ハートのクッキー②
日本史教師のか細い声を聞き流しながら、おれはずっと空腹を感じていた。だいたい二時間目と三時間目のあいだに、昼飯の繋ぎを買うために購買に行くことが多いのだが、今日は雨が降っているのでどうにも教室の外に出るのが億劫だったのだ。教室の中にも気怠さが蔓延しており、どろりと重たい空気が漂っているような気がする。
三時間目終了のチャイムが鳴ったが、結局空腹よりも怠さが勝った。あと一時間ほど我慢すれば昼飯だ。早弁をしようかなとも思ったが、そうなると放課後の部活まで持ちそうにない。
「ぎゃっ」
そのときバサバサと床に何かが散らばる音がして、隣の璃子が小さく声をあげた。見ると、リュックの中身をぶちまけてしまったらしい。
手を伸ばして拾い上げると、透明のフィルムに包まれたクッキーだった。かわいらしいピンクのハート型をしている。
おれの頭をよぎったのは、先日の夢でのやりとりだった。クッキーならちょっと自信ある、と夢の中の璃子は言っていた。もしかするとあれは予知夢の類だったのだろうか。
――これってもしかして、おれのために作ってきてくれた?
そんな淡い期待を抱いて、いやいやそんなまさかとすぐに打ち消す。
「……これ、浅倉が作ったん?」
尋ねてみると、璃子は下を向いたままこくこくと頷いた。クッキーの袋を渡すと、彼女は光の速さでそれをリュックにしまいこむ。
ぱっと顔を上げた璃子は、頬をやや紅潮させて「あの」と口を開いた。
「お腹空いてるなら、よかったらこれ食べへん? 作りすぎちゃって……」
そう言って璃子は、両手いっぱいに抱えたクッキーの袋を差し出してくる。突然の出来事に、おれは驚いてすぐに反応できなかった。
「え、浅倉さんの手作りなん?」
「あ、味にはあんまり期待せんといてほしいねんけど……あと、今落としたからちょっと割れてるかも……て、手作りとか、抵抗なければ」
「えー、全然食う! ありがとー!」
おれが呆然としているうちに、拓海は璃子からクッキーの袋を受け取った。璃子が窺うようにこちらを見てきたので、おれも璃子の手の中を覗き込む。
さっきおれが手に取った、ピンクのハート型のクッキーはそこにはなかった。あれはたった一袋しかなかったのだろう。おれは璃子に向かって「これ、全部味違うん?」と訊いてみた。
「えーっと、これはチョコチップで、これがココアで、これはプレーン。……食べる?」
「食べる!」
当然、食べるに決まっている。腹は減っているし、かわいい女子の手作りクッキーを断る理由がない。しかも璃子が作ったものなのだから、尚嬉しい。
おれは差し出された袋の中から、どれを選ぼうかと考える。……さっきのハートのやつがいい、とは口には出せなかった。
結局おれは、星型のプレーンクッキーを選んだ。青いリボンを解いて、ガサガサと袋を開く。ひとつつまんで口に放り込むと、優しいバターの甘みが口の中に広がった。ものすごく美味い。しかしおれは星型のクッキーを食べながら、彼女はハート型のクッキーを誰にあげるのだろうか、と考えていた。
たった一袋だけ用意されたピンクのハートは、他のものと比べて明らかに特別感が漂っていた。おそらく彼女は誰かのためにあのクッキーを用意して、残りをおれたちに配って回ったのだろう。そう考えると、せっかくの手作りクッキーを素直に喜ぶことができなかった。
「めっちゃ美味いやん。浅倉さん料理上手なんやなー。なんか女子っぽいもんなー」
拓海がべらべらと調子の良い褒め言葉を並べているのを聞いて、おれはなんだかムカムカしてきた。拓海の奴、これまで塚原さんに夢中で璃子のことなんて全然眼中になかったくせに、手作り菓子を貰ったくらいでゲンキンな。自分のことを棚に上げて、そんなことを考える。
そこでおれは、はっと我に返った。そういえば、貰っておいて感想のひとつも言っていなかった。
「……あ。えーと、美味いなコレ」
もう少しグルメリポーターのような気の利いた感想が言えないものかと思ったが、それでも璃子は嬉しそうに微笑んだ。彼女の笑顔が見れて嬉しいのに、何故だか胸が苦しくなる。
