世界一かわいい彼女

 朝練を終えて制服に着替えながら、おれは昨夜の夢を思い返していた。夢とは思えないくらいにリアルな感覚で死ぬほど気持ち良かったし、おれの腕の中の璃子は信じられないくらいにかわいかった。本当に、めちゃめちゃかわいかった。

 璃子は相当つらそうだったけれど、それでも「ハルくんとひとつになれて幸せ」と涙目のまま笑ってくれた。そんな彼女の表情を見た瞬間、おれの心は激しく揺さぶられた。

 ――彼女がおれの妄想の産物だろうが、もうどうだっていい。大事にしたい。幸せにしたい。おれのものになってほしい……。

 たぶん本当はもっと優しくしてあげた方がよかったんやろうなあ、と思う。けれども、後悔はまったくしていない。今夜も夢で彼女に会えるだろうか。二日連続で求めてしまうのは、ちょっとガッつきすぎだろうか。おれ、あの空間に璃子と二人きりのでいて我慢できる気がせーへんねんけど……。


「ハルト、今日は調子良かったな。復活した?」


 汗を拭いてノロノロと着替えている翔真が、おれに向かって言った。幸せな夢に思いを馳せていたおれは、一瞬で現実へと引き戻される。


「あ、うん! もう絶好調!」


 おれが答えると、横から別の部員がひょいと顔を出してくる。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら言った。


「どうせ空元気やろ。ハルト、昨日佐々岡にフラれてたやん」

「え」


 おれはぽかんと口を開けた。佐々岡さんにフラれた覚えはないが、もしかして昨日のやりとりを遠目で見ていた奴らは勘違いされているのだろうか。


「まじでー! やっぱそうやったかー」

「あんな胸でかくて可愛い子がハルトとうまくいくわけないやんな。まあ、早めにトドメ刺されてよかったやん」

「ハルトどんまーい!」


 部室のあちこちからやたらと嬉しそうな野次が飛んでくる。おれは否定するのも面倒になって、哀れなチームメイトに冷たい視線を投げかけた。翔真だけは興味なさそうに、ごくごくとペットボトルのお茶を飲んでいる。


「童貞捨てれんくて残念やったな!」


 誰かがそんなことを言い出して、ギャハハ! と下品な笑い声が響く。おれの童貞なら、昨日夢の中に置いてきた。現実では正真正銘の童貞だが、今のおれには謎の余裕があった。

 さっさと着替えを済ませたおれは、「お先に」と言ってむさ苦しい部室から外に出る。今日は天気も良くて、やけに空気が清々しい。


「あ」


 と、ちょうど登校してきたらしい瀬戸さんと目が合った。彼女はギロッとおれを睨みつけると、挨拶もせずスタスタと歩き出す。もしかすると、佐々岡さんから事情を聞いたのかもしれない。自業自得……というほどでもないが、おれは佐々岡さんからの好意を無碍にしたのだから、瀬戸さんの態度は仕方がないものだ。それでも、ちょっとだけ落ち込んだ。


「……た、高梨くん」


 教室に向かおうと歩き出したところで、背後から小さな声が聞こえた。昨夜も何度も聞いたかわいい声に、おれはぐるりと首を回して勢いよく振り向く。予想通り、そこには制服姿の璃子が立っていた。


「浅倉! おはよう!」


 先ほどまでの屈託はどこへやら、朝から璃子に会えるなんてラッキーだ、とおれの声は弾む。小走りに駆け寄ると、璃子も「おはよう」と返してくれた。


「どしたん? なんか用事あった?」


 おれがウキウキと詰め寄ると、璃子はちょっと恥ずかしそうに目を伏せて、リュックから小さな包みを取り出した。差し出されるがままに受け取ると、ピンク色をしたハート型のクッキーが入っている。驚いたおれは、まじまじと璃子の顔を見つめる。


「浅倉、これ」

「な、夏休み。食べたいって言うてたから、作ってみてん」


 たぶんおいしくできたと思う、と璃子ははにかむ。おれは今すぐ彼女に力いっぱい抱きつきたくなるのをぐっと堪えた。たぶんここが学校じゃなかったら、サンバのひとつでも踊り出していただろう。やっぱり現実の璃子もめちゃめちゃかわいい。おれは平静を装いながらも、大声で「ありがとう!」と言った。


「めっちゃ嬉しい。大事に食うわ」

「た、たいしたもんちゃうけど。昨日のお礼ってことで……」

「き、昨日の?」


 昨夜の記憶が蘇ってきて、おれはぎくりとする。いや、おれは璃子に痛い思いをさせただけで、むしろ良い思いをさせてもらったのはおれの方だろうに。そんなことを考えてから、いやいやそれはおれの夢やから、と我に返った。

 おそらく、体調不良の彼女を家まで送ったことに対する「お礼」だろう。そんなの、おれが璃子と一緒に帰りたかっただけで、お礼を言われるようなことではないのに。


「そんなん、別によかったのに」

「ご、ごめん。わざわざクッキー作ってくるとか迷惑やったかな……」

「そ、それはない! 絶対ない! むしろ、いまさら返せって言われても絶対返さへんからな!」


 慌ててクッキーを死守しようとするおれに、璃子はくすくすと楽しそうに笑みを零した。彼女の体調はすっかり回復したらしく、今日は顔色も良い。おれはほっと胸を撫で下ろしながら、かわいい笑顔をじっと見つめていた。


「よかったあ。……ほんなら、また作ってきてもいい?」

「え、ほんまに!? 食う食う! むしろ味見係とかにしてくれていいから!」

「高梨くん、チョコ系も食べれる?」

「好き! めっちゃ好き!」


 テンションが上がったおれは、璃子の両手を掴んでぎゅっと握りしめた。みるみるうちに、眼前にある璃子の顔が真っ赤に染まっていく。

 ……しまった、これではまるで璃子のことが好きだと言ってるみたいだ。いや、それはまったく間違いではないのだけれど、今このタイミングで、こんなところで告白するつもりはさらさらない。

 おれが慌てて「いや、チョコが」と付け加えると、璃子は頰を染めたまま「わ、わかってる」と頷いた。くそ、照れているところもかわいい。

 名残惜しく思いながらも、おれは璃子の両手を離した。そのまま二人並んで教室へと向かう。まだ予鈴まで時間があるので、いつもの半分ぐらいのスピードでゆっくり歩いた。


「おれ、チョコ以外も全部好きやから。浅倉の作ったもんやったら何でも食える」

「ほんまに? 私よく失敗するし、あんまり美味しくないかも」

「それでもいいよ」


 璃子のことが好きやから、という言葉は、今度は心の中で付け加えた。夢の中では何度も繰り返した台詞なのに、どうして口に出せないんだろう。

 おれは赤いリボンを解くと、ラップフィルムの中からクッキーをひとつつまみあげた。行儀は悪いが、歩きながらひょいと口に放り込む。


「めっちゃ美味い」

「……えへへ、嬉しい」


 璃子はおれの顔を見上げると、頰を薔薇色に染めて微笑む。ああ、おれの好きな女の子は世界一かわいい!

 クッキーの優しい甘さが口の中にふんわりと広がって、ピンクのハートと一緒に幸せを噛みしめた。

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