誰より好きなのに

 うちの高校は定期試験一週間前になると、どの部活も活動が停止される。それは高梨くんの所属しているバスケ部も例外ではなく、彼はいつもより体力が有り余っているように見えた。昼休みには中庭でフットサルをしていたらしく、汗だくになっている。授業中は相変わらずぼんやりとしてノートもろくにとっていないので、試験前なのに大丈夫なのかなと心配になってしまった。

 高梨くんに「勉強を教えてほしい」と言われてから一週間ほど経つけれど、特に具体的な話は出ていない。私は彼との勉強会に備えて試験対策のノートと問題集まで作っているというのに、このまま立ち消えになってしまったらどうしよう!

 ショートホームルームが終わり、私はノロノロと筆記用具をリュックにしまう。部活がないせいか普段よりも教室に残っている生徒が多く、なんだか妙にざわざわしている。教室の前方で、騒がしい男子グループがはしゃいでいるのが見えた。帰って勉強しなくてもいいんかなあ。


「浅倉」


 リュックを背負って立ち上がったところで、隣から遠慮がちに声をかけられた。私はすぐさまリュックを机の上に戻して、何事もなかったかのように素早く椅子に腰を下ろす。


「な、なあに!?」

「えーと、勉強いつする?」


 高梨くんがやや申し訳なさそうに尋ねた。私はやや食い気味に「いつでも!」と答えた後で、今のはちょっと前のめりすぎた、と恥ずかしくなる。


「今日いける?」

「大丈夫!」

「よかった。ありがとう」


 高梨くんはほっとしたように表情を緩めた。私は高梨くんの後ろの席に移動すると、教科書とノートを取り出す。高梨くんが椅子ごとぐるりと後ろを向いたので、正面から向かい合う形になった。


「あの、これよかったら」


 用意していた五冊のキャンパスノートを差し出すと、高梨くんは「何これ」と細い目を瞬かせる。


「……試験対策のノート。主要五教科だけやけど、傾向と対策とかまとめてきたから……」

「は!? 五教科全部作ってくれたん!?」


 高梨くんが素っ頓狂な声をあげた。しまった、ただのクラスメイトに対してこれはやりすぎだったかもしれない。私は慌てて「あの、ノートまとめる勉強になるから……自分のために!」と言い訳を並べる。高梨くんはパラパラとノートをめくると、はーっと溜息をついた。


「浅倉、マメやなあ……」

「ノ、ノート作るの好きやねん。それで満足しちゃうから、あんまり身についてへんねんけど……」

「いや、助かる。ほんますごいな。めちゃめちゃ見やすいしまとまってる」


 高梨くんが心底感心したように言ってくれたので、私は少しばかり調子に乗ってしまった。おずおずとリュックから手作りの問題集を出して「これも私が作ってん……」と言うと、高梨くんはさすがにちょっと笑った。


「至れり尽くせりすぎる。金払うわ」

「い、いいよそんなん!」

「ここまでしてもろたんやから、赤点取らんようにがんばるわ。よろしくお願いします」

「あ、いえいえこちらこそ……」


 お互い向かい合ってぺこりと頭を下げ合うと、高梨くんがシャーペンを手に取った。冷静になってみると、ひとつの机を二人で使っているせいで、思いのほか距離が近い。頬杖をついて問題集を解いている高梨くんの顔を、ここぞとばかりに至近距離で観察させてもらう。見れば見るほど、夢の中のハルくんと同じだ。吊り上がった三白眼も、尖り気味の鼻も、やや乾燥した唇も。かさついたキスの感触まで思い出してしまって、私は慌てて教科書で顔を隠した。こんなに硬派な彼に、夢の中であんなこともこんなこともさせているなんて申し訳なさすぎる。

 高梨くんは黙々と問題集を解いて、わからないことがあれば私に質問をしてきた。私はそれにできる限り丁寧に答える。高梨くんは無駄口ひとつ叩かなかった。普段あれだけバスケに熱中できているのだから、もともと集中力はある方なのだろう。だったら普段からもっと真剣に授業を聞いておけばいいのに、と思わないでもない。

 次第に高梨くんの質問が少なくなってきたので、私は手持ち無沙汰になる。自分の勉強をしようと教科書を広げたところで、教室前方からギャハハ、という下品な笑い声が聞こえてきた。なんとなく意識がそちらに向かってしまう。


「……てかさ、……やっぱ塚原さんやろ……」

「彼氏おるし……やりまくってる……」

「……でも、……山下やましたも……って、エロない?」

「胸でかいし……瀬戸せとは……結構……」


 切れ切れに耳に入ってくる会話の断片から、なんとなく話題が想像できてしまって、嫌だな、と私は思った。たぶん、うちのクラスの女子で誰が良いとか悪いとか、そういう話をしてる。それも結構下世話な方向で。私はこういうときに男子の話題にのぼるようなタイプではないけれど、それでも聞いていて気分の良いものではない。私は身体を縮こませると、そっと両手で耳を塞ごうとした。そのとき。


「ちょっとおまえら、うるっさいねんけど」


 やや苛立ったような声をあげたのは、高梨くんだった。男子グループはこちらを見て、私がいることにようやく気がついたのか、ぎょっとしたような顔をする。


「あれ、ハルト。おったん?」

「こちとら必死に勉強しとんねん。邪魔すんなや」

「浅倉さんも残ってたんや。うるさくしてごめんな」


 高梨くんに睨まれて、男子たちはちょっと申し訳なさそうにしている。私に聞かれて困るような話なら、教室でしないでほしい。内心のモヤモヤを押し殺しながら、私は苦笑いを浮かべて「大丈夫」と答えた。