おそらく彼女が本当にクッキーを渡したかったのは、おれではない。黒いリュックにしまいこまれたハート型のクッキーが誰の胃袋に入るのか、おれは気になって気になって仕方がなかった。
授業を終えて部室に向かっているところで、「ハルト」と呼び止められた。振り向いて見ると、のんびりとした足取りで翔真が歩いてくる。基本的に翔真は、バスケをしているとき以外は動きが散漫だ。試合中は信じられないほど機敏な動きをするのだが。
「おまえ、はよ行かなまた先輩に怒られんぞ」
「今日体育館使えんし、やる気でーへんな……」
翔真は溜息をついた。相変わらず覇気のない表情だが、女子からは「クールで物憂げで良い」とかいう評価をされがちだ。絶対何も考えてないだけだぞ、こいつは。
ふと、夢の中の璃子が「昔翔ちゃんにお菓子を作ったけど微妙な反応をされた」と言っていたのを思い出して、おれの胸に再びムカムカが襲ってきた。もしかすると、璃子はハートのクッキーを翔真に渡したのだろうか。
「……おまえ、クッキー食った?」
「クッキー?」
おれの質問に、翔真は怪訝な反応をする。慌てて「いや、今日浅倉がクッキー作ってきてて」と補足説明を加えると、翔真は興味なさげに「ふーん」と頷く。
「食ってない。今日会うてないもん」
おれはほっと胸を撫で下ろした。もちろん、まだ貰っていないだけという可能性もあるのだが。
「そういやめっちゃ前に、ケーキみたいなやつ貰ったことあるわ」
「……ふーん」
さりげなく付け加えられた情報が、おれの心臓にぐさりと刺さる。
それ、今おれに言わんでもよくない? マウント取ってんのか? と一瞬穿ってしまったが、おそらく翔真に悪気はない。こいつはそういう奴なのだ。
「パサパサやったけど。口ん中の水分全部待っていかれるやつ」
黙って聞いていれば、酷い言いようだ。なんでこんな奴がモテるんだろうか。結局は顔か、と密かな憤りを覚えた。おれの内心などつゆ知らず、翔真は平然と続ける。
「女子って何で手作りするんやろな。わざわざ作らんでも、ふつうに売ってるやつ買えばいいやん。そっちのが美味いし」
一切の悪気なくそう言ってのける翔真に、おまえは一生璃子の作った菓子を食うな、と心の中で罵倒した。
今日は体育館が使えなかったこともあり、部活が早く終わった。翔真はこれ幸いとばかりに、普段は見せない俊敏さで帰宅してしまったようだ。部室の外に出るともう雨は止んでおり、レインコートがなくても帰宅できそうだった。
自転車置き場まで来たところで、おれの自転車の近くに人影を見つけた。黒いリュックを背負った、小柄な女子だ。まさかと思って近づいてみると、やはり璃子だった。
「……浅倉?」
声をかけると、璃子は「ひゃあ!」と叫んでその場に飛び上がる。その手にクッキーの袋が握られているのを見て、おれはぎくりとする。もしかしなくても、彼女は誰かにハートのクッキーを渡すために、ここで待っていたのだろうか。
「た、高梨くん! どうしたん? 部活もう終わったん?」
璃子は目に見えて焦っていた。クッキーの袋をぎゅっと抱きしめているので、中身が割れるんじゃないかとハラハラしてしまう。なんだかこっちまで動揺してしまって、「今日は部活はよ終わって」としどろもどろに弁明した。
「……浅倉こそ、何してんの?」
おれの問いに、璃子は答えなかった。下を向いたまま、「ええと……」ともじもじしている。
彼女はまだ帰る様子を見せない。おれにクッキーをくれる気配もない。一体誰を待っているんだ。誰にそれを渡すつもりなんだ。おれの頭をよぎったのは、彼女の幼馴染の顔だった。
「……翔真なら、もう帰ったけど」
「え?」
顔を上げた璃子が、キョトンとした表情でこちらを見つめてくる。なんだか無性に腹が立ってきて、おれはガシガシと乱暴に頭を掻いた。
「……ほなおれ、帰るわ」
「あ、うん。じゃあまた明日……ばいばい」
せっかく璃子が手を振ってくれたのに、おれはまともに彼女を見ずに「うん」とだけ答えた。漕ぎ出すペダルがやけに重く感じる。
璃子が作ったハートのクッキーを食べる男のことを想像して、おれは鉛を飲んだように胃が重たくなってきた。「わざわざ作らんでも」と言った翔真の言葉を思い出して、おれの苛立ちはますます募る。もしおれだったら、大喜びで残さず全部食べてやるのに。
