ハートのクッキー
三時間目の授業の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室がにわかに騒がしくなる。ボソボソと「じゃあまた次回」と言った日本史のおじいちゃん先生は、背中を丸めてすごすごと出て行った。
教科書とノートをリュックに片付けながら、目に飛び込んできたものに私はどきりとした。私の黒いリュックの中には、透明なフィルムにラッピングされたクッキーが入っている。
夢の中のハルくんの言葉に背中を押された私は、ついついクッキーを作ってきてしまった。調子に乗って、作りすぎた気がする。星形のプレーンクッキー、くまの形のココアクッキー、丸形のチョコチップクッキー。そのなかに一袋だけ、ピンク色をしたハート型のクッキーがある。高梨くんのために用意したものだ。
作っているときはテンションが上がっていて気がつかなかったけど、今改めて見るとかなり露骨だ。本命です、と黒い油性マジックでデカデカと書いてあるような感じ。もう少しうまくカモフラージュすればよかった、と私は後悔する。
そもそも作ってきたはいいけれど、どのタイミングでどうやって渡せばいいんだろう。昼休みまで待とうかと思ったけれど、高梨くんのいる男子グループの中に飛び込んで「これ作ったんやけど食べて」なんて言うのは、女子にやっかみを買いそうな気がする。放課後まで待つにしても、高梨くんは授業が終われば速攻で部活に行ってしまう。部活が終わるまで待つのは、ストーカーっぽくてかなり気持ち悪いし……。
「ハルト、パン買いに行かへんの?」
「あー、行きたいけど雨やしやめとくわ」
隣から、坂口くんと高梨くんの会話が聞こえてきた。窓の外はしとしとと静かな雨が降り続いている。パンが売っている購買に行くには一旦校舎の外に出なければいけないので、面倒くさいのだろう。「腹減った」と呟く高梨くんの声に、私はハッとした。これ、今こそクッキー渡すタイミングかな?
私は意を決して、机の横に引っ掛けているリュックのファスナーを開いた。すると勢い余って、中に入れていたクッキーが床に落ちて散らばる。慌てて拾い集めてくると、隣からひょいと大きな手が伸びてきた。ピンポイントで、ハート型のクッキーが入った袋を掴む。
「……これ、浅倉が作ったん?」
頭の上から降ってきた声に、私の顔面の熱が急上昇する。私は顔を上げられずに、下を向いたままこくこくと頷いた。クッキーの袋を手渡されたので、私は「ありがとう」とお礼を言ってそれをリュックに仕舞い込んだ。ああ、恥ずかしすぎる。しかし、これは紛れもないチャンスである!
「あ、あの! おなか空いてるなら、よかったらこれ食べへん? 作りすぎちゃって……」
私は高梨くんと坂口くんに向かって、必死でかき集めたクッキーの袋を見せた。二人は揃って目を丸くする。
「え、浅倉さんの手作りなん?」
「あ、味にはあんまり期待せんといてほしいねんけど……あと、今落としたからちょっと割れてるかも……て、手作りとか、抵抗なければ」
「えー、全然食う! ありがとー!」
坂口くんが明るく言って、チョコチップクッキーの袋を手に取った。高梨くんはじろじろと袋を見比べて、「これ、全部味違うん?」と訊いてくる。
「えーっと、これはチョコチップで、これがココアで、これはプレーン。た……食べる?」
「食べる!」
即答した高梨くんは、やけに真剣な表情でどれを食べるか考えているようだった。そんなに悩むなら全部あげる! と言いたくなるのをぐっと堪える。しばらくして、高梨くんは星形のプレーンクッキーを選んだ。
「ありがと」
高梨くんはちょっと笑って、クッキーの袋を持ち上げた。大好きな笑顔が私に向けられたことが嬉しくて、私は頬の裏側を噛んで表情が緩むのを必死で堪える。ぐるりと後ろを向いて「陽奈ちゃんも、よかったら食べて!」と声をかけた。
「わーい、ありがとう! ほんなら、ココアもらってもいい?」
陽奈ちゃんはニッコリ笑って、クッキーの袋を手に取る。「お昼ごはんの後に食べよっと」と言って微笑む彼女は、もしかしたらもっとすごいお菓子をもっと上手に作れるのかもしれない。マカロンとかカヌレとか、そんなオシャレなお菓子が似合いそうだ。
「めっちゃ美味いやん。浅倉さん料理上手なんやなー。なんか女子っぽいもんなー」
坂口くんのリップサービスに、私はちょっと照れた。実のところ私はお菓子はたまに作るけれど、料理はあまりしたことがない。妙に女の子らしいイメージがついてしまうのは嫌だったけれど、否定もできず笑って誤魔化した。
「……あ。えーと、美味いなコレ」
黙ってもぐもぐクッキーを食べていた高梨くんが、急に思い出したように言った。ただその一言だけで、私の心は喜びに震える。よかった、頑張って作った甲斐があった! 高梨くんのために作ったハート型のクッキーはリュックの底に眠ったままだけど、私は充分満足してしまった。残りのクッキーは、お昼ごはんを一緒に食べてるメンバーで分けよう。
「え、ハルトもう全部食ったん。もうちょい味わって食えよ」
「いや、ふつうに美味くて……あと腹減ってた」
そう言って高梨くんは、私に向かって「ごちそうさまでした」と頭を下げる。私もぺこぺこと「いえ、お粗末様です……」とお辞儀を返した。
「た、高梨くんクッキー好きなん?」
今度こそ参考にしようと思って、勇気を出して尋ねてみた。しかし高梨くんは間髪入れず「だいたいなんでも好き」と答えたので、やっぱり参考にはならなかった。
