キャンプ①
高所にある岩場を蹴り上げると、一瞬の浮遊感ののちに、ばしゃんと大きな音を立てて川に落下した。澄み切った水はひやりと冷たくて気持ちいい。雲ひとつない青空を見上げながら、そのままぷかぷかと水面に浮かんでいると、甲高い子どもの声で名前を呼ばれた。
「ハルトー! おれも! おれもやるから見てて!」
「おー! 気ーつけやー」
岩場の上からぶんぶんと手を振っているのは、翔真の弟の裕樹だった。「いくでー!」と叫んで岩場から飛び降りた裕樹は、おれのときよりも小さな飛沫を立てて川に落ちてきた。キャッキャとはしゃいでいる裕樹を荷物よろしく回収すると、おれは河川敷に座っている翔真のところに戻る。
「ハルト! さっきのもっかい!」
「はいはい、後でな。スイカ食お」
「食うー!」
七歳になったばかりだという裕樹はやんちゃの盛りで、隙を見てはおれの海パンを引きずり下ろそうとしてくる。生意気な悪ガキを持ち上げて肩に担ぎ上げると、楽しそうな声をたてて笑った。
「いやー、ハルトが裕樹と遊んでくれるから助かるわ。綾葉は璃子と鮎川が見ててくれるし」
裕樹の兄である翔真は、保護者が集まっているビーチパラソルの下でスイカを食べていた。翔真は保護者のお母さん方に大人気らしく、「翔ちゃんほんまイケメンやわあ」「うちの子もこんなんやったらええのに」「お菓子食べる?」とちやほやされている。
八月の半ばになり、部活は五日間の盆休みに入った。おれと翔真、璃子とマネージャーは小学生とその保護者たちに混ざって、滋賀県までキャンプにやって来た。なりゆきとはいえ、妙なメンバーだ。
うちの両親はお盆も仕事があるし、弟の櫂人も受験生なので、旅行や帰省の予定はなかった。本来ならば、今のうちに未だ手つかずの夏休みの課題を片付けるべきなのだろうが、おれは翔真の誘いを受けた。どうせ家にいたところでサボってしまうのは目に見えているし、部活ばかりのむさ苦しい夏に少しくらいの癒しを求めてもいいではないか。
おれは川辺ではしゃいでる「癒し」にチラリと視線をやった。彼女はマネージャーと翔真の妹の綾葉ちゃんと三人で、ビーチボールを投げて遊んでいた。水着の上から白のTシャツを着ているのは残念だったが、フリルのついた短いスカートからはすらりとした太腿が伸びている。黒くてさらさらの髪はポニーテールに結われており、うなじが白く眩しかった。……夏、最高!
「いつかちゃんにもスイカあげる!」
口の周りをスイカの汁でべたべたにしながら、裕樹が言った。裕樹はなんだかやけにマネージャーに懐いている。マネージャーは子ども好きで世話好きだし、子どもというのは総じて面倒見の良いお姉さんが好きなものだ。翔真はやる気なさげに「おー、ほんなら呼んできて」と言った。コイツ、まじで動くつもりないな。
「うん!」
元気よく返事をした裕樹が立ち上がったので、おれは後ろについていく。裕樹はボーダーのタンクトップ水着姿のマネージャーに向かって、一目散に飛びついた。
「わっ」
「いつかちゃん! スイカ食べよ!」
マネージャーは裕樹に目線を合わせると「うん、食べるー!」と言ってにっこり笑った。裕樹はついでのように「あやはとリコにもあげる」と付け加える。露骨な男だ。
「綾葉ちゃん、スイカやって。食べる?」
璃子が声をかけると、裕樹に比べて人見知りらしい綾葉ちゃんは、璃子の後ろに隠れたままこくんと頷く。裕樹の相手はお手の物だが、女の子相手にはどうしていいかわからない。璃子に任せることにしよう。
ビーチパラソルの下に戻ってくると、翔真が「おかえりー」と言った。おれは「ちょっと詰めて」と言ってビニールシートに腰を下ろす。隣に璃子が座ったので、おれはどきりとした。近い、近い近い。三角座りをしているせいでスカートがずれて、太腿が剥き出しになってしまっている。ものすごくスタイルが良いわけではないのに、どうしてこんなに目が離せなくなるのだろう。
