文化祭の準備
文化祭をおおよそ一ヶ月後に控えて、学校全体がどこかふわふわした空気に包まれている。うちの高校の文化祭ではクラスごとに模擬店、ステージ発表、演劇発表のいずれかを選択することになっている。模擬店での飲食物の提供は禁止されているし、脚本や大道具が必要な演劇はなかなかハードルが高いので、一番人気なのはステージ発表だ。うちのクラスも例にも漏れず、ステージ発表をすることになった。いや、なってしまった……。
「璃子ちゃん、そこ振り付け違う! 足の向き逆!」
陽奈ちゃんの声に、私は壊れたロボットのようにぴたりと停止する。手拍子に合わせてぎこちなくステップを踏み直すと、「腕止まってるから動かして!」と再び声が飛んでくる。
ステージ発表では、クラス全員でダンスを披露することになった。自慢ではないけれど、運動音痴の私はダンスも苦手だ。まずリズム感がないし、手と足を同時に動かすことができない。中学のダンスの授業で「どじょうすくい」と揶揄されたことは大きなトラウマである。
ホームルームの時間を使って練習をしていたのだけれど、あまりにも私ができないので、ダンス部の陽奈ちゃんがつきっきりで教えてくれることになった。陽奈ちゃんは辛抱強く付き合ってくれたけれど、さすがに疲れた様子が見える。
「ちょっと休憩しよっか」
「ごめんな、陽奈ちゃん。も、もうちょっと一人でがんばってみるわ……」
「ほんま? じゃああたし、みんなのとこ見てくる。すぐ戻ってくるわ」
陽奈ちゃんがいなくなったので、一人で振り付けのおさらいをする。ぎくしゃくとステップを踏んでいると、なんだか情けなくなってきた。……スポーツといいダンスといい、どうして他のみんなが当たり前にできていることが、私にはできないんだろう。
「浅倉」
自分の情けなさに打ちひしがれていると、ふいに背中から声をかけられた。ぐるんと首を回して振り向くと、コーラの缶を持った高梨くんがひらひらと手を振っている。
笑顔がかわいいだとか、話しかけてくれて嬉しいとか、コーラ好きなんかなとか、いろんな感情が胸に押し寄せてきたけれど、とにかく今はへたくそなダンスを見られたことが恥ずかしい。私は真っ赤になって下を向くと「お、お見苦しいところを……」と口籠った。
「浅倉、やっぱりダンスも下手なんや」
そう言って高梨くんがくっくっと喉の奥で笑ったので、私は頬を膨らませる。「やっぱりってなに」と拗ねてみせると、高梨くんが「ごめん」と両手を合わせてくる。口では謝っているけれど、目はまだ笑っていた。もう、そういうちょっと意地悪なところも好き……。
「おれ、ダンスは教えてあげれるほど上手くないしなー」
「……でも、ちゃんと踊れてたやん」
私は当然、ダンスをしている高梨くんをしっかりと観察していた。彼は意外と器用らしく、教えられた振り付けをそつなくこなしているようだった。踊っている高梨くんなんてレアすぎて永久保存版だ。本番は他のクラスの子に頼んで動画を撮ってもらおう。
「浅倉もちょっと休憩したら?」
そう言って高梨くんはごくごくとコーラを喉に流し込む。今は先生が見ていないからみんな好き勝手やっているけれど、一応ホームルームの授業中だ。やっぱり高梨くんは結構やんちゃである。
「高梨くん、授業中やのにジュース飲んでていいん?」
「だって喉渇いたんやもん。ほんなら、浅倉も共犯ってことで」
そう言って高梨くんは、私のほっぺたにコーラの缶をぴとりとくっつけた。火照った頰に、ひやりとした缶の冷たさが気持ちいい。
間接チューや、と思いながら、私は缶に口をつけて控えめに二口ほど飲んだ。どうしよう、にやにやが止まらへん……。まっすぐ彼の顔が見れなくて、私は目を逸らしたままコーラを彼に返した。
「あ、ありがとう」
夢ではもっとすごいことをしているのに、現実では間接キスごときで心臓が破裂しそうになってしまう。
