おはようと言える朝を待っている

 これからどんな顔をして夢でハルくんに会えばいいのだろうと思っていたけれど、それから私たちはぱったりと例の夢を見なくなった。ハルくんは「両想いになったし、これからはもっとやりたい放題できると思ってたのに」と悔しがっていた。今までも結構好き放題やっていた気がするけれど、何をするつもりだったんだろう。

 あの夢は一体なんだったんだろうかと、何度か二人で話し合ったけれど、結局答えは出なかった。きっとハルくんのことを好きで好きでたまらない私が、魂だけ抜け出してハルくんの夢にお邪魔していたのだろう。平安時代にはそういう迷信が信じられていたと、古典の河嶋先生が前に言っていた。

 それはさておき、念願叶って私とハルくんは現実でも恋人同士になった。私たちが付き合い始めたことは何も言わなくてもクラス中に知れ渡っていて「やっぱりな」とか「いまさらやん」みたいなことをたくさん言われた。香苗には「璃子が倒れたときの高梨くんのセリフ、璃子にも聞かせてあげたかったわ」と半分呆れながら言っていた。私も心底聞きたかったし、お姫さま抱っこを覚えていないのもものすごく悔しい。いつか機会があれば、起きてるときにやってもらおう。

 マンションのエレベーターでたまたま翔ちゃんに会ったときに、「ハルトと付き合ったん?」と訊かれた。私が頷くと、翔ちゃんは珍しくちょっと嬉しそうな顔をした。それから、「もし別れるなら俺らが引退した後にしてな、ハルトのメンタルがボロボロになるから」と言われた。付き合い始めたばっかりなのに別れる前提で話をするなんて酷い。翔ちゃんはやっぱり、人として大切なものが欠如していると思う。

 それから月日は経ち、秋が終わり冬を越えて、また春がやって来た。高校三年生になった私たちはクラスが別れてしまったけれど、合間を見つけては二人の時間を過ごしていた。それでも部活に打ち込むハルくんは日夜練習に明け暮れており、なかなか二人きりにはなるチャンスはない。誰もいない教室や、私と彼の部屋で隙を見てキスはしていたけれど、それ以上のことはまだできていなかった。

 夢の中ではあんなに何度も彼に抱かれたのに、私は未だ処女である。



 ゴールデンウィークを間近に控えた帰り道のことだった。部活終わりのハルくんは暑いのか、相変わらずブレザーを着ずにカッターシャツを腕まくりしている。私は制服の赤いリボンの代わりに、ネクタイを締めていた。言うまでもなく、ハルくんのネクタイだ。


「璃子、今週の土日ひま?」


 自転車を押しながら並んで歩いていると、ふいにハルくんが切り出した。受験生である私は塾に通っているけれど、今週の授業は土曜のお昼だけである。ハルくんにそう伝えると、彼はちょっと気まずそうに頬を掻いた。


「おれも、土曜も日曜も午後から部活なんやけど……夜、うち泊まりに来ーへん?」

「え」

「母さんが東京におる父さんのとこ行くんやけど、櫂人も友達のとこ泊まりに行くらしいから……よかったら」

「は、ハルくんそれって……」


 私の頰はみるみるうちに熱を持っていく。ハルくんの言わんとしていることは、さすがにわかる。誰もいないおうちにお泊まりをするということは、そういう……ことなのだろう。私が下を向いてもじもじしていると、ハルくんが慌てたように言った。


「あ、さすがに泊まりは……まずいかな」

「……ううん。大丈夫……やと思う。行きたい」

「まじで!? やった!」


 はしゃいだ声を出したハルくんは、その場でぴょんぴょんと飛び上がる。私はこういう彼のいかつい見た目に似つかわしくない、かわいいリアクションが好きだ。三年生になって彼はまた少し背が伸びたらしく、もう百八十センチ近くはありそうだ。話しているとちょっとだけ首が痛くなってしまう。


