちらを見ている。彼は躊躇いがちに手を伸ばして、私の頬にそっと触れた。愛おしむように、頬に残った涙の跡をなぞる。夢の中と同じような、優しい手つきだった。私は彼の手の上から自分のてのひらを重ねて、そっと包み込んだ。
「ハルくん」
今度は確信を持って、繰り返す。
「……璃子?」
確かめるように私の名前を呼んだハルくんに、私は力いっぱい頷いてみせた。
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