夏休みの終わり
小綺麗なマンションのエントランスは、なんだかやけにひんやりとしていた。大理石の床は高級感があり、よくわからないオブジェが設置されている。おれは生まれたときから一戸建てに住んでいるので、幼い頃はマンションに住む友人をやけに羨ましく思っていたものだ。
数字の表示されたパネルで部屋番号を押すと、「はーい」という応答と共にオートロックの自動ドアが開く。エレベーターで七階に上がると、一番手前の部屋のインターホンを押した。ほどなくして、ガチャリと扉が開く。
「よーハルト。入って」
「おじゃまー」
翔真に出迎えられ、おれは玄関に足を踏み入れた。翔真のうちに遊びに来るのは中学の頃以来だ。今日は遊びに来たわけではないのだが。
「飲みもんとお菓子買ってきた」
コンビニの袋を掲げると、翔真が「ありがとー」と受け取る。奥のリビングから、温和そうな垂れ目の女性がパタパタと駆け寄ってきた。翔真の母さんだ。
「ハルトくん、いらっしゃーい! 久しぶりやねえ」
「こんにちは。おじゃましまーす」
「今日、タルト作ってん。よかったら後で食べて。口に合わんかもしれんけど……」
「え! めっちゃ食います! おれタルト好き!」
翔真の母さんの趣味はお菓子作りらしく、あれこれ凝ったものを作ってはインスタに投稿しているらしい。おれの母さんの得意なお菓子はホットケーキミックスで作る、混ぜてレンチンするだけのチョコレートケーキである。比較して文句を言うつもりはないし、あれはあれで美味い。
「あっ、ハルトやー! あそぼー!」
リビングから飛び出してきた裕樹が足元に飛びついてくる。そのまま裕樹を抱え上げてぐるぐる振り回すと、「ぎゃー」と楽しそうな声をあげて笑う。
「裕樹。俺とハルト勉強するから、邪魔すんなよ」
「そうそう裕ちゃん、あっちで綾葉と遊んどき」
裕樹は不服そうに唇を尖らせると、翔真のシャツの裾を引いて「いつかちゃんも来る?」と尋ねる。翔真が「来ーへん」と答えると、がっくりと肩を落としてリビングに消えていった。
「裕樹、鮎川のことめっちゃ気に入ったみたいで。キャンプからずっとあんな感じやねん」
「そうなんや……」
「毎日めっちゃうるさいし。鮎川、裕樹の姉ちゃんになってくれへんかな」
「おまえ……その発言、他意なく言うてるんやったら結構やばいで」
おれは促されるまま、翔真の部屋に入った。ベッドとチェストと本棚とデスクとゲーム機、置いてあるものはおれと似たり寄ったりだ。部屋の真ん中にローテーブルが置かれており、課題のプリントが広げられていた。ものすごく綺麗なわけではないが、おれの部屋よりは片付いている。おれの部屋は足の踏み場もないくらいに散らかっているのがデフォルトだ。
「じゃあ、璃子呼ぶか」
翔真が言ったので、おれはスマホを取り出した。やや緊張しながら、「今翔真の家ついた!」とLINEを送る。すぐに既読がついて、犬のような動物が走っているスタンプが送られてきた。すぐに向かう、ということだろう。
夏休み最終週。今日は部活が午前中で終わりだったので、おれは課題を片付けるために翔真の家に来ていた。翔真の成績はおれと似たり寄ったりなので、馬鹿が二人集まったところであまり意味はない。本日の最重要人物は、とっくの昔に課題を片付けているという浅倉璃子様である。
ものすごく羨ましいことに、翔真と璃子は同じマンションに住んでいる。保育園のときからずっと一緒で、家族ぐるみの付き合いがあるようだ。本人たち曰く、友達というほど親しくないので便宜上幼馴染と言っている、らしい。
ものの五分もしないうちにインターホンが鳴って、翔真の母さんが璃子を出迎えたらしい。玄関の方から声が聞こえてくる。
「璃子ちゃん、久しぶりー!」
「こんにちは。あ、こないだおばちゃんが教えてくれたレシピ試してみたよ。美味しかったー」
「ほんまに? 今日はタルト作ってん。よかったら食べて」
「やったあ。めっちゃ楽しみ」
部屋の扉が開いて、璃子がひょっこり顔を出した。白いTシャツにロングスカートを合わせている。おれの方を見て「こんにちは」とはにかんだので、おれは小さく「よ」と答えた。
「璃子ちゃんも昔みたいにもっと遊びに来てくれたらいいのにー」
翔真の母さんはそう言って、「勉強頑張って」と部屋の扉を閉めた。璃子が翔真の部屋に一人で遊びに来るようだと困るな、とおれは思う。
「適当に座って」
翔真に言われて、璃子はおれの隣に腰を下ろした。それほど広い部屋ではないので、なんだかやけに璃子が近くに感じられる。ローテーブルの上でごつんと肘と肘がぶつかって、おれは密かにテンションが上がった。
「課題持ってきたけど……ほんまに写すん?」
リュックからプリント類を出した璃子が、やや怪訝そうに目を細めた。自分でやった方がいいのではないか、と言いたいらしい。おれと翔真は揃って「写す!」と答えた。こんなの、自力で全部やっていたら日が暮れてしまう。璃子は溜息をついて、ローテーブルの上に課題のプリントを置いた。