このあいだ、夢の中ではじめて彼と身体を重ねた。夢だというのに信じられないくらいに痛かったけれど、これ以上ないぐらいに幸せだった。ハルくんは何度も好きだと繰り返してくれて、たくさんキスをしてくれた。
あの日以来、ハルくんは毎晩のように私を求めてくる。いつも私のえっちな妄想に付き合わせてごめんなさい、と現実の高梨くんに心の中で謝る。
「こらハルトー! なに女子とイチャイチャしとんねん! 戻ってこい!」
少し離れたところから、円山くんが大きな声で言った。高梨くんはチラリとそちらを一瞥して、「くそ、めんどいのに見られた」と舌打ちする。
「ほな、おれ戻るわ」
「う、うん」
高梨くんは小走りに男子たちのところに戻っていった。それと入れ違いに陽奈ちゃんが戻ってきて、真っ赤になった私を見ると不思議そうに首を傾げる。
「……イチャイチャしてたん?」
「い、イチャイチャは……してへん」
「ふーん」
陽奈ちゃんは何かを考え込んでいたようだけれど、しばらくして嬉しそうにポンと手を打って「幼馴染とクラスメイトとの三角関係!?」とよくわからないことを言い出した。
*
文化祭のステージ発表に向けて夜練をしようと言い出したのは、塚原さんだった。
「部活ある人もいるやろし、ちょっと遅い時間になるけど。来れへん人は無理せんでもいいから」
男女共に人気のある塚原さんの提案なので、特に反対の声は出なかった。場所は学校から自転車で五分ほどの場所にある公園だ。どうやら璃子も参加するようだったので、当然おれも行くことにする。
部活を終えると、その足で公園に向かった。九月も半ばになり、七時になるともう辺りはほの暗い。いつもは昼間顔を突き合わせている連中と、夜に集まるのはなんだか妙にワクワクするものだ。街灯に照らされた公園で、既に半数ほどのクラスメイトが集まっているのが見えた。
「あ! 高梨くん来た!」
塚原さんがおれに気付いて、ぶんぶんと手を振っている。ダンス部の練習着なのだろうか、黒のタンクトップにパーカーを羽織っている。スタイルの良さが強調されており、男たちはチラチラと彼女の胸元に視線を向けていた。
「塚原さんのカッコ、めっちゃエロいな」
翼がこそこそと囁いてきたが、おれは無視して璃子の姿を探した。制服の下にジャージを履いた璃子が、榎本と一緒にダンスの練習をしていた。相変わらず真剣な表情で、不思議な動きをしている。最近は隙あらば璃子に話しかけようとしているのだが、今はちょっと無理そうだ。
しばらくすると全員が集まったらしく、パートごとに分かれて練習をすることになる。おれに振り分けられたパートはそれほど難しいものではない。なにぶん男ばかりなので、華やかさにも欠ける。練習もそこそこに、ついつい女子グループの方に視線を向けてしまう。相変わらず璃子はうまく踊れないらしく、一人だけ悪目立ちしていた。
「浅倉、へったくそやなー」
マルが小馬鹿にしたように笑ったので、おれはちょっとムッとした。おれが璃子を笑うのはいいけれど、他の奴に璃子を笑われるのは気に入らない。おれは横から「がんばってるやんけ」とフォローを入れる。
「そうそう、温かく見守ってあげようや」
拓海がそう言ってマルの肩をぽんと叩く。他の男に璃子を庇われるのも、それはそれで腹が立つ。思わず「おまえは何目線やねん」と悪態をついてしまった。
ミスをするたびに璃子の表情はどんどん暗く険しくなる。クラスでも目立つ男子の一団が、「璃子ちゃんがんばってー」とからかうように野太い声援を投げかけたので、璃子は真っ赤になって俯いてしまった。璃子ちゃんて何やねん。腹の底からムカムカが湧き上がってくるのを感じる。
「もう、からかわへんの! 璃子ちゃん、大丈夫やから」
「……私、ちょっと一人で練習してくる……」
塚原さんに慰められ、璃子がフラフラと女子の集団から離れたので、おれは彼女を追いかける。がっくりと落ち込んだ背中に向かって、「浅倉!」と声をかけた。
「高梨くん……」
「大丈夫? ほんまあいつら、いらんことばっかり言いやがって」
