キャンプ③

 ゆっくりと瞼を開けると、私の部屋よりも高い天井が目に入ってきた。クーラーがないせいで蒸し暑く、Tシャツが汗でぐっしょりと濡れていた。早起きの子どもがはしゃぐ声が耳に飛び込んでくる。

 ついさっきまで夢の中でハルくんといちゃいちゃしていたことを思い出して、わたしは赤面した。ああ、こんなところでなんて夢を見てしまったんだろう!

 むくりと上体を起こすと、どうやら同じタイミングで高梨くんも目を覚ましたらしい。布団の上に座り込んで、ぼうっとしている。寝顔が見られなくて残念だ。私の視線に気付いたのか、彼がふとこちらを見て、目が合ってしまった。


「お、おはよう……」

「……はよ」


 本人が近くにいるのにあんな夢を見てしまったことに、私は居た堪れなくなってくる。彼から目線を逸らすと「汗かいたからお風呂入ってくる!」と言って、逃げるようにその場から離れた。



 お風呂に入って戻ってくると、いつかちゃんと翔ちゃんも既に目を覚ましていた。裕樹くんはまだ眠いのか、パジャマ姿のままいつかちゃんの膝に頭を預けている。高梨くんもお風呂に入ってきたらしく、ずいぶんとさっぱりした顔をしていた。


「おにいちゃん、頭おだんごにしてー」

「ええ? 俺、そんなんできひんで」


 綾葉ちゃんからブラシとヘアゴムを手渡された翔ちゃんは、困ったように眉を寄せた。救いを求めるようにこちらを向いた翔ちゃんに、私は無言で首を横に振る。私はそこまで器用ではないし、ハーフアップかポニーテールが精一杯だ。


「鮎川できる?」

「ごめん、わたしも無理……」

「……しゃあないなあ」


 高梨くんは翔ちゃんからブラシとヘアゴムを奪い取ると、スマホを手に「こんなん、YouTube見ればどうにでもなるやろ」と呟く。しばらくスマホ画面を眺めて、ふむふむと頷く。


「だいたいわかった。綾葉ちゃん、こっちおいで」


 そう言って手招きをした高梨くんは、綾葉ちゃんを膝の上に乗せて髪を梳かし始めた。おいでって言われて、膝に乗せてもらうなんてずるい。夢の中ではそこは私の定位置なのに……と、ついつい七歳児に嫉妬をしてしまう。

 動画を見ながら器用に綾葉ちゃんの髪を結った高梨くんは、「よっしゃ、できた」と言って頭のてっぺんのお団子をゴムでまとめた。鏡を見た綾葉ちゃんは「かわいい!」と嬉しそうな声をあげる。


「うわ、すごいなハルト。綾葉、ちゃんとお礼言いや」

「ありがとう」

「どういたしまして」

「よかったね、綾葉ちゃん。めっちゃかわいい」


 いいなあ、羨ましいなあ……と思いながら綾葉ちゃんのお団子を見つめていると、高梨くんがふいにわたしに向かって手招きをしてきた。私は飼い主に呼ばれた忠犬のように、尻尾を振って彼の元に駆け寄る。


「浅倉、ヘアゴム貸して」


 高梨くんはそう言って、私を前に座らせて髪を梳き始める。残念なことに、膝の上に乗せてはくれなかった。

 ワックスをつけて、根元を編み込んで、髪の束をぐるっとねじったり回したりして、私がぼんやりしているうちに、見事なアップスタイルが完成していた。


「す、すごい……かわいい!」


 手鏡を覗き込んだ私は嘆息する。私のようにただ結んだだけではない、いつも陽奈ちゃんがしているようなおしゃれなポニーテールだ。私が唖然としていると、高梨くんは得意げに「練習の成果」と笑う。


「高梨くん、すごいね。妹とかいるん?」

「いや、弟しかおらんけど」

「そ、そうなんや……」


 それなら、高梨くんは一体誰の髪で練習したんやろう。そんな疑問が頭をよぎって気分が少し落ち込んだけれど、「うまくできた」と満足そうに私の髪に触れる高梨くんを見ていたら、そんなことはもうどうでもよくなってしまった。



 山の向こうにオレンジ色の太陽が落ちていくにつれて、次第に空が薄紫に色を変えていく。バスに揺られながら、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。二日間たっぷり遊びまわった子どもたちはくたびれて眠っているのか、バスの中はやけに静かだ。

 ……楽しかったなあ。

 二日間ものあいだ、高梨くんと一緒に過ごせるなんて幸せすぎた。この二日間で、高梨くんのいろんな顔が見られた気がする。逞しい裸の胸に抱きついた記憶は、大切にお墓まで持って行こう。

 窓ガラスに映る自分の髪型がおしゃれでかわいくて、しかもそれが高梨くんの手によるものだと思えば、余計に顔がにやけてしまう。香苗が前に「女の頭を勝手に触る男にろくな奴はいない」と言っていた気がするけど、高梨くんなら全然嫌じゃない。

