せめて夢だけでも

 いつものように体育館の中を覗き込むと、ちょうど高梨くんがドリブルシュートを外したところだった。リングに弾かれたボールを拾った先輩が、「ハルト、集中!」と怒号を飛ばす。高梨くんは大きな声で「すみません!」と謝った。シャツの袖で額を拭った高梨くんは、ちょっと調子が悪そうに見える。

 そういえば昨夜夢に出てきたハルくんも、なんだかやけにぼうっとしていた。話していてもどこか上の空で心ここにあらずの彼に「どうしたん?」と尋ねてみたけれど、「なんでもない」と誤魔化されてしまった。昨夜の彼はあまり私に触りたがらなくて、ろくにキスもハグもしてくれなかった。……現実では会話すらできないのだから、せめて夢の中ではもっとイチャイチャさせてくれればいいのに。

 二学期になって席替えをしてから、私と高梨くんの接点はぱったりとなくなってしまった。私は隙あらば彼に話しかけようと頑張っているのだけれど、いつも男の子同士で固まっている彼に近付く勇気が出ない。結局元通り、毎日こそこそストーカーをする生活に逆戻りだ。私は小さく溜息をついた。


「璃子ちゃん」

「ギャッ」


 後ろからぽんと肩を叩かれて、私は奇声を発してしまった。振り返ってみると、オレンジ色のボトルを抱えたいつかちゃんが立っていた。私は「び、びっくりしたあ」とどきどきうるさい心臓を押さえる。


「璃子ちゃん、毎朝がんばるねー」

「これ、私の生きがいやから……」

「もうすぐ朝練終わるから、もしよかったら一緒に教室行かへん? 高梨くんにも声かけよ」

「い、いいの!? でも、私が毎朝ストーカーしてるのバレへんかな……」

「わたしが偶然璃子ちゃん見つけて声かけたことにしとこ。着替えてくるからちょっと待ってて!」


 大袈裟ではなく、いつかちゃんに後光が差して見える。教室までの短い距離だけど、久しぶりに高梨くんと話ができるかもしれない! 私は体育館へと戻っていくいつかちゃんの背中に向かって手を合わせる。

 いつかちゃんが高梨くんに声をかけると、高梨くんはこちらを向いた。視線がかち合うと、やや驚いたような表情を浮かべている。扉から顔を出した私は、勇気を出して小さく手を振ってみた。高梨くんは周りの目を気にしながらも、こっそり手を振り返してくれる。

 それからダッシュで部室に向かった高梨くんは、信じられないくらいの速さで制服に着替えて出てきた。息を切らして駆け寄ってきた彼に「浅倉!」と名前を呼ばれる。


「おはよう。高梨くん」

「おはよ! 浅倉、いつもこんくらいの時間に来てんの?」

「い、いつもはもうちょっと早いんやけど……」


 高梨くんの朝練を見るために早く来てます、なんて言えるはずもない。口ごもる私を気にした様子もなく、高梨くんは「もしかして寝坊した?」と尖った犬歯を見せて笑う。ああ、幸せだ。なんてことのないやりとりだけど、久々に会話が交わせたのが嬉しくて、私はついにやにやしてしまう。


「そういえば今日の英語、高梨くん当たる日ちゃう?」

「あっ、やば! 忘れてた」

「私、訳写してきたからノート貸したげようか」

「え、でも浅倉困らん?」

「予習用のノートやから大丈夫」


 私はリュックからノートを取り出すと、高梨くんに差し出した。高梨くんは両手で恭しくそれを受け取ると、「浅倉様……」と深々頭を下げた。大袈裟なその仕草がおかしくて、私は思わず吹き出す。


「ハルト、何やってんのー」


 そのとき部室から出てきた男の子が、すれ違いざまに高梨くんに声をかけてきた。名前はわからないけれど、確か翔ちゃんと同じ一組の子だ。好奇心の滲む目で見つめられたので、とりあえずぺこりと頭を下げておく。彼は私をじろじろ観察した後、高梨くんのことを軽く肘でつついた。


「なんやねん、さっそく浮気?」

「え」

「ハルト、まじでモテ期きてるやんけ。佐々岡に言いつけたろーっと」

「ち、違っ……!」


 高梨くんは慌てたように唇をぱくぱくさせた後、口を噤んでしまった。状況を掴めない私は、キョトンとして首を傾げる。浮気? モテ期? 佐々岡さん? どういうこと?


「璃子ちゃん、おまたせ!」


 そのとき、制服に着替えたいつかちゃんがやって来た。一組の男子はいつかちゃんを一瞥した後、「なんや、マネージャーの友達か。ハルト、疑ってごめん」と高梨くんの肩を叩いて去っていく。高梨くんは縋るような目で私を見つめている。何かを掴むようにこちらに伸ばされた彼の手は結局何も掴むことはなく、だらりと下されてしまった。



「璃子ちゃん、ちょっと今から時間ある?」


 昼休みに突然うちの教室にやってきたいつかちゃんは、やけに深刻な表情でそう言った。香苗たちに一言断ってから、私は中庭でいつかちゃんと二人でお昼ごはんを食べることにした。九月になっても残暑は厳しく、中庭にいる生徒はそれほど多くない。少し離れたところでバレーボールをしている女子の一団はいたけれど、私たちの会話はきっと聞こえていないだろう。いつかちゃんはお弁当を膝の上に広げたまま、「落ち着いて聞いてな」と前置きしてから話し出す。


