デート②
自宅へと向かう道を歩きながら、おれは「どうしてこうなった」と考えていた。少し後ろを歩く璃子がどんな顔をしているのか見たくなくて、おれは前を向いたままずんずんと歩く。離すタイミングを逃した左手は、彼女の右手をしっかりと掴んだままだ。
――私、まだ帰りたくないなあ。
璃子の言葉を聞いた瞬間、理性がぐらりと揺らいだ。離れがたいのはおれも同じだった。今日一日すごく楽しくて幸せで、この時間をまだ終わらせたくなくて。気付けばおれは「うち来る?」と口走っていた。璃子を好きになるまで、自分がこんなに積極的だったなんて知らなかった。
思えば今日のおれは、ずいぶんと調子に乗っていた。付き合ってもいないのに手を繋いだのはやりすぎだったかもしれない。もしかするとおれは、これから手を繋ぐよりもっとすごいことをしようとしているのだろうか。使うつもりはなかった財布の中の避妊具の存在を思い出して、なんだか胃が重苦しくなってきた。
そんなことを考えているうちに、家の前まで来てしまった。振り返って「おれんち、ここ」と言うと、璃子が「大きいおうちやね」と呟く。繋いだ手をようやく離すと、鞄から鍵を出して扉を開けた。
「入って」
「お、おじゃまします……」
璃子がぺこりとお辞儀をして、おずおずと玄関に足を踏み入れた。小さなスニーカーを脱いできれいに揃える。何の物音もせず、廊下もリビングも真っ暗だったので、おれはなんとなく嫌な予感がした。
「ただいまー。櫂人、帰ってきてる?」
呼びかけてみたが、返事はない。弟の塾は八時までのはずだが、どこかで寄り道でもしているのだろうか。
今日母は仕事仲間と食事に行くと言っていたし、帰りは十時近いだろう。ということは、今この家にはおれと璃子の二人きりということになる。自覚した途端に、ぶわっと全身の体温が上昇した。
「……弟もまだ帰ってきてへんみたい」
「あ、そうなんや……」
「えーと、とりあえず、おれの部屋……」
行こ、と言おうとしたところで、散らかり放題の自室の現状に思い至った。あんな足の踏み場もないところに、璃子を入れるわけにはいかない。おれは璃子の両肩をがしりと掴んだ。
「ごめん、部屋片付けてくるからちょっと待ってて!」
「え? 私、散らかってても大丈夫やで」
「いや、おれが無理! まじでやばいねん! さすがに浅倉には見せられへん!」
「そ、そんな変なものがあるん…?」
璃子は頰を染めた。何か勘違いをしているのかもしれないが、否定する時間も惜しい。とりあえず璃子をリビングに連れて行くと、「ここでちょっと待ってて」と言って、ゴミ袋を引っ掴んで二階に続く階段を駆け上がる。
廊下の手前にあるおれの部屋に飛び込むと、そこらじゅうに散らばったゴミを手当たり次第にゴミ袋に突っ込んだ。ゴミ箱もひっくり返して空っぽにする。床に落ちているあれやこれやを拾い集めて、とりあえずクローゼットの中に押し込む。掃除機もかけたいところだったが、さすがにそこまで璃子を待たせるわけにはいかない。リビングに戻ると、璃子は何故かソファの上で正座していた。
「……何してんの」
「いや、なんか落ち着かへんくて……」
璃子がキョロキョロと目を泳がせる。もしかすると彼女も緊張しているのかもしれない。おれは意識をしているのを悟られないよう、平然を装って「おれの部屋行こ」と言った。璃子はこくりと頷いて立ち上がる。
階段を上ると、トントン、と後ろから小さな足音が聞こえてくる。扉を開けて璃子を部屋に招き入れた。璃子はぺこりとお辞儀をして、足を踏み入れる。
「えーと、適当に座って」
とは言ったものの、おれの部屋にはソファも座椅子もない。璃子は少し悩むそぶりを見せた後、ベッドの上にぽすんと腰を下ろした。おれのベッドに璃子が座っている、という事実に頭がくらくらする。今おれがほんの少し肩を押したら、華奢な身体はすぐシーツの上に沈んでしまうだろうに。やっぱり璃子は危機感が足りない。
おれは心を落ち着けるために大きく息を吸い込むと、フローリングの床の上に腰を下ろす。遊びに来たのが男友達だったら適当にゲームでもするところだが、璃子をスマブラでボコボコにするわけにもいかない。カフェで話していたときはすごく盛り上がったのに、おれの部屋に来た途端に妙に意識してしまって、言葉がうまく出てこない。