「ううん……私、ほんまにあかんなあ」
璃子が眉を下げて、悲しげな笑みを浮かべる。おれが好きな璃子の笑顔は、そんな無理やり捻り出した笑顔じゃない。おれは両手を伸ばして、璃子の頰をぎゅっとつねりあげた。
「いひゃい」
「……浅倉、もうちょい笑った方がいいんちゃう?」
「へ?」
「ニコニコしながら楽しそうに踊ってたら、ちょっとくらい間違えてもこんなに目立たんのとちゃうかな」
他にもあまり踊りが上手くない奴はいるのに、どうして璃子ばかりが悪目立ちするのか考えていた。暗い顔をしてオドオドと自信なさそうにしているから、周りから浮いてしまうのだ。おれが両手を離すと、璃子は頰を押さえて「そうかな……?」と首を傾げる。
「とりあえずやってみたら? おれ、ここで見とくから」
「は、恥ずかしいな……」
「おれしか見てへんから大丈夫」
「……うん」
璃子はしばらくもじもじとスカートを弄っていたけれど、意を決したように両手で頰を叩いた。にっこりと笑みを作って、相変わらずぎこちないステップを踏み始める。おれは手拍子を叩きながらそれを見ていた。
……いや、めっちゃかわいいな。
はっきり言ってダンスはへたくそだが、ニコニコしながら踊っている璃子がかわいすぎて正常な判断が下せない。もう振り付けが合ってるとか間違ってるとかどうでもいい。今すぐおれだけのアイドルになってほしい。その場でくるりと回転すると、グレーのプリーツスカートがひらりと揺れた。最後のポーズを決めて、こちらに向かってニッコリ笑う。
「……ちょ、ちょっとはマシになった?」
璃子が肩で息をしながら、恥ずかしそうに問いかけてくる。すごく良くなったけれど、あんな笑顔を他の男に向けられるのは困る。おれはパチパチと拍手をしながら、璃子に向かって「……笑顔、あと三割減で」と言った。
街灯に照らされた住宅街を、璃子と二人で並んで歩く。おれが押している自転車の車輪が、カラカラと音を立てて回っている。ひやりと頰を撫でる風は冷たく、秋の訪れを感じさせた。
練習が終わったのは九時過ぎで、おれは率先して璃子を送ると名乗り出た。おれの気持ちに薄々気付いているらしい翼には「おまえ、最近めっちゃ露骨じゃない?」と驚かれたが構やしない。今回ばかりは、モタモタしているうちに他の男に掻っ攫われるのはごめんだ。
「文化祭、楽しみやなあ」
璃子がご機嫌な様子で呟く。家に着いてしまうのが惜しくて、おれはできる限りゆっくり歩きながら話題を探した。
「せやな。茶道部、なんかすんの?」
「浴衣着てお茶会するねん。よかったら来て」
「まじで!? 行く行く」
まだ見ぬ璃子の浴衣姿を想像して、おれはかなりテンションが上がった。当日はなにを差し置いても行かなければならない。文化祭の楽しみがひとつ増えた。
「あ」
そのとき、無灯火の自転車が猛スピードで璃子の隣を駆け抜けていった。危ない、と思ったおれは反射的に璃子の肩を抱き寄せた。璃子の顔がおれの胸にぶつかる。
――うわ、ちっちゃい。やらかい。いい匂い。
もうとっくに自転車は去っていったというのに、おれは璃子から手を離せずにいる。
「……た、高梨くん」
璃子が戸惑ったような声を出す。肩に回した腕に力を籠めると、璃子の身体が緊張で強張るのがわかった。
こうしていると、まるでいつもの夢の中にいるような気分になってくる。このまま名前を呼んでキスをしても許されるような錯覚を起こしそうだ。璃子ちゃん、とふざけて呼んだ男たちの声を思い出して、おれはまたむかっ腹が立ってきた。
「……璃子」
「え?」
小さく囁いた声は、通り過ぎたバイクの音に掻き消された。おれは慌てて彼女の肩から手を離すと、「チャリ、危なかったなあ」と笑って誤魔化す。
頰を染めて「ありがと」と微笑む璃子がかわいくて、いろんな欲が湧き上がってきたけれど、それは今夜の夢で存分に解消することにしよう。
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