「てかハルト、浅倉と二人で勉強してるん?」


 男子グループのうちの一人、高梨くんとわりと仲の良い円山まるやまくんがこちらに近づいて来た。彼は私とも中学が同じだけど、直接話したことはほとんどない。


「……赤点取ったら夏休み補習やねん。浅倉に教えてもらってる」


 高梨くんがむすりとしながら答えると、円山くんは高梨くんと私を交互に見比べて、にやりと笑った。


「ハルト、塚原さんはもうええの? クラス替えのとき、めっちゃかわいーかわいー言うてたのに」

「はあ!?」


 高梨くんが慌てふためいて立ち上がった。その拍子に椅子が倒れて、ガタン、と大きな音を立てる。


「そういうんとちゃうから! おまえ、マジでいらんこと言うなよ」


 私は高梨くんの声を聞きながら、すうっと背筋が冷たくなっていくのを感じた。喉がカラカラになって、声も出せない。

 よく考えると、当然のことだ。陽奈ちゃんのような美人で明るい子を、好きにならない男の子はいない。おしゃれで垢抜けていて性格も良くて、誰からも愛されている女の子。私は逆立ちしたって、あんな風になれない。


「ハルト面食いやもんなー。中学の頃も、篠田しのださんやっけ? 結局彼氏おるんわかって、何もできんままフラれるっていう……」

「あーもう、うるさい! つーか、邪魔すんな!」


 高梨くんは乱暴に円山くんを押しのけると、倒れた椅子を直して勢いよく座った。円山くんは「ごめんて」と笑いながら、男子たちの輪に戻っていく。

 改めて高梨くんと向かい合うと、気まずい沈黙が落ちた。私は下を向いて押し黙り、高梨くんも居心地が悪そうにモゾモゾしている。どうしよう、いつまでも黙ってたら変に思われるかも。私は全力で表情筋を動かして、必死で笑顔を取り繕った。


「えと。陽奈ちゃん、かわいいやんな」

「いや、ちゃうねん……」

「私、言いふらしたりせーへんから大丈夫」

「そういう心配してるんとちゃうくて……」


 高梨くんはまっすぐに私の目を見て「おれは」と何事かを言いかける。しかしそのまま口を噤んでしまって、苛立ったようにガシガシと頭を掻いた。


「ごめん。なんもない」


 そうしてまた、二人の間にざらりとした居心地の悪い空気が流れる。邪念を払うように問題集を広げてみても、ちくちくと心臓を刺す小さなトゲはいつまでたっても抜けなかった。




「おれ、ほんまに塚原さんのこと本気で好きとかとちゃうから。そこんとこ誤解せんといて」


 また、いつもの夢だ。ベッドの上で正座したハルくんは、必死さを滲ませながら言った。いくらショックだったからと言って、夢の中でハルくんにこんなことを言わせるなんて情けない。私はなんだか泣きたいような気持ちになって「ごめんね」と呟いた。


「なんで璃子が謝るん……」


 ハルくんは傷ついたように目を伏せる。私は彼の膝の上に座ると、腰のあたりに腕を回してぎゅっと抱きしめた。もし実際に高梨くんが陽奈ちゃんのことを好きだったとしても、夢の中のハルくんは私の恋人なのだ。そう思うと、虚しいけれどほんの少しだけ気持ちが慰められた。


「その、塚原さんのことかわいいとか言うのは、アイドルのことかわいいって言うようなもんで。本気で好きとか思ってるわけちゃうねん」


 ハルくんがそう言い募りながら、わたしの背中を優しく撫でる。夢だとわかっていても、彼の姿で、彼の声で発せられる言葉にはやけに真実味がある。私は目を閉じて「うん」と頷いた。


「たしかに塚原さんのことは美人やと思うけど、今は璃子の方がずっと気になる」


 ハルくんの言葉を聞きながら、私の中の冷静な部分が「そんなことはありえない」と囁いてくる。現実の高梨くんが、あの陽奈ちゃんを差し置いて私を意識してくれるとは、到底思えない。彼が中学時代に好きだったという篠田さんも、ものすごく華やかな美人で、男友達も多い愛想の良い子だった。


「……ハルくん、面食いなん?」

「いや、そうでも……ないと思うんやけど……」

「どんな子が好き?」


 ハルくんは目を泳がせると、やや言いにくそうに口を開いた。


「……おれのこと、好きになってくれる子」


 好みのタイプとしてはずいぶん消極的だ。来るもの拒まず、ということなのだろうか。私はハルくんのシャツの裾をぎゅっと強く握りしめた。


「じゃあ、私でいいやん……」

「え」

「私、ハルくんになら何されてもいいし、ハルくんのためなら何でもする」


 ハルくんを好きなことにかけては、誰にも負けない自信がある。私は彼の首に腕を回して、強引に唇を押し付けた。開いた唇の隙間から舌を入れると、それを待ちかねていたかのように絡め取られる。しばらく夢中になってキスをした後、離れた唇から名残惜しそうに銀の糸が引いた。


「……っ、あんま、そういうこと言わんといて」


 辛そうに眉を寄せるハルくんを見ていたら、私はなんだか悲しくなってしまった。夢の中でぐらい、私のことを好きって言ってくれればいいのに。私は縋りつくように彼の首に腕を回すと、何度も何度も「好き」を繰り返し囁いた。

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