 そのとき、こてん、と私の頭にいつかちゃんがもたれかかってきた。いつかちゃんは、はっとしたように体勢を立て直すと「ごめん、眠くて……」と申し訳なさそうに言う。


「昨日あんま眠れんかった? 結構暑かったもんな」


 私が言うと、いつかちゃんは片手で口を押さえて欠伸混じりに答える。


「まあ、ちょっと寝苦しかったかな……でも、璃子ちゃんもめっちゃうなされてたで」

「えっ、ほんま? ば、爆睡してたんやけど……」


 あんな妙な夢を見てしまう程度には。いつかちゃんは前の席に座っている男子二人を気にしながら、声のトーンを落とした。


「璃子ちゃん、結構セクシーな声出してたで」

「せ……」

「こんなとこで高梨くんに変なことされてんのかと思って、ちょっと焦った」

「さ、されてへん……!」


 夢の中では存分にしていたけれど。ああ、高梨くんに変な声を聞かれていたらどうしよう。私が真っ赤になって俯いていると、いつかちゃんは再び眠たげに瞼を下ろした。


「いつかちゃん、こっち寄りかかっていいよ」

「いや、璃子ちゃんちっちゃいし華奢やしなんか申し訳ないわ……わたし、重いし」

「ぜんぜん重くないし、私結構頑丈やで」

「でもなあ……」


 いつかちゃんが渋っていると、前に座っていた翔ちゃんが、座席のシート越しにこちらを向いた。


「ほんなら、鮎川こっち来れば。俺にもたれればいいやん」

「ええ?」


 突然の提案に、いつかちゃんは怪訝そうな顔をする。


「俺も寝たいけど、ハルトにもたれんのは嫌や。鮎川の方がいい」

「おれかて嫌やわ、そんなん……」


 たしかに、高梨くんと翔ちゃんが寄り添って寝ている絵面はあんまり見たくないような気がする。いつかちゃんは「じゃあ高梨くん席代わって」と言って立ち上がる。私に向かって目配せをしてきたので、きっと気を利かせてくれたのだろう。彼女は本当に面倒見が良すぎる。

 いつかちゃんと交代で、高梨くんが私の隣にやってきた。互いの肘と肘が軽くぶつかって、どきりとする。高梨くんは「寝たかったらこっちもたれていいよ」と言ったけれど、私はちっとも眠くなかったので首を横に振った。その後すぐに、しまった寝たふりして寄りかかればよかったかな、と後悔する。


「もうすぐ夏休み終わりやな」

「せやな。……うわ、課題まったくやってない」

「うそ。私もう終わったよ」

「まじで? お願い、写させて」

「別にいいけど、休み明け試験やるって言ってたから、自分でやった方がいいんちゃうかなあ……せっかく期末がんばったのに」

「また次の期末で死ぬほどがんばるからいい。おれ、追い込まれんとやる気でーへんタイプやねん」


 こうやって、他愛もない会話をぽんぽんと交わせることが嬉しい。二学期になって席替えしたら、こんな風に気軽に話す機会も減るのかな。そう考えるとなんだか無性に寂しくなって、私は思わず「……席替え、嫌やなあ」と呟いていた。


「……おれも。今の席、気に入ってたのに」


 私は一瞬喜びかけたけれど、陽奈ちゃんが近くにいるからだ、とすぐに気付く。別に、私の隣の席が嬉しいわけじゃない。

 ――次の席替えでも、高梨くんの近くになれたらいいな。

 ――もし離れちゃったとしても、またいっぱい喋りたいな。

 そう伝えようとしたけれど、意気地なしの私の喉からは掠れた息が漏れるだけで、声にならない。夢の中だと、いくらでも大胆なことができるのに。やっぱり現実の私はただのヘタレなストーカーだ。


「浅倉」

「あ、な、なに?」

「……席替えしても、おれふつうに浅倉に挨拶するから」


 無視せんといてな、と高梨くんが下を向いたままぼそぼそと続ける。私は大きな声で「そんなん、するわけない!」と答える。


「試験前になったらまた勉強教えて」

「も、もちろん! またノート作ってくる!」

「あと、体育祭とかあるし……また特訓しよ」

「が、がんばる……!」

「秋になったら公式戦始まるし、よかったらまた見に来て」

「うん! 絶対行く!」


 私は首が千切れるんじゃないかと思うほど、何度も何度も頷いた。高梨くんはほっとしたように頰を緩めて笑う。その表情を見た途端、胸の奥がぽっと火がともったように温かくなる。

 窓から差し込む夕陽が彼の顔をオレンジ色に照らしている。窓を背にしている私の顔は、きっと彼からは逆光でよく見えないだろう。こんなにみっともなくニヤニヤしている顔を見られたくないから、ちょうどよかった。


「あと、浅倉が作ったクッキー。あれ、また食いたい。めっちゃ美味かったし」

「ぜ、絶対作る! 何味がいい?」


 勢いこんだ私の質問に、高梨くんは顎に手を当てて考え込む。それから、やや言いにくそうに小さな声で「……ピンクのハートのやつ」と呟いた。

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