「めっちゃ楽しみやな。部屋めちゃめちゃ掃除しとくわ」

「や、やっぱり私もハルくんのお部屋で寝るんやんな……?」

「え? 当たり前やろ。一緒に寝よ」


 さらりと言われて、私の体温はますます上昇する。そ、そんなストレートな……! アワアワとしている私を見て、ハルくんもつられたように赤くなる。


「あ、いや、変な意味じゃなくて! 璃子に泊まりに来て欲しいのも、それが目的とかちゃうし……下心とか全然ないし……」

「……ほんまにないの? 下心……」

「嘘です、めちゃめちゃあります……」


 項垂れて素直に答えたハルくんがかわいくて、私はくすりと笑みを溢す。私にだって下心があるのだから、ないと言われる方が困る。時間を気にせずイチャイチャしたいのは、私だって同じだ。かつての夢の中みたいに、一晩中ずっと一緒にいられたら素敵だなと思う。

 いつのまにか、私のマンションの前に着いていた。付き合ってから半年近くが経った今でも、別れる瞬間は名残惜しい。ハルくんはキョロキョロと周りを見回して誰もいないのを確認してから、軽く唇を合わせる。ほんの数秒触れるだけの短いキス。それだけじゃ足りないと思っているのは、きっと私だけではない。


「……お泊まり、楽しみやなあ」

「おれも」

「一晩中ぎゅーっとしててね」

「……たぶんぎゅーだけじゃ済まんけどな」

 そう呟いて、ハルくんはもう一度だけ唇を重ね合わせてきた。





 璃子と付き合い始めて、はや半年が経とうとしている。念願叶ってかわいい彼女ができたおれは幸せいっぱいだ。恋人同士にありがちな小さな諍いはありつつも、総合的に見ると仲良く楽しくやっていると思う。ひとつ不満があるとしたら、おれが部活ばかりで忙しく、なかなか二人きりになれないことである。

 今になって思うと、毎晩のように夢で会えた頃はよかった。誰にも邪魔されない二人きりの空間があることの幸せを、当時のおれは気付いていなかったのだ。まあ、あの頃はただの夢だと思っていたから仕方ない。たまに互いの部屋に遊びに行くことはあるが、階下に家族がいると思うと、なかなか最後まではできない(結構、危うい橋を渡ってはいるのだが)。購入した避妊具の出番は未だになく、おれは半年間欲求不満を募らせている。

 そんなおれに、絶好のチャンスが到来した。ゴールデンウィーク最初の土日、母さんが東京にいる父さんの元に行くのだという。「櫂人と留守番しといてな」と言われたおれは、速攻で櫂人の部屋に行って頭を下げた。


「頼むから、今度の土日友達んちに泊まりに行ってくれへん?」


 おれの意図を察したらしい櫂人は、やや呆れたように言った。


「兄貴、璃子ちゃん連れ込む気やろ……」

「当たり前やろ! 頼む、おれ絶対このチャンス逃したくないねん!」

「もっと余裕持てや。ガッつく男は嫌われるで」


 おれは何故弟に説教されているのだろうか。半年もおあずけを食らっているのだから、多少ガッついてしまうのも無理はないではないか。夢の中で何度も味わった快感を、おれは今でも忘れられない。


「おまえが欲しがってたスニーカー、今度買うたるから……」

「まじ? ラッキー。ほんなら、ゆうみの家泊まらしてもらお」


 櫂人はそう言って、スマホを取り出して彼女にLINEを送り始めた。櫂人は無事、彼女のゆうみちゃんと同じ高校に進学できたらしく、今も家族公認の仲睦まじい交際を続けている。ちなみに奴の通っている高校は、おれよりも数段偏差値が高い。兄より優れた弟はいない、なんて絶対に嘘だ。

 勇気を出して璃子に泊まりに来ないかと言ってみると、彼女は照れながらも「行きたい」と言ってくれた。「一晩中ぎゅーっとしててね」などとかわいいことを言う彼女に、果たしておれは優しくできるだろうか。夢の中では最初痛い思いをたくさんさせてしまったから、今度はもう少し気持ち良くさせてあげられるといいのだけれど。



 璃子が泊まりにくる当日の朝。おれはこの上なく念入りに部屋を掃除して、ベッドのシーツと布団カバーも洗濯した。コンドームはベッド脇の引き出しの中にしまっておく。部活を終えて帰ると、速攻でシャワーを浴びる。風呂場から出てきたところで、璃子から「もうすぐ着くよ」というLINEが届いた。ほどなくして、インターホンが鳴らされる。走って玄関に向かうと、扉を開けた。


