デート①

 私が西京極駅に到着したのは、待ち合わせの十五分前だった。一応周りを見回してみたけれど、高梨くんの姿はまだない。午前中は部活があると言っていたから当然だろう。少し早すぎたかな、と私は前髪を軽く弄る。

 今日は朝の六時に目が覚めて、クローゼットの中をひっくり返してしまった。「着ていく服がない!」と大騒ぎしてしている私を見かねたお姉ちゃんがデニムのシャツワンピースを貸してくれて、ついでにお化粧とヘアセットもしてくれた。

 毛先を軽く巻いたハーフアップは、いつもよりちょっとオシャレに見える。かわいいけれど、気合いが入りすぎだと思われたらどうしよう。高梨くんが私を誘ったことに、深い意味なんてないかもしれないのに。

 高梨くんが私のことをどう思っているのか、まだよくわからない。ひょっとしたら好かれているんじゃないか、と自惚れてしまう瞬間もある。それでも一歩踏み出す勇気はなくて、私は現状に甘んじている。結局のところ、じれじれとした生温いこの関係が心地良いのも事実だ。

 私はほうっと息をつくと、駅前のロータリーにあるガードレールにもたれかかった。緊張で汗ばんだ掌を、手持ち無沙汰に開いたり閉じたりする。早く来て欲しいような、まだ来て欲しくないような、不思議な気持ちだ。

 ソワソワと手鏡を覗き込んだりしていると、手にしていたスマホが短く震えた。開いてみると、高梨くんから「もうすぐ着く!」というメッセージが届いている。私は「りょうかい」とスタンプを返した。

 しばらくすると、改札から高梨くんが出てきた。グレーのパーカーにデニムを履いている。小さく手を振っている私に気がつくと、くしゃっと笑って駆け寄ってきた。


「ごめん、遅かった?」

「ううん、私が早く来すぎた!」

「ほんなら行こか」


 駅から歩いてすぐの場所にある西京極運動公園には、体育館の他に陸上競技場や野球場、競技用プールもあるらしい。運動に縁のない私はほとんど来たことがないので、物珍しさにキョロキョロしてしまった。エメラルドグリーンのタオルを首から下げた人がちらほら見られるけれど、私たちと同じ観戦客だろうか。外には屋台がたくさん並んでいて、なんだかお祭りみたいだ。


「浅倉、こっちやで」


 高梨くんに促されて、私は慌てて彼の隣に並ぶ。いつのまにか、高梨くんもエメラルドグリーンのタオルを首に巻いていた。


「高梨くん、よく応援来るん?」

「うーん、シーズンに一回か二回くらいかなー。部活もあるし、なかなか来れへん」


 高梨くんは入り口でチケットを二枚出すと、すいすいと勝手知ったる様子でアリーナの中に入っていった。「お金出すよ」と財布を出そうとする私を押し留める。


「いや、いいよ。浅倉のぶん、翔真にタダで譲ってもらったから」

「ほんま? でも申し訳ない……せめて高梨くんのぶん半額出す」

「うーん。じゃあ、そこでジュース買って」


 高梨くんが売店を指さしたので、私はリクエストに答えてレモンスカッシュを購入した。自分のぶんはウーロン茶にする。高梨くんはポップコーンを買って、「半分こしよ」と笑った。試合前で高揚したざわめきの中にいると、なんだか非日常に飛び込んだような気がする。


「なんかポップコーン食べながらバスケの試合見るって、めっちゃアメリカンな気分……」

「ヘイ、キャサリン。早く行かないと試合が始まっちまうぜ」


 そう言ってポップコーン片手に大袈裟な仕草で手招きをする高梨くんがおかしくて、私は声をたてて笑った。



 試合は接戦の末、地元京都のチームが二点差で勝利した。私もかなりのめり込んでしまって、試合が終わった頃には握り拳を作っていた掌に爪の跡がくっきりと残っていた。やっぱりプロの試合は迫力がすごい。飲むのを忘れて放置されていたお茶はすっかりぬるくなっていて、私は慌ててごくごくと飲み干した。

 アリーナを出ても高梨くんは未だ興奮冷めやらないようで、「めちゃめちゃいいゲームやった!」とはしゃいでいる。あの選手のあのプレイが凄かった、と身振り手振りを交えて解説する高梨くんがかわいくて微笑ましくて、私はにこにこしながら頷いている。


