夢の中なら云えるのに

 部活帰りの男子高校生の胃袋は、空腹のあまり限界を訴えていた。「腹減って死ぬ」と嘆いたおれの言葉に同意した翔真と二人、アリジゴクのようにコンビニへと吸い寄せられる。

 いらっしゃいませ、と小さく頭を下げる男性店員は、愛想はなかったが手際は良かった。餓死寸前の俺たちにとってはありがたい話だ。「袋いらないです」と言って、白い包み紙に入った激辛カレーまんを受け取る。

 あまり行儀は良くないが、コンビニ前で立ったままカレーまんを頬張った。激辛、という謳い文句ほどには辛くない。若干拍子抜けしたが、美味いことは美味いのでまあよしとする。


「それ、辛い? 璃子がこないだ買ってんの見た」

「まじ? 浅倉こーゆーの食うんや」

「あいつ意外と辛いの好きやねん。まあ、どうでもいいけど」


 翔真はそう付け加えたが、おれにとってはどうでもよくない情報である。気になっていた激辛ラーメンの店に今度誘ってみよう、とおれは考えた。

 薄紫の空には、少し欠けた白い月がぽっかりと浮かんでいる。まだ十月だというのに、気の早い冬のような寒さだ。

 ブレザー代わりに羽織ったジャージの襟を合わせると、首回りからほのかに甘い香りがしたような気がした。そういえば今日は午後からずっと、璃子がこのジャージを着ていたのだった。今度は意識して匂いを嗅いでみたが、おれの汗の匂いしかしなかった。くそ、残念。

 おれのジャージを羽織る璃子の姿を思い出してみる。でかでかと背中に高校名が書かれた濃紺のジャージはサイズが合っておらず、肩も腕も余っていた。うちのクラスに男子バスケ部はおれしかいないし、あのジャージがおれのものだというのはクラス全員が把握していただろう。そうでなければ困る。彼女はおれのものだと、多少卑怯な手を使ってでも知らしめてやりたい。

 ……まあ、実際のところ現実の璃子は、おれのものでもなんでもないのだけど。

 ここ最近はますます夢と現実の境界があやふやになってきて、どんどん自分の思考回路があやしくなってきている。翼には「ハルト、付き合ってもないのに浅倉さんに触りすぎちゃう?」と呆れられてしまった。

 そんなことを言われても、璃子を目の前にするとめちゃめちゃに構い倒したくて仕方なくなるのだ。本音を言うなら抱きしめたいしそれ以上のこともしたい。堂々と彼女を抱きしめられる権利が、現実のおれにもあればいいのに。


「……おれ、告白しよかなあ」


 独り言のようにポツリと呟いた言葉は、隣で唐揚げを食っている翔真の耳にも届いたらしい。目線だけをこちらに向けて(女を殺すイケメンの流し目だ)、小さく首を傾げる。


「誰に?」

「……浅倉に」


 そう答えると、翔真は無言のまま唐揚げを頬張った。もぐもぐと咀嚼したまま、いつまでたっても何も言わないので、耐えかねたおれは「なんか言えや」と奴の頭を軽くはたいた。


「……いや、びっくりしてて」


 そう言った翔真の表情はいつもと変わらず眠そうで、あまりびっくりしているようには見えなかった。こいつの表情筋は死んでいるのかもしれない。


「ハルト、璃子のこと好きやったん?」

「……やっぱり気付いてなかったんや」

「全然気付かんかった」


 今やクラスのほぼ全員におれの気持ちが知れ渡っているというのに、やっぱり翔真は筋金入りの鈍感だ。翔真はぼんやりと遠い目をして、何事か考えているように見える。おれは乾いた唇を湿らせてから、口を開いた。


「……翔真、やっぱり璃子のこと好きとか、言わんよな?」


 正直なところ、おれはずっとそれが怖かった。当人たちはそれほど親しくないと言うけれど、それでも二人のあいだには幼馴染特有の気心の知れた遠慮のなさがある。それはきっと、今のおれには踏み込めない領域だ。