「璃子! 入って」

「お、お邪魔します」


 紺色のボストンバッグを抱えた璃子が、ぺこりと頭を下げた。璃子はここに何度も来ているけれど、完全に二人きりになるのは、付き合う前にバスケの試合を観に行ったとき以来だ。璃子はやや緊張した面持ちで、リビングに足を踏み入れた。


「私、チーズケーキ作ってきてん。よかったらごはんの後で一緒に食べよ」

「まじ? めっちゃ嬉しい。チーズケーキ好き」

「ハルくん、何でも好きって言ってくれるから好き」


 璃子がそう言って笑ったので、おれは我慢できずに彼女を抱きしめた。璃子の腕がおれの背中に回されて、互いの身体が少しの隙間もなくぴたりと密着する。唇を塞ぐと、やや強引に舌を捻じ込んだ。こんなにがっつりキスをするのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。璃子の舌がおれの舌に絡められた瞬間、おれは彼女をソファに押し倒していた。夢中になってキスをしていると、軽く胸を押される。


「ん、は、ハルくん……」

「……ん?」

「……チーズケーキ、冷蔵庫に入れなあかん……」

「……はい、すみません」


 言われてようやく我に返った。おれの下から這い出した璃子は、ボストンバッグから出した箱を冷蔵庫にしまう。二人きりになってすぐ押し倒すなんて、どんだけ必死やねん、と自嘲する。おれは本当に堪え性がない。ガッつく男は嫌われるで、という弟の言葉を思い出して冷や汗をかいた。


「晩ごはん、外で食べるやんな?」

「うん、ラーメン食いにいかへん? おれのオススメの店あるんやけど」

「食べたい!」


 無邪気に笑った璃子の顔を見て、またしても不埒な欲が湧き上がってくる。それを誤魔化すように小さな手を取って、ぎゅっと握りしめた。



 家の近所のラーメン屋に二人で行った。おれはラーメン大盛りとチャーハン、璃子はラーメンの小を頼んだ。餃子を半分こしようと言うと、ニンニクが入っているから嫌だと拒まれた。二人で臭くなれば平気だろうと言ったのだが、璃子は頑として折れなかった。おれ一人でニンニク臭くなるのは嫌だったので、結局餃子は諦めた。

 店を出た後、どちらからともなく手を繋いで歩き始めた。二人で同じ家に帰るのってなんかいいな、と思う。涼しい夜風が璃子の髪をふわりと揺らして、甘い匂いが漂ってきた。途中で知り合いのおばさんに目撃されてしまって、さんざんからかわれたけれど手は離さなかった。

 家に帰ると、二人で璃子の作ったチーズケーキを食べた。璃子の作るお菓子は何でも美味い。璃子はニコニコ笑って、ケーキを食うおれを見つめていた。「ハルくんの顔見てるだけでおなかいっぱいになる」と言う璃子はやけに幸せそうだった。


「風呂入る?」


 時刻はまだ夜の九時だったけれど、正直なところおれは早く璃子とイチャイチャしたくて仕方がなかった。ソファに座ってテレビの野球中継を見ていた璃子は、少し考える様子を見せてから「ハルくんの後がいい」と答える。


「……一緒に入らへん?」

「ぜ、絶対無理!」


 ダメ元で提案したのだが、予想以上にきっぱりと拒絶されてちょっと落ち込む。うちの風呂はそこそこ広いし、二人で入る余裕は充分あるのだが。少し粘ってみたが璃子は折れず、おれは諦めて風呂場に向かった。

 風呂から出ると、璃子は同じ体勢でテレビを見ていた。ソファの上で膝を抱えて三角座りをしている様は、ちょっと面白い。


「璃子。風呂入ってこれば?」

「う、うん……じゃあ、お借りします」


 璃子はそう言って立ち上がると、ボストンバッグから着替えやポーチを出して風呂場へと消えていった。テレビに視線をやると、ちょうど贔屓チームがホームランを打たれたところだった。おれは舌打ちをしてテレビを消す。風呂場からわずかに響く水音を聞きながら、突撃してやろうかな、という悪戯心が湧いてきたが、璃子に嫌われたくないのでやめた。


