関係を変える一歩

 いっそ凶悪的なほどの夏の日差しが、中庭に降り注いでいる。七月も後半に差し掛かり、そういえば祇園祭終わっちゃったな、と私は思った。生まれたときから京都に住んでいる私は、七月に入ると「そろそろ祇園祭だなあ」と思うけれど、毎年期末試験の時期と重なってしまうこともあり、いつのまにか終わってしまうのが常である。

 ……ハルくんと一緒に行きたかったな。

 不思議なことに、私の見る夢の舞台はいつも同じで、窓のない巨大なベッドの置かれた白い部屋だ。扉もないので外にも出られない。せっかくやからいろんなところに行けたらいいのに、と拗ねる私に、ハルくんは「スマブラみたいにステージ選択できたらいいのにな」と言った。私はスマブラをやらないので、その例えはよくわからなかった。

 私は廊下側の窓の外をぼんやりと見るふりをしながら、高梨くんを視界に入れる。試験が終わってすっかり勉強へのモチベーションを失ってしまったらしい彼は、教科書を盾にしてスマホを弄っていた。今日は試験返却のみとはいえ一応授業中だというのに、高梨くんは結構やんちゃだ。先生に見つかったら一発没収だろう。


「じゃあテスト返すから、名簿順に取りに来いよー」


 私の苗字は「あさくら」なので、名簿番号は一番だ。慌てて立ち上がって、壇上に立つ先生の元へと向かう。数学担当の中村先生は、気難しそうな目を少し細めて「浅倉、今回頑張ったな」と言った。返却されたテスト用紙を見ると、八十六点だった。黒板に書かれたクラスの平均点は六十四点だったので、私にしてはかなり良い方だ。高梨くんに勉強を教えるために必死になった成果だろう。


「わ、璃子ちゃんすごーい。さすがやなあ」


 自席に戻ると、陽奈ちゃんが後ろから私のテストを覗き込んできた。心配そうに「あたし、今回絶対やばいわー」と言っている陽奈ちゃんだって、実はそんなに成績が悪くない。クラスでも中の上くらいには食い込むだろう。


「高梨! おまえ、やればできるやんけ!」


 中村先生の声が聞こえて、私は教卓の方を向いた。テスト用紙を受け取った高梨くんは、ふふんと得意げに鼻を鳴らす。


「先生、おれの本気見た?」

「見た見た。頑張ったな。次も頼むわ」


 最前列に座っている綿貫くんに「何点やったん?」と尋ねられて、高梨くんは「じゃじゃーん」という効果音つきでテスト用紙を見せびらかした。じゃじゃーん、だって。かわいい。


「は!? やばいハルト確変起きてる!」


 高梨くんの点数を見た綿貫くんが大きな声をあげた。私は目を凝らして彼のテスト用紙を見つめたけれど、ここからだとよく見えない。私の視線に気付いたのか、高梨くんは小走りにこちらに戻ってきた。


「じゃじゃじゃじゃーん」


 高梨くんは私に向かって、更に豪華な効果音をつけてテスト用紙を突き出してきた。見ると、赤ペンで七十点と記されている。私は思わずその場で立ち上がった。


「わー! すごいすごい!」


 高梨くんの数学の中間試験は、赤点ギリギリの三十六点だった。それを考えると、快挙と言って差し支えないだろう。母親に褒められたい子どものような高梨くんの表情を見ていると、人目も憚らず思い切り抱きつきたくなったけれど、さすがにそんなことはできなかった。


「高梨くん、めっちゃ頑張ってたもんな。私も嬉しい、よかったね」

「浅倉が勉強教えてくれたおかげやわ」

「いやいや、えへへ、それほどでも……」

「浅倉のノート、びっくりするくらい役に立ったわ。めっちゃ似たような問題出てきたもん」


 試験前、私たちは放課後毎日机を突き合わせて勉強をした。雑談はほとんどしなかったし、本当にただ勉強を教えるだけだったけれど、私にとっては至近距離で高梨くんの顔が見れるだけで充分幸せだった。今回ばかりは、試験が終わらないでほしいと本気で願ってしまったくらいだ。

 とはいえ、劇的に距離が近づいたのかと聞かれるとそうでもない。私たちの帰る方向は同じだけれど、なんとなく気まずさから時間をずらして別々に帰った。相変わらず昼間は世間話程度しか交わさない。夢の中ではあんなこともこんなこともしてしまったというのに、現実の進展度は亀の歩みだ。


「ありがと、浅倉」


 そう言って高梨くんはいつものくしゃっとした笑みを浮かべると、私に向かってピースサインをした。……少しずつだけど、仲良くなれてる気はする。私はどきどきと高鳴る心臓を押さえつけながら、控えめにピースサインを返した。



 *



 長い終業式が終わり、ダラダラと体育館から教室に移動する。少し前を歩く男女の集団はやたらとテンション高くはしゃいでおり、夏休みを間近に控えて浮かれているようだ。

 クラスごとのホームルームを終えれば、おおよそ一ヶ月ほどの夏休みが始まる。おれの予定はほとんど部活で埋まっているので、それほど浮かれた気持ちにはなれない。部活は楽しいし、秋に控えたウィンターカップ予選に向けて死ぬ気で頑張るつもりはあるのだが。三年の先輩はまだ引退せず部活に残っているが、おれは充分にレギュラーが狙える立場にある……と、思いたい。璃子のおかげで全教科赤点を回避できたので、夏休みは思う存分部活に打ち込むことができる。

 それにしても暑い。身体にまとわりつくような、じめじめとした蒸し暑さに、おれはげんなりとした。一刻も早くクーラーの効いた教室に帰りたい気持ちはあるのだが、急ぐ気力も出ない。

