マーキング

 十月も後半になると、うんと気温が下がって秋らしい気候になってきた。何年か前の卒業生が植えたらしい記念樹の葉も、すっかり黄色に染まっている。

 半年ぶりに引っ張り出してきた紺色のカーディガンは、まだ少しだけ防虫剤の匂いが残っている。それにしても今日はひときわ寒い。教室に置いてきたブレザーを持ってきたらよかった。冷たい風が吹き抜ける中庭に人はまばらで、ウッドデッキに腰を下ろしてお弁当を広げている私たちは異端だった。

 今日のお昼ごはんのメンバーは、私と香苗、いつかちゃんの三人だ。香苗といつかちゃんにはこれまでほぼ接点がなかったけれど、私を介して仲良くなったみたいだ。二人ともさっぱりとした体育会系なので、相性が良いのだろう。

 周りに人がいないので、私は思う存分余すところなく、先日のデートの感想を二人にぶちまけていた。

 私服姿も素敵だった、試合を見てはしゃいでる高梨くんがかわいかった、一緒に手を繋いで歩いた、誕生日プレゼントにリストバンドをあげた、一緒に食べたパスタが美味しかった、おうちに遊びに行ってお母さんに挨拶をした。

 最初はうんうんと頷いていた香苗の表情が、次第にげんなりしたものへと変わっていく。さすがのいつかちゃんも、苦笑いを浮かべていた。


「それ、どう考えても両想いやん」

「……やっぱりそう思う? 私の自意識過剰ちゃうよね?」


 手を繋いで家に連れて行かれたら、さすがの私だってかなり自惚れてしまう。ここ数日の私の有頂天っぷりときたらかなりのもので、足元がふわふわしているような気さえしていて、普段以上のどんくささを発揮している。今朝はぼーっと歩いていたら危うく階段を踏み外しそうになって、隣にいた高梨くんが咄嗟に支えてくれた。がっしりとした腕に掴まれて、胸の奥がきゅんと音を立てた。高梨くんが好き。どんどん、好きになってしまう。


「やっぱりあのリストバンド、璃子ちゃんがあげたんや。高梨くんがめっちゃ嬉しそうに見てるから、そうなんかなって思っててん」


 いつかちゃんの言葉に、私もニヤニヤと頬を緩めてしまった。

 彼の手首に巻かれた、濃いブルーのリストバンド。私のあげたものが高梨くんの身体に巻きついていると思うとどきどきする。できればもう少し未来、具体的には左手の薬指なんかに、私とお揃いのシルバーの輪っかが巻きついていればいいのに、と思う。


「めっちゃ順調やん。このままいったらすぐにでも付き合えるんちゃう?」

「うーん……でも、ちょっと気になってることがあって」

「なに?」


 私は一応周りをキョロキョロと見回して、近くに人がいないことを確認する。二人を手招きして顔を近づけてから、声を潜めて言った。


「……その、高梨くんの部屋に……こ、コンドーム、置いてあって……」

「さ、最低!」


 大声をあげたのは香苗だった。形の良い眉を吊り上げ、顔を真っ赤にして憤る。


「なにそれ、じゃあ最初っからヤる気で璃子のこと家に連れ込んだってこと!? 付き合ってもないのに!?」

「か、香苗。声おっきい」


 私が人差し指を唇に押し当ててみせると、香苗がむぐっと口を噤む。眉間には未だ不服そうな皺が刻まれていて、私を透かしてここにはいない高梨くんのことを睨みつけているようだった。


「……私のために用意したんかな?」

「そりゃそうやろ」


 香苗が頷く。私のために用意してくれたものなら、それならまだいい。私だって、彼のおうちに行ったのは、そういう下心があったからなのだ。でも。


「でも、開封済やってん……」


 彼の枕の下に置かれていた、開封済の避妊具の箱。ただそれだけが、幸せいっぱいの私の心に、消えないシミとなってこびりついている。

 もしかして私以外にも、彼の部屋に来た女の子がいるのかもしれない。私以外の女の子に使われたものなのかもしれない。そんなことを考えたくはないのに、嫌な妄想ばかりが働いてしまう。