「それはない。俺、ハルトと璃子が付き合ったら嬉しいと思う」


 おれの屈託を跳ねのけるように、翔真がきっぱりと答えた。


「ただ、ハルトが璃子のこと泣かせたりしたら、たぶん怒る。その程度には、俺たぶん璃子のこと大事に思ってる」


 言葉を選びながら、日頃口数の多くない翔真がゆっくりと喋る。翔真は無口で無愛想で無神経だが、嘘のつけない男だ。おれはこいつのそういうところを信頼している。


「ほんで、もしハルトが璃子に泣かされたら、ラーメン奢って慰めたるわ。俺、ハルトのこともまあまあ大事やから」

「……おまえ、クサいこと真顔で言うなー」


 おれはさすがにちょっと照れた。口に出して男同士の友情を確かめ合うつもりもない。唐揚げを食べ終わった翔真は、ペットボトルのお茶を傾けながら言った。


「でも、璃子に告白するんやったら、ウィンターカップ終わってからにしたら?」

「え、なんで?」

「ハルト、めっちゃメンタルにプレイ左右されるタイプやん。浮かれてるときはめっちゃ調子良いし、逆に落ちてるときはボロボロやし。もし璃子に振られたらどうするん?」


 おれは言葉に詰まった。たしかに翔真の指摘は的を射ている。もしおれが今璃子に振られてしまったら、おれは傷心のあまり試合どころではなくなってしまうだろう。大事な公式戦で、せっかくレギュラーにも選ばれたというのに、それは困る。


「……ウィンターカップ終わってからにする」

「ほな、来年まで無理やな。予選リーグ通過するんやろ」


 しれっと言って拳を突き出した翔真に、おれは「当たり前やろ!」と笑って答える。ごつんと拳を突き合わせると、翔真は唇の端をちょっとだけ上げて笑んだ。これがソシャゲのガチャならレアリティSSRクラスの笑顔だ。もしこの顔を翔真のファンが見ていたならば、卒倒していたに違いない。




 異常なまでに解像度の高い夢の中で、おれは今日も好きな女の子を抱いている。どこもかしこも真っ白い不思議な部屋の中では、璃子の姿だけが極彩色だ。

 熱を吐き出したおれは、ぐったりと璃子の上に倒れ込んだ。背中に回されていた璃子の手がおれの頭を優しく撫でる。やけに愛を感じる仕草だ、と荒い息を吐きながらぼんやり考えた。どれだけ互いに愛を確かめ合ったところで、この夢はおれのひとりよがりな自慰行為でしかないのだけれど。


「……璃子」

「なあに、ハルくん」


 名前を呼ぶと、嬉しそうに微笑んで答えてくれる。璃子が好きだ。寝ても覚めても彼女のことばかりを考えて、一挙一動から目が離せなくて、笑った顔が見たくて、独り占めしたくて、彼女のためなら何でもしてあげたい。この気持ちを恋と呼ぶのなら、今までおれが恋だと思っていたものはきっと恋ではなかったのだろう。初めての感情に心がぐちゃぐちゃに掻き乱されてばかりで、どうしようもなく幸せで苦しい。

 おれは起き上がって精液の溜まったコンドームを取ると、ベッド脇のゴミ箱に捨てた。やたらと都合の良い部屋の中には、避妊具やティッシュ、ゴミ箱といった性行為に必要なものだけ、必要なときにひっそりと現れるのだ。奇妙だが、夢なのだから仕方ない。

 おれがベッドにごろんと横になると、甘えるように璃子が擦り寄ってきた。かわいいやつめ、と思いながら頭を撫でてやると、璃子がおれの首筋に顔を埋めて呟く。


「……高梨くんの匂いがする。なんでやろ」


 夢の中の璃子はおれのことを「ハルくん」と呼ぶけれど、時折不思議なタイミングで「高梨くん」と呼ぶ。現実の璃子が一瞬重なって、どきりとした。


「……そりゃあ、おれの匂いがすんの当然やろ」

「そうなんやけど、そうじゃなくて……」


 璃子はすんすんと鼻を鳴らして、おれの匂いを嗅ぎ続けている。うっとりと目を細めて「この匂い、好き」と呟いた。汗もかいているし、そんなに芳しい香りでもないだろうに。


「璃子」

「なに?」

「好き」


 黒い瞳をまっすぐ見つめて言うと、璃子は嬉しそうに微笑んだ。夢の中ではいとも容易く言える二文字を、果たして現実のおれはすらすらと口にできるだろうか。


「私も好き」


 当たり前のようにそう答えてくれる璃子を抱き寄せる。かりそめの幸せを噛み締めながら、どうか起きてるときにも同じ言葉を返してくれますように、とおれは心の底から願った。

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