「お、お風呂いただきました……」


 しばらくして風呂から出てきた璃子は、ボーダーのパジャマを着ていた。おれは今まで夢の中で璃子のパジャマ姿を何度も見てきたけれど、やっぱりかわいい。ボタンを外して脱がした記憶まで蘇ってきて、下半身の熱が高まるのがわかった。


「……おれの部屋行こ」


 そろそろ我慢の限界だ。璃子の手を引いて階段を上り、部屋に入って扉を閉めた。電気もつけずに抱きしめると、璃子もぎゅっとおれにしがみついてくる。今日干したばかりの布団に押し倒すと、璃子の髪からいつもの匂いとは違う、おれと同じシャンプーの匂いがした。ただそれだけのことで、どうしようもなく興奮してしまう。

 仰向けになっている璃子に、何度も何度もキスを落とす。パジャマの裾から手を差し込むと、璃子が「あっ……」と小さな声をあげた。


「スタイル良くないけど、幻滅せんといてね……」

「……璃子のハダカ、何回も見たから大丈夫」

「夢の中やし、多少補正かかってるかも……」


 璃子が自信なさげにボソボソと呟く。もし補正があるならもうちょっと巨乳になるんとちゃうかな、と思ったけど、それを口に出さないだけのデリカシーはギリギリ持ち合わせている。


「……今度は痛くせんようにがんばる」

「大丈夫、心意気は非処女やから……」


 ハルくんのしたいようにして、いいよ。甘い声でそう囁かれると、理性なんていとも容易く吹き飛んでしまいそうになる。それでも、出来る限り優しく大切にしてやりたい。おれは璃子のふっくらとした頰を撫でると、二度目の「はじめて」に挑むべく彼女にキスをした。



 結果から言うと、一度目の「はじめて」に比べると首尾は上々だった。挿入直前でおれのものが萎えることもなかったし、痛さのあまり璃子が泣き出すこともなかった。さすがに破瓜の痛みはあったようだし、最初からイカせまくりなんてことはなかったが、それでも璃子は幸せそうだったし、おれも幸せだった。

 ようやく役目を果たしたゴムを縛って、ゴミ箱に捨てる。ベッドにぐったりと横たわった璃子は、潤んだ瞳でおれを見ていた。おれは彼女の隣に寝転ぶと、ぎゅっと抱きしめて頬にキスをする。


「……何回も痛い思いさせてごめんな」

「ううん。ハルくんとのはじめてが二回も味わえるなんて、ちょっと得した気分」


 そう笑って璃子はピースサインをした。どこまでもかわいくて健気な彼女に、胸の奥から愛おしさがこみ上げてくる。こんなにかわいい女の子がおれの恋人だなんて、未だに信じられない。もしかすると盛大なドッキリに引っ掛けられているのかもしれない。もしドッキリだったとしても、これだけ良い思いをさせてもらっているのだから、まったく後悔はしないだろうが。

 眼前にある璃子の瞼が重たげに落ちてくる。体力のない璃子のことだ、きっと疲れてしまったのだろう。「眠い?」と問いかけると、璃子はいやいやをするように首を振る。


「せっかく、ハルくんと一緒にいるんやから、まだ寝たくない……」


 そう言いながらも、璃子の目つきは眠そうにとろんと蕩けている。おれは彼女の黒い髪をあやすように撫でた。


「……また、ハルくんとおんなじ夢が見れたらいいのに。そしたら、ずっと、ハルくんと……」


 璃子の声がだんだん小さくなって、ついには消えてしまう。しばらくするとすやすやと穏やかな寝息が聞こえてきて、おれはちょっと笑ってしまった。どうやら璃子はめちゃくちゃ寝つきがいいらしい。安らかな寝顔を見ていると、なんだかおれも眠たくなってきた。


 ふにゃふにゃと幸せそうに口元を緩めている璃子は、もしかするとおれの夢を見ているのだろうか。そうだったらいいな、と思う。おれは小さな耳にそっと唇を寄せると、愛しい恋人に囁いた。


「おやすみ、璃子」


 これは夢ではないのだから、目が覚めたときもきっと、彼女はまだおれの腕の中にいるのだろう。二人で朝日を浴びておはようと笑い合って、目覚めのキスのひとつでもしてくれるかもしれない。そんな幸せな朝に期待しながら、おれはゆるゆると夢の中へと落ちていった。




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