「女テニの佐々岡美桜って知ってる?」


 名前を聞くと、顔がすぐに浮かんできた。関わりはないし、直接話したことはほとんどないけれど、明るくて目立つ美人だ。色素が薄くて彫りが深くて、ちょっとハーフみたいな顔をしている。そういえば、今朝も佐々岡という名前を聞いた気がする。


「名前と顔は知ってるけど、佐々岡さんがどうしたん?」

「美桜も夏休みに練習試合見に来てて、そんときに高梨くんのこと結構……気に入ったみたいで」

「えっ」


 恐れていた事態が起きてしまった。そりゃああれだけかっこいい高梨くんを目の当たりにしたら、惹かれてしまうのも無理はないだろう。ぽろり、とお箸からウィンナーが零れ落ちた。


「ほんで美桜が、昨日高梨くんのLINE聞いたらしいねん。教室で喋ってんの聞こえてきた」

「そうなんや……」


 私が俯いてしまうと、いつかちゃんは申し訳なさそうに私の顔を覗き込んでくる。


「変なこと聞かせてごめん。知らんのも嫌かと思って」

「ううん、教えてくれてありがとう……」


 いつかちゃんを心配させないように、無理やり笑顔を捻り出す。きっと痛々しい表情をしているのだろう、いつかちゃんは悲しげに目を伏せた。

 一組の男子は、今朝高梨くんに「浮気」「佐々岡に言いつける」と言った。もしかすると、もう手遅れなくらい、高梨くんと佐々岡さんの関係は進展しているのかもしれない。さーっと血の気が引いて、どんどん指先が冷たくなっていく。暑さも感じず、中庭ではしゃぐ女子の声も遠くに聞こえる。


「たぶんまだ付き合ってるとかじゃなさそうやし、そんなに気にすることもないと思うで。ごめんね、いらんこと言わん方がよかったかな」


 いつかちゃんの慰めの言葉を聞きながら、私は味のないお弁当を胃袋に収めるのが精一杯だった。




 ふかふかのベッドの中で目を覚ますと、眼前にハルくんの寝顔があった。すやすやと穏やかな寝息をたてる彼の顔はまるで幼い子どものようで、胸の奥がきゅんと切ない音を立てた。ハルくん、と小さく名前を呼んでみると、彼は身動ぎをして瞼を開く。


「……ん、璃子」


 寝起きの少し掠れた声で名前を呼ばれるだけで、私は無性に泣きたくなる。溢れそうになる涙を懸命に堪えながら、私は彼に唇を押しつけた。現実では彼の唇に触れる資格なんてありはしないのに。なんて幸せで残酷な夢なんだろう。

 私の突然のキスに、ハルくんは少し戸惑ったようだった。いつものように舌を絡め合うこともなく、そっと胸を押し返される。


「璃子、どしたん?」


 私の様子がおかしいことに気付いたのか、ハルくんは心配そうに私の頰を撫でた。現実の高梨くんも、そんな風に優しく他の女の子に触れるの? 想像しただけで気が狂いそう。ごつごつと節張った長い指も、笑うと糸のようになる細いつり目も、少しかさついた薄い唇も、全部私だけのものだったらいいのに。せめて夢の中のハルくんだけは、全部独り占めしたい。


「ハルくん」

「うん?」

「……しよう」


 私は一方的にそう宣言すると、むくりと上体を起こした。ベッドの上にぺたんと座ったまま、意を決してパジャマのボタンに手をかける。ハルくんが慌てて私の手を掴んで静止した。


「あかん」

「なんで? 私、ハルくんとしたい」


 私はハルくんの手を振り払うと、ぷちんぷちんとひとつずつボタンを外していく。彼に見られている、と思うと僅かに手が震えた。ボタンを全部外してしまうと、ハート型のアザが浮かぶ控えめな胸が露わになった。佐々岡さんの胸はもっと大きいことを私は知っている。


「……璃子、やめて」


 ハルくんは目線を逸らしてそう訴える。私は彼の手を取ると、強引に私の胸に持っていった。小さな胸は大きな掌にいとも容易く覆われてしまう。


「お願い……」


 どくどくどく、とハルくんの掌ごしに、私の心臓の鼓動を感じる。目の前にいる彼は、悲痛そうな面持ちのまま動かない。真っ白い部屋の中は、息が詰まりそうなほどの静けさに包まれた。


「……困る」


 静寂を破ったのは、ハルくんの低い呻き声だった。私の胸から手を離すと、開けたばかりのパジャマのボタンを上から閉めていく。私は震える声で「なんで?」と問いかけた。


「今のおれ、璃子にそんなことする資格ない」

「資格ってなに? 私がいいって言ってるのにあかんの? これは私の夢やのに」


 瞬きと同時に、堪えていた涙がぽろりと溢れた。喉の奥から熱いものがこみ上げてきて、嗚咽となって唇から出てくる。はらはらと頰を流れる涙は、自分の意思では止められない。


「夢の中でくらい、私のこと好きになってくれたらいいのに……」


 私は縋るようにハルくんの胸に抱きついた。とめどなく溢れる涙が彼のTシャツを濡らしていく。彼の腕がぴくりと動いたけれど、その手が私の背中に回されることはなかった。窓のない真っ白い部屋の中で、すすり泣きの声だけが響いている。

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