マネージャーもボーダーのタンクトップに紺色のショートパンツという水着姿なのだが、なんというかあまりにも健康的で色気がない。おれがマネージャーのことを異性としてまったく意識していないせいかもしれない。マネージャーはどこまでいってもマネージャーでしかないのだ。
翔真は裕樹と綾葉ちゃんを膝の上に乗せて、スイカを食べさせている。バスケ以外には無気力な奴だが、なんだかんだで良い兄貴をやっているのだ。歳が近いこともあるが、おれは弟にこんな風に世話を焼いてやった記憶がない。
「あっ、璃子ちゃん。Tシャツ、スイカの汁ついてる」
「うわっ、やっちゃった。いつかちゃんごめん、そこのティッシュ取って」
いつのまにか仲を深めたのか、璃子とマネージャーは名前で呼び合うようになっている。璃子は白のTシャツについた赤い染みをトントンと叩いて、「取れなさそう……」としょんぼりした。
「浅倉、Tシャツ脱がへんの」
おれが何気なく言うと、璃子とマネージャーは揃ってこちらを見てきた。璃子は頰を染めて目を丸くしており、マネージャーはジト目で軽蔑のまなざしを向けてくる。
「高梨くん、それちょっとセクハラっぽい」
マネージャーの言葉に、おれは慌てふためいた。いや、璃子の水着が見たいとかそんなつもりは……かなりあるけど。一緒にいるのが翔真だからおれが変態のようになっているが、この感覚は高校生男子として至極健康的でまっとうなものだと思う。ここに翼や拓海あたりがいたら絶対脱げや脱げやの大合唱になっていたに違いない。だから、そんなケダモノを見るような視線を向けるのはやめてくれ。
「ぬ、脱ごかな……汚れちゃったし」
しばらく黙っていた璃子が、意を決したように言った。Tシャツの裾に手をかけた璃子を凝視していると、彼女は恥ずかしそうにこちらを睨みつけてくる。
「……た、高梨くん。あっち向いてて」
「いやいや、なんでやねん」
「脱ぐとこ見られんのはちょっと……」
「なんで? その下、水着やろ?」
はっきり言って絶対に見逃したくない。おれの心の中にいるケダモノが、「脱ーげ! 脱ーげ!」と拳を突き上げている。しばらくじりじりと睨み合っていたが、見かねたマネージャーがぱしんとおれの頭をはたいた。
「高梨くん、アウト」
「……めっちゃ健全な反応やと思うねんけどな」
おれは頭をさすりながら、渋々そっぽを向いた。ごそごそと隣でTシャツを脱ぐ気配がする。なんか、むしろこっちの方がエロくないか?
「い、いいよ」
璃子の許可が下りたので、おれはくるりと彼女の方を向いた。ギンガムチェックのフリルは胸元から二の腕までを覆っていて、肩が剥き出しになっている。肩以外はそれほど露出が多いわけではないけれど、フリルの下にはなだらかなふくらみが見て取れたし、裾からは小さな臍がちらりと覗いていた。
「……いや、なんも言わんのかーい」
おれが璃子を凝視したまま黙っているので、痺れを切らしてマネージャーがツッコミを入れる。かわいいとか似合っているとかエロいとか最高とか感想はいろいろあったけれど、それをいやらしくなく口にするスキルはおれにはない。結局おれは小声で「……いいと思う」と言って、スイカにかぶりついた。
「いつかちゃん、おれさっき向こうにひみつきち見つけてん。いつかちゃんに教えたるわ」
裕樹が目をキラキラと輝かせながら、マネージャーの腕を引いた。七歳児ながら、見習いたいほど積極的なアプローチである。マネージャーは大人の余裕で「いいの? ありがと裕樹くん」などと微笑んでいる。意外と悪い女だ。
「おにいちゃん、あやはも行くー」
「わかったわかった。裕樹も綾葉も、先に手ー洗いに行こ」