おれたちが必死に課題を写しているあいだ、璃子はちょっと暇そうにしていた。翔真が「漫画とか読んでていいよ」と言うので、璃子は遠慮なく本棚を物色して、バトルものの少年漫画を手に取った。それ結構グロいけど、大丈夫かな。
時計の針が二周したところで、コンコン、と部屋の扉がノックされる。璃子はもう漫画を四巻まで読み終えていた。翔真が「なにー?」と言うと、翔真の母さんが顔を出す。
「そろそろ休憩せーへん? タルト食べる?」
「食う」
「翔ちゃん、ちょっとこっちきて手伝って」
「わかった」
翔真がそう言って部屋を出て行ったので、おれと璃子は二人きりになってしまった。そうなると、途端に先ほどまでの沈黙が落ち着かなくなってしまう。おれは気まずい空気を誤魔化すように、本棚をゴソゴソと漁り始めた。
「な、なにしてるん?」
「いや……エロい本とかないかなって」
おれが言うと、璃子はちょっと頬を赤らめる。
「翔ちゃん、そういうの興味なさそうやけど……」
「健全な高校生男子やのに、そんなことあるか?」
「……ほんなら、高梨くんは持ってるん?」
しまった、墓穴を掘った。ちなみにおれは動画派である。
「なにしてんの」
結局目当てのものは見つからないまま、トレイを持った翔真が部屋に戻ってきた。ケーキと紅茶をローテーブルに乗せる。つやつやとしたフルーツがたっぷり乗ったタルトは見栄えも良く、とても美味そうだ。
「エロ本探してんの」
「そんなわかりやすいとこに置くわけないやろ」
ってことは、一応持ってんのか……。おれはちょっと安心した。璃子がやや気まずそうに、紅茶に口をつける。女子の前でしていい話題でもないな、と思ったおれは深追いをやめた。
おれは本棚の下の段にある、分厚いアルバムを手に取った。背表紙に「翔真二歳〜三歳」と書いてある。うちの親はそれほどマメな方ではないので、アルバムの類はない。イケメンは幼い頃からイケメンなのだろうか。興味を惹かれたおれは「見てもいい?」と翔真に尋ねる。
「いいよ」
「あ、あかん!」
あっさり許可した翔真とは裏腹に、璃子は真っ赤になっておれの手からアルバムを奪おうと立ち上がった。おれは璃子の手の届かない場所までアルバムを持ち上げると、「なんで?」と尋ねる。
「た、たぶん私も写ってるから!」
……それは是非とも見たい。璃子の制止を無視して広げてみると、砂場で遊んでいる男の子と女の子の写真が現れた。たぶん翔真と璃子だ。二人とも、顔が全然変わっていない。幼い璃子は今と同じように目がくりっとして頰がふっくらしていて、とてもかわいい。おれが素直に「かわいいやん」と言うと、璃子はぽっと頬を染めて手を引っ込めた。
「え、そ、そうかな?」
もちろん、今の璃子もとてもかわいいけど。とは口に出せるはずもない。
おれはパラパラとページをめくっていく。翔真のアルバムの中に、想像以上に璃子の写真は多かった。保育園の制服を着て、仲良く手を繋いでいる写真もある。翔真の人生の中には、当たり前のように璃子の姿があるのだ。こんなにかわいい幼馴染がいるなんて、やっぱり羨ましい。
ふと一枚の写真が目に飛び込んできて、おれはぎょっと目を剥いた。白いバスタブの中に、幼い翔真と璃子が入れられている。二人とも服を着ておらず、素っ裸だった。小さな璃子の胸のあたりに、くっきりとしたハート型のアザがあるのまで見える。
「いやーっ! 見んといて!」
璃子が叫び声をあげたので、おれは慌ててアルバムを閉じる。おれはロリコンではないし、幼女の裸に興奮する趣味は断じてない。しかしそれが璃子のものだとすると話は別だ。夢の中で見た下着姿の璃子が頭に浮かんで、おれの頬はちょっと緩んだ。現実の璃子は、真っ赤になっておれを睨みつけている。
「み、見られたくなかったのに……」
「ほとんど見てへんから……」
「ほんま?」
「……浅倉、あんなとこにアザあるんやな」
「めっちゃ見てるやん! もう!」
ぽかぽかと胸を殴ってくる璃子を、おれは「ごめん」と言って宥める。そんなおれたちのやりとりを見て、翔真は呆れたように「おまえら、タルト食べへんの」と言った。
おれはフルーツタルトを頬張りながら、ハート型のアザを思い出していた。先ほど見た幼い璃子のものではなく、以前に夢の中で見た璃子のものだ。なんだかやけにエロくて唆るな、と思っていたのでよく覚えている。
……なんでおれの夢やのに、そこまで忠実に再現されてるんやろう。
我ながらちょっと怖くなってきた。あれは本当にただの夢なのだろうか、と考えて、馬鹿馬鹿しいと思い直す。夢の中の璃子は、おれの妄想の産物に過ぎない。偶然に決まっている。
隣でタルトをつついている璃子を横目で見つめる。白い肌に浮かぶハート型のアザをつい想像してしまって、おれはぶんぶんと頭を振って煩悩を追い出した。
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