校門を出る直前で、力一杯ブレーキを握りしめた。ギッ、と音を立てて自転車が止まる。
振り向くと、まだ自転車置き場に立っている璃子は、しょんぼりと肩を落として俯いていた。それを見た途端、おれは衝動的に璃子のもとに引き返していた。ぽかんとしている彼女の目の前で、再び急ブレーキをかける。
「あの、浅倉」
声をかけると、璃子は目を丸くして「は、はい」と答える。
「……おれさ、今めっちゃ腹減ってんねんけど」
「う、うん」
「家まで我慢できひんくらい」
「そ、そうなんや……」
「せやから、えと……そのクッキー、おれにくれへん?」
くそ、随分と回りくどい言い方をしてしまった。
璃子はよほど驚いたのか、目を真ん丸にして「へあ」と変な声を出す。そのまま固まって動かなくなってしまったので、おれは慌てた。
「……いや、あかんなら……ええけど」
消え入りそうな声でおれが言うと、璃子はぶんぶんと首を横に振った。
「あ、あかんくない! よ、よかったら食べて!」
そう言って渡されたクッキーのリボンを解いて、ピンクのハートをひとつ手に取る。口の中に放り込むと、なんだか昼間食べたものより美味しい気がした。
「……ん。美味い」
おれの言葉に、目の前の璃子は一瞬、なんだか今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。誰かのために作ったクッキーを、他の男に食われたことが悲しいのだろうか。
璃子はいびつに口角を上げると、「そんなら、よかった」と言った。おれは彼女を慰めるように、なるべく優しい声を出す。
「めっちゃ美味いなコレ。なんで色違うん?」
「あ、ピンク色なんは食紅やから……たぶん、高梨くんが昼食べたやつと味は一緒やと思う」
「そうなん? なんか違う気がするけど……なんか入ってる?」
璃子は答えず、ただおれの方をじっと見つめて微笑んでいた。夢の中でさえ見たことがない大人びた表情に、おれの心臓はどきりと跳ねる。
誤魔化すようにハート型のクッキーに齧りつくと、心持ち大きな声で「まじで美味い」と繰り返した。
赤いリボンが結ばれた透明のラップフィルムの中に、ピンクのハートが三分の一ほど残っている。リビングのテーブルに突っ伏したおれは、食いたいけど全部食うのもったいないな、と思いながらそれを眺めていた。
「ただいまー」
玄関から弟の櫂人の声が聞こえてきた。時計を見ると夜の九時過ぎだ。塾を終えて帰ってきたのだろう。リビングにやってきた櫂人は、おれの顔を見て「母さんは?」と尋ねる。
「まだ帰ってきてへん。今日は遅なるって言うてた」
「晩飯は?」
「カレーあっためて食えって」
「……お、それ何? 誰かにもろたん?」
おれの目の前にあるクッキーに目敏く気付いた櫂人は、にやにやしながらそう訊いてきた。おれはモゴモゴと「クラスの女子……」と答えると、「いっこちょーだい」と無遠慮に手を伸ばしてくる。おれは全力でその手をはたき落とした。
「イタッ! いっこくらいええやん!」
「誰がやるかボケェ!」
櫂人はおれを睨みつけると、忌々しそうに「童貞……」と呟いて二階の自室へと上がっていった。中学生の弟に童貞呼ばわりされるとは情けない話だ。生意気なことに奴には長らく付き合っている彼女がいるようなので、先を越されている可能性は大いにある。
おれは袋に残ったクッキーを手に取った。食べてしまうのはちょっともったいないが、他の奴に取られるのは絶対に嫌だ。残さず全部食べてしまおう。
ほの甘いハートのクッキーを口に運ぶたびに、璃子の顔を思い出す。頰を染めてクッキーを差し出して、美味いと言えば嬉しそうに笑って。……ああこのままだと本当に、うっかり好きになってしまいそうだ。やっぱりおれはチョロすぎる!
親指と人差し指で、きれいなハートをつまんでみる。最後のひとつを胃袋に収めたときには、おれの頭の中は璃子でいっぱいになってしまっていた。もしかすると、惚れ薬でも入っていたのかもしれない。
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