ひとりぼっちの夢

 センターライン近くから投げたボールが、バックボードにぶつかって鈍い音を立てる。弾かれたボールをキャッチして、そのままドリブルシュートを決めた。おれ以外に誰もいない体育館の中で、ボールが跳ねる音がやけにうるさく響いた。

 試合終了を告げる非情なブザーの音が今も耳に残っている。幕切れはいつだってあっけないものだ。どれだけ互いに死力を尽くしたとしても、コートの上には勝者と敗者しかいない。

 正直なところ、おれは結構落ち込んでいた。試合に負けた時はいつもそうだ。決して調子は悪くなかったのだから、もっと活躍できたはずだ。あのときパスミスをしなければ、あのシュートを決めていれば。そんなありもしない「もしも」ばかりを考えて、一人で勝手にへこんでしまう。 

 とはいえあの試合から数日が経ち、おれの気持ちもかなり浮上していた。すぐに落ち込むのはおれの短所だが、立ち直りが早いのは長所だ。それでもこんなに早く気持ちを切り替えることができたのは、璃子のおかげかもしれない。

 試合が終わった後、かっこよかったよ、と言っておれの手を握ってくれた璃子の手は温かくて柔らかかった。気持ちが落ちているときに隣に居てくれる人がいるのは、幸せなことだ。おれはもう、絶対にこの手を離したくない。そんなことを考えながら、おれは彼女の手を強く握りしめていた。

 ――このシュートが入ったら、璃子に告白する。

 スリーポイントラインギリギリから放ったシュートは、小気味良い音を立てて見事にゴールネットを通過した。おれは小さくガッツポーズをして、ごろんとコートのど真ん中に寝転ぶ。こうして誰もいない体育館を独り占めするのが、おれは結構好きだ。

 二階の窓から柔らかな陽射しが差し込んできて暖かい。じっと目を閉じていると、ゆるゆると眠気が襲ってきた。昼休み終了まではまだ時間がある。少し昼寝をしてから教室に戻ることにしよう。でもおれ、なんか忘れてる気がするんやけど、なんやったっけ……。



 ――ハルくん。


 ふわふわとした夢と現実の境界の中で、璃子の声がする、とおれは思った。おれのことを「ハルくん」と呼ぶのは、夢の中の璃子だ。こんな場所でこんな時間でも、いつもの夢が見られるのか。ゆっくりと目を開けると、世界で一番大事な女の子がおれの顔を覗き込んでいる。


「……おはよ」

「……お、おはよう……」


 おれは手を伸ばして、璃子の柔らかな頰に触れる。すべすべでもちもちとした肌に指が埋まる。璃子のほっぺたは美味しそうだ。口に入れたらさぞ甘い味がするのだろう、とおれはいつも考えている。そのまま璃子の顔を引き寄せて、いつものように軽くキスをした。

 璃子は呆然と目を見開いて、おれのことを見つめている。戸惑いに瞳を揺らし、何かを確認するように唇に触れた。

 よくよく見ると璃子はパジャマではなく、紺のカーディガンを羽織った制服姿だ。おれが寝転んでいるのも、フカフカのベッドではなく硬い床の上。おれはぱちぱちと瞬きをすると、数秒遅れて現状を把握した。もしかしなくても、これは夢じゃない。


「……あ、浅倉……」


 目の前にいるのは夢の中の璃子ではなく、現実の璃子だ。おれの恋人ではなく、ただのクラスメイトの浅倉璃子。

 さーっと全身の血が冷たくなっていくのを感じながら、おれはその場に跳ね起きた。


「間違えた」


 突然の出来事に、おれはパニック状態になっていた。

 やばい、告白するよりも先にキスをしてしまった。寝ぼけていたとはいえ、女子に勝手にキスをするなんて許されることではない。現実の彼女の唇も、夢と同じくらいに柔らかくて気持ちよかった。もっとキスしたい。馬鹿野郎、こんなときに何を考えているんだ。とにかく、誠心誠意謝らなくては。