今日は週に一回の茶道部の活動日だった。とはいえ、うちの部はかなりゆるいので、実際に部活に行くのは月に一回か二回くらいだ。毎日毎日、お休みの日にまで部活に明け暮れている高梨くんとは大違いだな、と私は思う。
部活といえど、お菓子を食べながら雑談をするのが我が茶道部の活動内容である。バスケ部が外練のときは部室の窓から練習風景が見えるので、私はこっそりそれを楽しみにしていた。今日の体育館の割り当てはバレー部とバドミントン部のはずだけど、見えるところに高梨くんの姿はなかった。雨が降っているから、トレーニングルームかどこかにいるのだろう。
部活を終えると、まだそれほど遅い時間ではないにも関わらず、外は薄暗かった。分厚い黒雲は未だに空を覆っていたけれど、もう雨は降っていなかった。今日は自転車ではないので、歩いて家まで帰らなければならない。
自転車置き場の前まで来たところで、私は立ち止まった。ついつい高梨くんの自転車を探してしまう。高梨くんは雨の日でも、レインコートを着て自転車で通学をしている。すぐに彼の黒いママチャリを見つけて、私は頬を綻ばせた。まだ部活は終わってないだろうから、あって当然なのだけど。私にとっては、高梨くんの自転車ですら愛おしい。
そこで私はふと、リュックに入ったままになっていたハート型のクッキーのことを思い出した。ごそごそとリュックの中を探り、クッキーを取り出す。丁寧にラッピングされたピンクのハートは割れてはおらず、無事だった。せっかく高梨くんのために心を込めて作ったのに、結局私の胃袋に入ってしまうのだ。じっとクッキーを見つめていると、ふと魔が刺す。
……これ、高梨くんの自転車のカゴに入れて帰っちゃおうかなあ。
名前を書かずに手紙を送ったこともそうだけど、私の思考は基本ストーカー気質だ。しかし手紙はともかく、差出人不明のお菓子はさすがに気味悪がられてしまうだろう。うん、やっぱりやめておこう。そう思って、クッキーをリュックにしまおうとしたそのとき。
「……浅倉?」
突然背後から声をかけられて、私はその場で飛び上がった。おそるおそる振り向くと、怪訝そうな顔をした高梨くんが立っている。
「た、高梨くん! ど、どうしたん? 部活もう終わったん?」
思わず言ってから、「どうしたん」はないだろう、と自分で自分に突っ込んだ。彼の自転車の前で挙動不審な動きをしている私の方が、よっぽど「一体どうした」だ。
「いや、今日は部活早よ終わって……」
「あ、そ、そっか」
「……浅倉こそ、何してんの?」
私はモゴモゴと口籠った。どうしよう、このままでは完全にストーカー女だ。いや、ストーカーであることに間違いはないのだけれど。高梨くんは私が胸に抱えたクッキーにチラリと視線をやった後、言った。
「翔真ならもう帰ったけど」
「え?」
なんでそこで翔ちゃんの名前が出てくるのか、さっぱりわからない。私が黙りこくっていると、高梨くんはガシガシと頭を掻いた後、「ほなおれ、帰るわ」と自転車に跨った。
「あ、うん。じゃあまた明日……ばいばい」
私が控えめに手を振ると、高梨くんは「うん」とだけ言って自転車を漕いでいく。どんどん小さくなっていく背中を見送りながら、私ははーっと深い溜息をついた。よく考えたら、今こそクッキー渡すチャンスだった気がする。私のアホ、とがっくり肩を落とす。
と、校門を出る前に急ブレーキをかけた高梨くんが、ふいにUターンをしてこっちに戻ってきた。ぽかんとしている私の目の前で、再び急ブレーキをかける。
「あの、浅倉」
「は、はい」
「……おれさ、今めっちゃ腹減ってんねんけど」
「う、うん」
「家まで我慢できひんくらい」
「そ、そうなんや……」
「せやから、えと……そのクッキー、おれにくれへん?」
ずっと間抜けな相槌を繰り返していた私は、ここへきて「へあ」と更に間抜けな声を出してしまった。私の顔を覗き込んだ高梨くんは、ちょっと怒っているみたいにも、怯えているみたいにも見える。
「……いや、あかんなら……ええけど」
「あ、あかんくない! よ、よかったら食べて!」
私はほとんど押しつけるようにして、高梨くんにクッキーの袋を渡した。自転車に跨ったままそれを受け取った彼は、しゅるりと赤いリボンを解く。ピンクのハートのクッキーをひとつ掴んで、ひょいと口に放り込む。細いつり目をきゅっと更に細めて、口元を綻ばせる。
「……ん。美味い」
高梨くんのその表情を見た瞬間、私の胸はぎゅうっと締めつけられた。はじめて彼に恋をしたあの日と同じように、今すぐ彼に抱きつきたい衝動をぐっと堪える。制服のスカートを握りしめながら、やっとのことで「そんなら、よかった」と笑えた。
「めっちゃ美味いなコレ。なんで色違うん?」
「あ、ピンク色なんは食紅やから……たぶん、高梨くんが昼食べたやつと味は一緒やと思う」
「そうなん? なんか違う気がするけど……なんか入ってる?」
さく、とクッキーを齧りながら、高梨くんが首を傾げる。私は何も答えずに、ただ微笑んで彼のことを見つめていた。
――もしそのクッキーに何かが入っているとしたら、私の高梨くんへの恋心だ。
私が作ったピンクのハートが彼の胃袋にしっかりと収まるのを見て、私は心の中で大きくガッツポーズをした。
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