「……それ、ますます最低ちゃう? 他に女いるってこと?」

「うーん、でも、高梨くんそんなタイプちゃうと思うけどな……」


 よりいっそう表情を険しくする香苗に、いつかちゃんがフォローを入れるように言った。


「高梨くんアホやけど、不特定多数の女の子とそういうことする人ちゃうと思う。たぶん、遊び半分で女の子に手を出したりせーへんよ。アホやけど……」


 いつかちゃんは渋い顔で「アホ」と二回も言った。男バスのマネージャーとしてはいろいろと男同士の話が耳に入ってくるだろうし、思うところがあるのかもしれない。


「まあ、付き合ってへんのにゴム用意してんのは謎やけど……。ほんまアホやな。早く告白すればいいのに」

「もう、璃子の方から告れば?」

「……告白、したいけど……どっちにしても、ウィンターカップが終わってからやなあ。邪魔したくないし」


 バスケ部にとっては、インターハイに並ぶ重要な公式戦であるウィンターカップ。予選は来週末から始まる予定だ。高梨くんはめでたくレギュラーに選ばれたらしく、かなり張り切っているようだ。この大事な時期に、彼の気持ちを少しでも揺さぶりたくない。私だってそりゃあ高梨くんと付き合えたら素敵だなと思うけれど、それ以上に私はバスケに打ち込んでいる高梨くんが大好きなのだ。


「あ、でも応援は行く! 絶対行く!」

「ありがとうー! 璃子ちゃんがおったら、誰かさんがめちゃめちゃ調子良いからありがたいわ」

「ほんま、高梨くんってあからさまやんなあ」

「え? そんなにあからさまかな?」


 私が首を傾げると、香苗が呆れたように溜息をつく。


「知ってる? 今うちのクラスみんな、高梨くんと璃子のことめっちゃ生温く見守ってんで」

「な、なまぬるく……」

「どう見ても両想いやのになんで付き合ってへんのやろ、早く付き合えばいいのに、って」

「そ、そんなこと思われてたん!?」


 今まで周りの目を気にせずに高梨くんと話していたけれど、そんなことを思われていたなんて全然気付かなかった。私、そんなにバレバレやったかなあ。これからは妙に意識してぎこちなくなってしまいそうだ。


「あ、噂をすれば高梨くん」


 いつかちゃんの言葉に、私はぐるんと首を回す。

 うちのクラスは一階の一番端っこだ。教室の窓から顔を出した高梨くんが、キョロキョロと何かを探すように視線を彷徨わせている。しばらくすると私たちの方を見て、ぱっと表情を輝かせた。まるで飼い主を見つけたペットの犬みたいだ。例えるならば、目つきの悪いシベリアンハスキー。小さく手を振ると、ひょいと窓を乗り越えてこちらに駆け寄ってくる。


「浅倉!」

「た、高梨くん。どしたん?」

「これ、貸そうと思って持ってきてたん忘れてた。こないだ言うてた漫画。六巻やっと発掘した」

「ほんま? わざわざごめんね、嬉しい!」

「とりあえず九巻まで読んで!」

「ありがとう!」


 私が紙袋をぎゅっと抱きしめると、高梨くんは「続きは今度貸すわ」と目を細めて笑う。当たり前のように次の約束ができることが嬉しくて仕方がない。またおうちに遊びに行ってもいいかと尋ねるのは、ちょっと大胆すぎるだろうか。


「浅倉、こんなとこでメシ食ってたん? 今日寒くない?」


 高梨くんは肩の凝るブレザーがあまり好きではないらしく、カッターシャツの上から部活のジャージを着ていた。私が「結構寒い」と言うと、ジャージを脱いで手渡してくれる。


「それ、貸したるわ。部活始まる前までに返してくれたらいいから」

「い、いいの?」

「昨日洗濯したとこやから臭くないと思う、たぶん」


 高梨くんの匂いだったら、臭くたって全然いいのに。「ほな」と軽く手を上げて、高梨くんは再び教室へと戻っていった。窓のさんをよじ登っているところを先生に見つかって「高梨、そんなとこから出入りすんな!」と怒鳴られている。叱られてちょっとだけしゅんとしている、シベリアンハスキー。


「すごい、マーキングに余念がない」

「高梨くん、わたしらのことまったく視界に入れてへんかったな……」

「早く付き合えば?」


 呆れたようないつかちゃんの言葉も、投げやりな香苗の言葉も、今の私の耳には入らない。私はいそいそと濃紺のジャージを羽織る。予想していたことだけど、サイズがかなり大きかった。なんだか彼に抱きしめられているようで、胸がどきどきする。

 だぼだぼの袖を鼻のあたりに持っていって、すんすんと匂いを嗅ぐ。私の家のものとは違う洗剤の匂いに、どこか爽やかな汗の匂いが混じっている。不思議なことに、夢の中でいつも私を抱きしめているハルくんの匂いとまったく同じだった。

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