「バスケのものがいっぱいある」
璃子は興味深げにキョロキョロと部屋を見回しながら言った。壁にかかったNBAプレイヤーのポスターやユニフォーム、本棚に並んだバスケ雑誌、床に転がっているバッシュやバスケットボールのことを言っているのだろう。
「あの箱は何?」
「たぶん昔ハマってたカードとかが入ってるやつ」
「あっ、あれ高梨くんの好きなバンドのTシャツや」
「……おれの部屋、そんなおもろい?」
璃子があんまり楽しそうなので、思わず問いかけた。璃子は力いっぱい「うん!」と頷く。
「高梨くんの好きなものがいっぱいあって面白い! 高梨くんの部屋やなあって感じ」
璃子がニコニコとそう言った瞬間、おれの胸はきゅんとおかしな音を立てた。おれが好きなものに興味を示して、一緒になって面白がってくれる璃子が好きだ。せり上がってきた気持ちが喉から飛び出しそうになったところで、璃子がしみじみと言った。
「なんか、やっぱり翔ちゃんの部屋とは雰囲気ちゃうね」
そういえば、璃子が男の部屋に来るのは初めてではないのか。ごく自然に出てきた彼女の幼馴染みの名前に、嫉妬心がじりじりと胸に迫ってくる。喉から飛び出しかけた言葉を飲み込んで、黙って頭を掻いた。
「わあ、かわいい」
璃子は枕元に放置していたアザラシのぬいぐるみを手に取った。小学校の頃、家族で海遊館に行ったときに買ってもらったものだ。特に思い入れはないが、捨てるのも面倒なのでそのままになっている。
「アザラシ好きなん?」
「いや、そうでもない……」
「そうなんや。かわいいのに」
璃子はそう言って、アザラシのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。ふわふわした丸い顔が胸に押しつけられるのを見て、羨ましいなあと馬鹿なことを考える。今までむさ苦しい男の部屋にいたぬいぐるみも、かわいい女の子に抱きしめられて本望だろう。璃子はぬいぐるみを膝に乗せたまま、おれの本棚を指差す。
「あっ、あの漫画。翔ちゃんの部屋にもあったやつや」
「あー。そもそもそれ、おれが貸してやってん。そしたらいつのまにか全巻買っとった」
「私、五巻までしか読めてないねんな……続き気になる」
「ほんなら貸したるわ。六巻どこやったかな……」
おれは立ち上がり、本棚を覗き込んだ。まったくのでたらめに並んでいる単行本の背表紙を確認してみたが、六巻だけが見当たらない。そういえばこのあいだ、寝る前に読んだ気がする。
璃子に向かって「もしかしたらベッドの上かも」と言うと、彼女はぺろんと布団をめくった。
「うーん、ないなあ……ん?」
枕の下に手を入れた璃子が、何かを見つけて引っ張り出す。彼女の手の中にある四角い箱を見て、おれはさーっと血の気が引くのがわかった。
……先日おれが購入したコンドームだ。ひとつだけ抜いて財布に忍ばせたので、既に開封済である。
「わっ、あの、ちょっと、待っ!」
おれは慌ててベッドに飛び乗ると、璃子の手からコンドームの箱を奪い取る。バランスを崩した璃子がベッドに倒れ込んで、ぎしりとスプリングが音を立てて軋んだ。ころん、とアザラシのぬいぐるみが床に転げ落ちる。
「いや、ごめん、これはほんまに違くて……」
まずい、これでは下心丸出しで家に連れ込んだと思われてしまう。いや、下心がなかったわけではないのだけれど。でも本当に、それだけが目的ではなかったのだ。おれがしどろもどろになっていると、璃子は呆然と目を見開いておれを見上げていた。そこでようやく自分たちの体勢に思い至って、はっとする。
ベッドに仰向けになった璃子の髪が、シーツの上に散らばっている。おれの両手は璃子の頭の横について、押し倒しているような状態だ。彼女のワンピースの裾がやや捲れて、小さな膝小僧が覗いている。
――ハルくん、ちゅーして。
強請るように囁く璃子の声が頭に響いて、夢と現実の境界がまだらになっていく。ぐらぐらと茹だった脳はまともに動かず、どんどん正常な思考ができなくなってくる。薄く開いた唇は、いつもより鮮やかな桃色をしていた。璃子、かわいい、好き、キスしたい――
「ただいまー!」