「ほんまにごめん、おれ、寝ぼけてて……」


 人形のように凍りついていた璃子の表情が、くしゃりと歪む。唇を震わせながら、ゆっくりと口を開いた。


「……ひどい。さいてい」


 真っ黒い瞳が潤んで、みるみるうちに涙が溢れた。ぽろぽろと涙が頬を流れて、顎をつたってスカートの上に落ちていく。それを見た途端、おれは心臓に鋭いナイフを突き立てられたような気持ちになった。

 涙を拭おうと咄嗟に伸ばした手は、璃子によって振り払われた。言葉よりも何よりも雄弁な拒絶。決して強い力ではなかったけれど、胸の奥が焼けつくようにひりひりと傷んだ。当たり前だ、今のおれに彼女に触れる資格があるとでも思っているのか。泣かせたのはおれだ。泣くほど、嫌だったのだ。

 璃子は立ち上がると、スカートを翻して体育館を出て行った。足の遅い璃子のことだ、おれが走って追いかけたらものの数秒で追いつくだろう。それでもおれは、その場に磔にされたように動けなかった。

 言い逃れのしようもなく、おれは最低だ。ただのクラスメイトである璃子を夢の中で勝手に恋人に仕立て上げて、挙げ句の果てに無理やりキスまでしてしまった。ひどい、最低だと璃子に責められるのも仕方がない。

 でも、本当は――もしかすると璃子もおれのことを好いてくれているのではないか、という自惚れがあった。ここまではっきり拒絶されるとは、思ってもいなかった。おれは本当に馬鹿だ。ハルくんちゅーして、と甘えてくる璃子はおれの妄想でしかない。毎晩のように彼女の夢を見ているうちに、いつのまにか夢と現実の違いもわからなくなっていたのだ。

 茫然自失となっているうちに、予鈴が鳴った。授業どころではなかったが、いつまでもこうしているわけにもいかない。おれは鉛のように重い身体をなんとか動かして、職員室に体育館の鍵を返してから、教室へと戻った。


「ハルトおまえ、どこ行っててん!」


 教室に入るなり、拓海が目を吊り上げておれのところにやってきた。そういえば、今日の昼休みに体育祭のリレーの打ち合わせがあるのをすっかり忘れていた。両手を合わせて「まじでごめん」と平謝りをする。拓海が呆れたように溜息をつくと、声をひそめて尋ねてきた。


「……おまえ、浅倉さんとなんかあったん?」

「え」


 璃子の名前が飛び出してきて、ぎくりとした。拓海は険しい目つきでおれのことを睨みつけている。


「浅倉さん、おまえのこと探しに行くって出てったんやけど……戻ってきたとき、目ぇ真っ赤やったで」


 璃子の泣き顔を思い出して、再びおれの胸はずきずきと痛み出す。下唇を噛んで黙りこくっていると、やや強めの力で背中を叩かれた。


「前にも言うたけど、俺わりとまじで浅倉さんのこといいと思ってるからな」

「……は?」

「おまえといい感じみたいやから諦めてたけど、そうでもないなら、俺本気で浅倉さん狙おかな」


 やめろよ、とか、ふざけんな、とか。カラカラになった喉に貼りついた言葉は、何ひとつとして声にならない。拓海は「打ち合わせ、明日は忘れんなよ」と言い残して、自席へと戻っていく。残されたおれは璃子の方へと視線をついと向けたけれど、露骨に目を逸らされた。

 放課後になると、璃子は逃げるように教室から出て行った。おれは部活に行ったけれど全然集中できずミスばかりして、翔真に怒られた。「おまえがへこんでボーッとしてても、叱ってくれる先輩ももうおらんねんで」という言葉は、かなり耳が痛かった。

 帰宅すると晩飯を食って風呂に入って、日付が変わる前にはベッドに潜り込んだ。おれは今夜もあの夢を見るのだろうか。夢の中でどれだけ好きだと言われたところで、現実の璃子はおれのことが泣くほど嫌なのだ。どれだけ幸せな夢を見たところで、そんなの虚しすぎる。

 眠れるだろうかと思っていたが、部活で疲弊していた身体はあっけなく眠りについた。しかしいつもの夢の中に璃子の姿はなく、おれはあの真っ白い窓のない部屋で一人、彼女のことを待っていた。

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