「……あ、ごめん。おればっか喋ってる」


 我に返ったらしい高梨くんが気まずそうに頰を掻いて、口を噤んだ。私はぶんぶんと首を横に振る。


「ううん! 高梨くんの話聞いてるの面白い」


 主体性がないと呆れられるかもしれないけれど、私は高梨くんが好きだし、高梨くんの好きなものが好きだ。高梨くんが大切にしているものを、私も大切にしたい。私と彼は別の人間だし、すべてを理解するのは難しいかもしれないけれど、それでも彼が見ているのと同じ世界を私も見れたらいいな、と思うのだ。


「……腹減ったけど、晩飯食うには早いよなあ」


 高梨くんが手首に巻いたスポーツウォッチに視線を落とす。やっぱりこのまま解散する、と言われたらどうしよう。胸によぎった憂いを吹き飛ばすように、高梨くんは私の手をぐいと引いた。ごつごつとした大きな手が私の手を包み込んで、心臓が裏返りそうになる。


「ちょっと買い物していかへん? おれ、買いたいもんあって」

「へ! あ、うん! いいよ!」


 心臓と同じくひっくり返った声を出して、私は頷く。あまりに自然に手を繋がれたので驚いてしまった。彼はあまり女の子に免疫がなさそうだと思っていたけれど、そうでもないのかな。嬉しいのに、余計なことを考えて一人で不安になってしまう。彼の顔がまっすぐ見れなくて、私はアスファルトを踏むスニーカーの爪先ばかりを見つめていた。隣を歩く彼の足は大きくて、赤いゴツゴツしたスニーカーがよく似合っている。

 私たちは手を繋いだまま、少し歩いたところにあるショッピングモールに移動した。土曜日ということもあり、多くの家族連れで賑わっている。重たいガラス扉を開いて店内に入ったところで、ようやく彼が手を離した。残念なような、ちょっとほっとしたような。エスカレーターに乗ると、一段下に立った高梨くんの顔がいつもより近くにあってどきどきした。


「た、高梨くん、何買うん?」

「部活用のTシャツ。二階にスポーツショップあったやんな」

「たぶん……」


 このショッピングモールは普段の私の行動範囲の中にないので、あまりよくわからない。高梨くんもフロアガイドと睨めっこしながら「あっちかな」と自信なさげに歩いていく。幸い、目当てのスポーツショップはすぐに見つかった。

 ずらりと並んだスポーツウェアやシューズを見て、私はややたじろぐ。普段ロクに運動せず、学校指定のジャージしか着ない私にとっては場違いだ。今日は私には縁のない場所にばかり来ている気がする。高梨くんに「どれがいいと思う?」と訊かれたけれど、あまり力になれそうにない。高梨くんは私の拙い意見を聞きながら、Tシャツを二枚手に取った。

 ふと、Tシャツの横に吊るされたリストバンドが目に入る。リストバンドひとつとっても、いろんなデザインがあるものだと思う。私は高梨くんに向かって「リストバンドとか、つけへんの?」と尋ねた。さっきの試合でも、何人かの選手はかっこいいリストバンドをつけていた。


「そーいや、持ってへんな。買おうかな」

「……ほんなら、私が買ってもいい?」

「え?」

「今日のお礼と、誕生日プレゼントってことで……あかんかな」


 高梨くんのお誕生日は来週の月曜日、十月十二日だ。天秤座のO型、動物占いはトラ。高梨くんのストーカーである私は、もちろん彼のプロフィールを把握している。今日は隙あらばお祝いができないかと、こっそりチャンスを狙っていたのだ。高梨くんは目を丸くすると、「浅倉、おれの誕生日知ってたんや」と言った。


「いや、前に誰かに聞いて……き、きもくてごめん……」

「なんで? めっちゃ嬉しい!」


 勝手に個人情報を入手している私に対しても、高梨くんは寛容だ。色とりどりのリストバンドを指差して「浅倉が選んで」と口角を上げる。私はたっぷり十分ほど悩んで、結局彼のバッシュと同じ濃い青色のものを選んだ。レジに持っていって、彼のTシャツとは別々に会計を済ませる。


「つ、つまらないものですが……」

「ありがと! 大事にする」


 私が差し出した小さな袋を、高梨くんは嬉しそうに受け取った。その笑顔が見た私の胸は高鳴って、その場で踊り出したいような気持ちになる。私、高梨くんに強請られたら何でも貢いでしまう女になるんじゃないだろうか。