階下から響いた母の声に、おれは引っ叩かれたように現実に戻ってきた。「ごめん」と慌てて起き上がると、璃子は「ううん」と首を振る。
「あれ、かいらしいクツ置いてあるけど、ゆうみちゃん遊びに来てんのー?」
母は誰にともなく大声で喋っている。ゆうみちゃん、というのは弟である櫂人の彼女である。もう付き合って二年になり、我が家にもしょっちゅう遊びに来ているのだ。
「母さん帰ってきたみたい」
「そ、そうなんや。私、お母さんに挨拶したらそろそろ帰るね」
璃子がそう言って、ワンピースの裾を整えながら立ち上がった。デスク上のデジタル時計を見ると、もう十時前だ。おれたちは二人で連れ立って階段を降り、リビングに顔を出す。
「……母さん、おかえり」
「お、お邪魔してます……」
おれたちの姿を見た母さんは、ぽかんと口を開いた。酒を飲んでいたのかやや頰が赤い。しばらく固まった後「あらあらあ」と間抜けな声を出した。
「なに、遥人やったん? あんたいつのまにこんな……あっ、はじめまして。遥人の母です」
そう言って頭を下げた母さんに、璃子もぺこぺことお辞儀を繰り返す。
「た、高梨くんのクラスメイトの浅倉璃子です! 勝手にお邪魔しちゃってすみません!」
「いやいや、ええんよ。かいらしい子やなあ。遥人にはもったいないわ」
そう言って母さんは、おれをチラリと横目で睨みつけた。「変なことしてへんやろな」とでも言いたいのだろう。危ないところではあったが、まだ何もしていない。
「……おれ、浅倉のこと送ってくから」
「そうしたげ。もう遅いし、気ーつけてな。今度またゆっくり遊びに来て」
「ありがとうございます」
璃子はもう一度深々お辞儀をすると、「お邪魔しました」と微笑んだ。玄関でスニーカーを履くと、二人並んで外に出る。
「なんか、ごめんな」
「ううん! 楽しかった」
青白い街灯の無機質な光がアスファルトを照らして、ふたつの影が長く伸びている。真っ黒い空には星はほとんど見えなかったけれど、飛行機がチカチカと光を放ちながら移動していた。
もう一度璃子と手を繋ぎたかったけれど、おれの左手はそわそわと空を切るばかりで、ついぞ彼女の右手を取ることはなかった。
璃子を送って帰宅すると、母さんに「彼女を家に呼ぶんはいいけど、まずはちゃんと私がいるときに連れてくるように」と釘を刺されてしまった。璃子はまだおれの彼女ではないのだけれど、説明が面倒なので否定はしないでおいた。
正直なところ、母さんが帰ってきてくれて助かった。付き合ってもないのに家に連れ込んで手を出す最低男になるところだった。
気分は高揚していたが、それでも日付が変わる前にはベッドに入った。床に転がっていたアザラシを拾い上げて、璃子がそうしていたようにぎゅっと抱きしめてみる。ふかふかしていて意外と癒された。
気付いたらおれはいつもの夢の中にいて、腕の中にいるのは白いふわふわのアザラシではなく璃子だった。璃子は目を細めて「おはよう」とはにかむ。
「……おはよ。今日、おつかれ」
「おつかれさま。私、ほんまにめっちゃ楽しかった」
璃子がそう言って、すりすりと頬を擦りつけてくる。おれは今度は昼間の衝動を解放するかのように、力いっぱい璃子を抱きしめてキスをする。本当は今日一日中、ずっとこうしたかった。柔らかな唇を食んで、甘い感触に酔いしれる。夢中になっているうちに、気付けばおれは仰向けになった璃子の上にのしかかっていた。
「……ハルくん」
ベッドの上でおれを見上げる璃子の姿が、先ほど見たばかりの光景と重なる。現実と違うのは、璃子が強請るようにおれの首に腕を回してきたことだ。
「……デートの続き、しよ」
「続き?」
「お部屋に帰って、二人きりでいっぱいイチャイチャする」
そう言って愉快そうにくすくすと笑みを零した璃子の額に、おれは唇を押しつける。こうしてじゃれあっていると、本当に今日のデートの続きをしているような気持ちになってきた。
「ハルくん、ちゅーして」
甘く囁かれた言葉に、おれは吸い寄せられるように唇を塞ぐ。今日何度も飲み込んだ「好き」を思う存分に彼女に浴びせながら、幸せなデートを締めくくるのだ。
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