モテ期到来

 おおよそ四十人の生徒が集う狭い教室の中で、ほんの四メートルほどの距離がいかに遠いかと知る。

 二学期に入り、我がクラスでは席替えが行われた。おれは窓際の後ろから三番目。璃子は真ん中の列の前から二番目。ものすごく遠い訳ではないが、用がないのに声をかけるには勇気のいる距離だ。休み時間になると璃子は女子と固まって喋っているし、璃子一人ならともかく、おれには女子の群れに飛び込む勇気はない。タイミングが合えば挨拶はするものの、いつのまにかおれたちは世間話すら交わせなくなっていた。

 机に向かっている璃子の後ろ頭をぼんやりと眺める。授業中の璃子はそれなりに真面目だ。しっかり教師の話を聞いて、せっせとノートをとっている。たまに隣の席の女子と話をしているようだったが、それほど騒がしくしているわけではない。前の席に座っている男子が振り向いて、璃子に何かを話しかけた。会話はここまでは聞こえないが、璃子が肩を揺らして笑うのが見えた。何かくだらないことでも言ったのだろう。

 ……いいなあ。

 モヤモヤが胸を満たして、おれは机に突っ伏した。おれだって今璃子の近くに座っていたら、一学期よりももっとたくさん話しかけるのに。四メートルの距離が憎らしい。翼には「またハルト後ろの方やんけ。いいなあ」と羨ましがられたが、今のおれにとってはたとえ最前列だとしても璃子の近くの席になりたい。黒板が見えないとか言って代わってもらう手も考えないでもなかったが、おれの視力はばっちりA判定だ。

 勉強を教えてもらうとか、体育祭の特訓をするとか、クッキーを作ってもらうとか。キャンプの帰りにそんな約束をしたことが、もう遠い昔のように思える。このまま璃子に彼氏ができたりして、全部なかったことになってしまうのだろうか。あのときの璃子の表情は、オレンジ色の夕陽を背にしていたせいでよく見えなかった。もしかしたら、本心では嫌だったのかもしれない。

 なんだかやるせない気持ちになって、眠くはないが目を閉じる。このまま眠ってしまえば、また幸せな夢が見れるだろうか。

 現実での関係とは裏腹に、夢の中では相変わらず璃子はおれの恋人だった。「ハルくんと全然話せなくなって寂しいな」と拗ねる彼女は、きっとおれの願望を反映している。現実の距離を埋めるように抱き合ってキスをして、そのときだけは幸せを感じるけれど、目が覚めると無性に虚しくなる。……おれ、こんなんで青春を消費していいんかな。

 結局おれはそのまま居眠りをしてしまったけれど、幸せな夢は見られなかった。目覚めたときには授業は終わっていて、涎のついた教科書と真っ白のノートだけが目の前に置かれていた。



 昼休み、おれはいつものように男子数人で集まって昼飯を食っていた。今日は母さんが寝坊して弁当が用意できなかったらしいので、コンビニでおにぎりとパンを買ってきた。ビニールを剥いてツナマヨおにぎりに齧りつくと、すぐそばからひそひそ声が聞こえてくる。どうやら、「夏休みに誰が童貞を卒業したか」という話題で盛り上がっているらしい。


「ハルトはまだ裏切ってないよな?」


 翼に縋るような目で見つめられて、おれは「残念ながら」と答える。妙な意地を張っているおれは、夢の中でさえ未だ彼女とセックスできずにいる。


「高梨くん」


 ふいに声をかけられて、おれはぎょっとする。声の主は、女子テニス部の瀬戸せと幸穂ゆきほだった。唐突な女子の登場に、男たちはぴたりと猥談を止めて、何食わぬ顔でゲームの話なんかをしている。女子がわざわざ話しかけてくることなどほとんどないので、おれは緊張を誤魔化すようにおにぎりを飲み込んだ。


「な、なに?」

「高梨くんって、今彼女いる?」

「え!? おらんけど」


 不躾な質問に、おれは動揺しつつも答えた。瀬戸さんは「よかった!」と表情を輝かせて続ける。


「一組の佐々岡ささおか美桜みおって知ってる?」


 聞き慣れない名前に、おれは首を捻った。「知らん……」と答えると、翼が話に割って入ってくる。


「オレ知ってる! 女テニの子やんな。瀬戸とダブルス組んでる」


 翼は男子テニス部なのだ。数少ない女子との会話チャンスを逃さない男である。瀬戸さんは「そうそう」と頷いた。


「美桜が、夏休みに練習試合見に行ったときに、高梨くんのことかっこいいって言うてて」

「え!?」


 おれは素っ頓狂な声をあげた。夏休みの練習試合といえば、璃子が見に来てくれた久川高校とのものだ。おれが異常なまでに調子が良かったやつ。そういえば翔真のファンが何人か見に来ていたし、あれは一組の女子だった気がする。

 おれは平静を装ってはいたものの、内心かなり浮かれた。自慢じゃないが、おれの人生の中で女子に「かっこいい」なんてことを言われたことがない。夢で璃子に言われたことはあるが、さすがにそれはカウントに入れない方がいいだろう。