翔真は「ちょっと行ってくるわ」とおれたちに声をかけると、そのまま立ち上がって歩いていった。結果的に、おれは璃子と二人きりになる。小さな口でスイカを齧る璃子の口元は僅かに濡れていて、なんだかやけに扇情的に見える。普段は隠された肌はどこもかしこも白くて柔らかそうで、夏の暑さに理性が焼き切れてしまいそうだ。ジリジリとけたたましく鳴く蝉の声は、京都で聞くよりもうるさく感じられた。
「……高梨くん?」
スイカを食べ終えた璃子がふいにこちらを向いて、おれははっと我に返る。不躾な視線を誤魔化すように口を開いた。
「浅倉、泳がへんの?」
「……泳げへんの」
おれの問いに、璃子が拗ねたように唇を尖らせる。あれだけ運動音痴なのだから、なんとなくそうなのではないかと思っていた。おれが「やっぱり」と吹き出すと、璃子はむっと頰を膨らませる。
「やっぱりってなに!」
「いや、想定内やなって……」
「もう! 別にいいもん、泳げんくても生きてくうえで困らんもん」
「えー。船乗ってるときに沈没したらどーすんの」
「そうなったら潔く諦めて死ぬ……」
それはちょっと、諦めが良すぎる。おれは笑って立ち上がると、璃子に向かって「ほんなら行こ」と声をかけた。璃子はキョトンとして「え?」と首を傾げる。
「おれ浅倉が死ぬん嫌やから、泳ぎ教えたげるわ」
冗談めかしたおれの言葉に、璃子は「うん!」と頷いて立ち上がる。短いスカートがひらりと揺れて、おれの心臓はどきりと高鳴った。
結論から言うと、特訓の甲斐なく璃子は結局泳げるようにはならなかった。璃子ときたら水面に顔をつけるのすら嫌がるありさまで、力を抜いて浮かぶことさえできなかったのだ。ふざけて足のつかない場所に連れていくと、璃子は必死でおれにしがみついてきた。押しつけられた身体はめちゃめちゃ柔らかかった。存分にいい思いをさせてもらって、なんだか申し訳ない。
晩飯のカレーを作って食った後、おれたちは本日の宿である宿泊施設に向かった。山の中だし京都に比べると涼しいのだが、クーラーなどはないのでいかんせん暑い。保護者は個室があるようだったが、子どもたちはだだっ広いホールに布団を敷いて雑魚寝することになる。
「え、おれらもここで寝んの」
当然のように布団を敷き始めた翔真に、おれは少々戸惑った。以前にも言ったが、おれが女子と枕を並べて寝たのは保育園のお泊まり会が最後だ。璃子とマネージャーもおれたちのそばに布団を敷いている。
「俺らの分の個室足りんねんて。別にええやろ」
「まあ、おれはいいけど……」
おれはいいけど、璃子とマネージャーは大丈夫なのか。窺うように視線をやってみたが、二人は特に気にしている様子はない。周りでは子どもたちがギャーギャーと騒いでいるし、おかしなことは起きないだろうが。おれが意識しすぎているだけなのだろうか。
「璃子ちゃん、お風呂行く?」
「行く! 綾葉ちゃんも一緒に行こ」
女子が連れ立って風呂に向かうのを、おれはなんとも言えない気分で見送る。今日おれ、ここで璃子と一緒に寝るのか……。
一日中水着姿の璃子と一緒にいたせいか、なんだか妙に気分が昂っていた。もう少し率直な言い方をすると、ムラムラしている。おれ、このまま風呂上がりの璃子を目の当たりにして、普通に寝られるのか?
女子三人を「おれも行く!」と追いかけようとする裕樹の首根っこを掴んで、「おまえはこっち」と風呂に連行していく。裕樹は不服そうにふてくされている。
「いつかちゃんとおふろ入りたかった」
「もう七歳やろ。我慢しろ」
「なんでがまんせなあかんの。ハルトもリコといっしょにおふろ入りたくない?」
おれは溜息をつくと、「マセガキ」と言って裕樹の頰を軽くつねった。そんなん、入りたいに決まってるやろ。
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