「浅倉、誕生日いつ?」

「え、十二月四日……」

「あーよかったー、まだ来てへんかった。お返しするわ」

「いいよ、そんなん! 安物やし」

「いいからいいから。十二月四日な、覚えとく。何欲しいか考えてといて」


 そんなことを言われても、私の欲しいものはたったひとつしかない。それでもそれをストレートに口に出すのは躊躇われて、代わりに彼のパーカーの裾をぎゅっと握りしめた。



 私たちはショッピングモールを冷やかした後、近くのカフェに移動した。関西には何店舗かあるチェーン店みたいだけれど、雰囲気が落ち着いていて店内もちょっとオシャレだ。普段行くようなファーストフードやファミレスとはまた違う空気に、私はちょっとソワソワした。接客してくれた店員さんは美人でとても愛想が良かったけれど、高梨くんは何故か正面に座っている私の顔ばかりを見つめていた。

 晩ごはんにと注文したパスタセットは美味しかったけれど、量が少なくて高梨くんは物足りなさそうにしていた。デザートにガトーショコラを注文して、二人で分け合って食べた。

 美人の店員さんが空っぽになったお皿を全部下げた後も、私たちは何度もお冷やをお代わりしながらいろんな話をした。大抵は中身のないくだらないことばかりだったけれど、私は腹筋が筋肉痛になるんじゃないかというほど笑った。高梨くんも、楽しそうにしていた。

 店の外に出ると、もうどっぷりと日が暮れて辺りは真っ暗だった。昼間より気温の下がった夜の空気に、私はぶるりと身を震わせる。駅に向かおうとすると、高梨くんは当たり前のように私の手を取って歩き出した。


「浅倉も阪急? 送ってくわー」

「あ、ありがとう」


 ……こうして彼と手を繋いで歩いているなんて、なんだか夢のようだ。夢の中にいる恋人同士の私たちが、真っ白い部屋を飛び出してデートしているような錯覚を起こす。今から二人であの部屋に帰って、いつものようにキスをしてえっちなことをするのだ。そんなはしたない妄想をしてしまって、彼と繋いだ手の温度が上がるのがわかった。

 西京極駅のホームに立った私たちは、あずき色の特急列車が通過していくのを黙って眺めていた。私の右手はまだ彼と繋がったままだ。夢のような時間が終わってしまうのが惜しくて、私は溜息をつく。ホームの屋根から吊るされた時計は、夜の八時過ぎを指していた。――シンデレラの魔法が解けるには、まだ少し早い。


「……私、まだ帰りたくないなあ」


 思わず零れた本音に、私ははっと片手で口を押さえた。もしかして今、ものすごく大胆なことを言ってしまったのでは。おそるおそる隣の彼の表情を窺うと、細い目を見開いてこちらを見ている。


「……さすがに、そろそら帰らなまずいんちゃう?」


 やや掠れた彼の声に、私はふるふると首を振る。


「十時くらいまでに帰れば、大丈夫やと思う……お母さんにLINEしとくし」

「そっか」


 そのとき、駅のホームに私たちの乗る普通電車が滑り込んできた。キキィ、と甲高いブレーキ音とともに電車が停まり、ぷしゅうと音を立てて扉が開く。高梨くんは私の手を軽く引いて、電車に乗り込んだ。扉が閉まった途端、囁くような音量で言う。


「……うち来る?」

「え」

「今日、母さん出かけてるから……たぶん弟はおるけど……いや待って、あの別に、変な意味ちゃうくて」


 高梨くんは視線を窓の外に向けたまま、しどろもどろになっている。心臓の音がうるさいくらいに響いていて、このまま破裂して死んでしまいそう。緊張とも興奮ともつかない感情で背筋がぞくぞくと震える。でも、まだ彼と離れたくない。


 ――何も変なことせーへんから!


 電話越しの慌てふためいた声を思い出して、彼の言う「変なこと」って何だろう、と私は考える。やっぱり私がいつも夢に見ているようなことを言っているのだろうか。……それなら私、本当は高梨くんに「変なこと」をして欲しいと思っている。


「……い、行く……」


 血液が頰に上ってくるのを感じながら、私は震える声で答えた。ようやくこちらを向いた高梨くんの瞳が、動揺したように揺れる。何も言わずに強く手を握られて、私の心臓は今度こそ破裂しそうに高鳴った。

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