「そりゃあ、ありがたい話で……」


 なにぶん慣れていないせいで、ものすごく照れる。ボソボソと呟きながら頰を掻いていると、瀬戸さんは小さく首を傾げて尋ねてきた。


「美桜に高梨くんのLINE教えてもいい?」

「え? ああ、うん……いいよ」

「よかった! ほんなら本人に伝えとく。ありがとねー」


 そう言って瀬戸さんは、手を振って去っていった。残されたおれがぼうっとしていると、翼が肩を掴んで乱暴に揺すってくる。


「おい! ハルト! モテ期きてる!?」

「え? ええ……そ、そうなんかな」

「なんやねん、もっとはしゃげや! 佐々岡さん、めっちゃかわいいで」

「まじ?」

「まじまじ。胸もでかい」


 まじか……。おれはまだ見ぬ佐々岡さんに、ちょっと想いを馳せてしまった。翼は溜息をつくと、ジト目でおれを睨みつけてくる。


「ちくしょう、ハルトもついに童貞卒業か」

「ぶっ」


 おれは思わず飲んでいたフルーツオレを机に吹き出した。翼は「きったねえ」と顔を顰めながらも、ティッシュで机を拭き始める。おれは咳き込みつつも言った。


「いやいや……それはさすがに……」

「でもさ、うまいこといったら付き合えるんちゃう?」

「うーん……」


 歯切れの悪いおれを、翼は不思議そうに見つめてくる。

「どないしたん? あんま乗り気ちゃうやん」

「いや、そうでもないねんけど」

「もしかしてオレの話疑ってる? 佐々岡さん、ほんまにかわいいで。後で見に行ってみたら?」

「うん、せやな……」


 おれは曖昧に答えながら、カレーパンの袋を開いた。かわいい女子に好かれるのは当然嬉しい。嬉しいに決まっている。それでも、今のおれが気にかかっているのは璃子のことだった。

 チラリと璃子に視線をやると、彼女はいつものように女子数人で固まっている。瀬戸さんとはグループが違うらしく、別々にお昼を食べていた。璃子がこのことを知ったらどう思うかな、と考えてみたけれど、きっと何とも思わないだろう。

 璃子が楽しそうに声をたてて笑う。夢の中ではおれに向けられているその笑顔が、現実のおれに向けられないことが無性に寂しい。むしゃむしゃとカレーパンを食べながら、早く夢で璃子に会いたい、とおれは思った。



 ショートホームルームが終わるやいなや、おれは教室を飛び出して部室へと向かった。今日は体育館が使える日だから、早めに行ってシュート練習をしたい。足早に廊下を歩いていると、背後から名前を呼ばれた。


「高梨くん」


 呼び止められたというよりは、高梨くんですか、と確認するような、自信なさげなトーンだった。振り向いてみると、茶髪をポニーテールにした女子が立っている。


「……えーと」


 知り合いなのだろうか。残念ながらまったく心当たりがない。おれが戸惑っていると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げて「いきなりごめん」と詫びてきた。


「あたし、佐々岡です。佐々岡美桜。幸穂から聞いてる?」

「あ! あー……佐々岡さん」


 まさかのご本人登場に、おれはぴしりと背筋を伸ばした。これが件の佐々岡さん。なるほど噂に違わずとてもかわいい。鼻筋はすっと通っており、アーモンド型の猫目は茶色がかっていて、ちょっと外国の血が混じっているような顔立ちだ。翼の言葉を思い出して、ついつい胸元に視線をやってしまった。……ふむふむ、なるほど。


「ほんまやったら、あたしが直接聞くべきやったんやろうけど。彼女とかおったら申し訳ないなって思って、幸穂にお願いしちゃってん。ごめんね」

「いや、全然……」


 相変わらず、おれはろくな返事もできない。これでは幻滅されてもおかしくないのでは、と思ったが、佐々岡さんは気にした様子もなくニコニコと続けた。


「彼女おらんって聞いてほんま安心したあ。またLINEするね」

「う、うん」

「よかったら、また今度ゆっくり喋ろ」

「あ、はい」

「じゃあ、お互い部活がんばろね!」


 そう言って佐々岡さんは、ラケットケースを背負って走って行った。少し離れたところにいる女子と、「やば、ついに喋っちゃったー!」とはしゃいでいる声が聞こえてくる。どうやらこれは本当にモテ期なのかもしれない。

 呆然と立ち尽くしながら、おれはまた璃子のことを考えていた。おれは璃子のことをとてもかわいいと思っているし、正直かなり意識している。それでも、璃子がおれのことを好きになってくれるとは限らない。

 佐々岡さんはおれにはもったいないくらいかわいくて美人だし、どうやらおれのことを好いてくれているらしい。話したのは今日がはじめてだが、性格も悪くなさそうだ。彼女と付き合った方が、おれは幸せになれるんじゃないだろうか。なにせおれの好みのタイプは、「おれのことを好きになってくれる女の子」なのだ。

 ……佐々岡さんと付き合えば、もうあの妙な夢も見なくなるのかもしれない。わざわざ夢の中にクラスメイトを引っ張り出してこなくても、現実の恋人と思う存分イチャイチャすればいい。それはきっと健全で当たり前のことなのだろうけれど、夢の中で璃子に触れられなくなると思うと、おれの胸は締めつけられるように痛んだ。

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