 仕方ないので、購買のそばに自動販売機でコーラを買った。まだホームルームがあるが、教室に戻るまでに飲み干せばいいだろう。プルタブを開いて缶を傾けると、喉を通っていく冷たい炭酸が心地良い。


「お、ええもん飲んでるやん。ハルト、一口ちょうだい」


 横から声を掛けてきたのは悪友の円山謙吾けんご――マルだった。おれがコーラの缶を渡すと、ごくごくと遠慮なく飲まれてしまう。戻ってきた頃には半分ほどに減っていたので、おれはマルの尻に蹴りを入れた。


「どこが一口やねん!」

「イタッ! うるさい、彼女持ちは死ね」

「彼女持ち?」


 身に覚えのない因縁をつけられて、おれは眉を寄せる。マルはふてくされたように口元を歪め、おれを睨みつけてきた。


「こないだ、浅倉と仲良く二人で勉強してたやんけ」

「ああ、おまえが邪魔してきた日な。てか、付き合ってへんし!」

「嘘つけ! さっき終業式の前、二人で手振り合ってたやんけ!」


 ……そういえばつい先程、体育館に移動したときに璃子と目が合った。そのとき璃子がはにかんで小さく手を振ってきたので、おれも手を振り返した。こちらを向いてニコニコしている璃子はかわいかったし、おれは正直なところかなり浮かれた。「これ、こっそり付き合ってるカップルがやるやつや」と思ったりもした。


「いやまああれは……目ぇ合ったから」

「どうせうまいことやって夏休みに童貞卒業しよとか、そんなこと考えてるんやろ」

「か、考えてへんわ!」


 反論する声が裏返ってしまった。夢の中であれこれさせているのだから、璃子に対して疾しい気持ちがあることは否定できない。おれはぶんぶんと頭を振って煩悩を追い払った。


「え、ハルト浅倉さんといい感じなん?」


 近くにいた拓海も話に入ってきた。おれはごくごくとコーラを飲んだ後、「全然いい感じではない」とは答える。

 悲しいことに、現実の璃子とはほとんど進展していない。夢の中の璃子にはあんなこともこんなこともしているが、現実では世間話程度しかできないのだ。少しずつ距離が縮まってはいるものの、友人と呼ぶにも遠い関係である。


「浅倉さん、なんかちょっといいよな」


 拓海がさらりとそんなことを言ったので、おれはぎょっとする。マルは「えー、そうかあ? 地味やん」と不服そうに首を捻った。


「俺も席近くなるまで全然知らんかったけどさー、よく見たらちょっとかわいいし。お菓子作ってきてくれたりさー、女子っぽくていいやん。野球見るって言うてたし、意外と話も合うかなーって」

「えー、おまえも塚原さん狙いやったやんけ」

「いやー、陽奈はやっぱ無理やわ。自分のレベルに合わせて妥協すんのも大事よ」

「まあ、揉めへんEカップより揉めるBカップの方がええか」


 二人のやりとりを聞きながら、おれは無意識のうちにコーラのアルミ缶を握り潰していた。

 どいつもこいつも、言いたい放題言いやがって。妥協ってなんやねん。璃子はちょっとどころかめちゃめちゃかわいいし、意外とノリが良くて明るいし、真面目で親切だ。そりゃ胸は小さいけど、身体のどこを触っても柔らかくてかわいい反応を返してくれる……のはおれの夢の中の話だった。

 とにかくおれは璃子のBカップを、他の奴においそれと揉ませるつもりはないのだ。


「おまえら、浅倉に失礼やろ」

「うわ、キレてる。マジで浅倉狙いなん?」

「ちゃうけど、浅倉いい子やから、そういう風に言われんのは腹立つ」

「ふーん。付き合ってるんとちゃうんやったら、俺マジでいっちゃおかな」


 冗談混じりの拓海の言葉に、おれは食い気味に「浅倉はあかん」と答えて、アルミ缶を通りがかりのゴミ箱に投げ込んだ。



「じゃあ、夏休み中にハメ外しすぎひんように。みんな事故とか怪我とかには気ィつけや。ほな解散!」


 担任教師の言葉と共に、ホームルームが終了した。おれはこれから部活のミーティングがあるので、すぐに部室に向かわなければならない。しかしおれは隣の璃子が気にかかって、なかなか席を立つことができなかった。

 夏休みに入ると、こうして現実の璃子と毎日顔を合わせることはなくなる。二学期になれば席替えもするだろうし、席が離れてしまえば話す機会は激減するだろう。


「た、高梨くん。じゃあまた二学期にね」


 おれがモタモタしているうちに、リュックを背負った璃子が、おれに向かって手を振る。名指しで挨拶をされたことに若干の優越感を覚えながら、おれは「うん、また」と答える。璃子は頭の後ろで結んだ髪を揺らしながら、榎本と連れ立って教室を出て行った。彼女の姿が見えなくなってから、拓海がポツリと呟く。


「あー、浅倉さんのLINE聞き忘れた」

「……あ」


 言われてみれば。一ヶ月ものあいだ会えないのだから、連絡先くらい聞いておくべきだっただろうか。おれが後悔していると、拓海は溜息混じりに言う。


「夏休み、遊びに誘おかなーって思ってたのに。まあええか」


 拓海はそう言って、「ほなおれ部活行くわ。またなー」と去っていった。おれもそろそろ部活に向かわなければならない。

 夏休みは長い。夏休みのあいだに、おれの知らないところで璃子の良さに気付く男が現れたら? 夏休みにかこつけて童貞を卒業しようだなんてことを考えている男が、璃子に目をつけてしまったら?

 璃子が見知らぬ男に抱かれているところを想像して、おれは鳥肌が立った。彼女が他の誰かのものになってしまうなんて、そんなの絶対に嫌だ。残念ながらおれは、「まあええか」で済ませられそうにない。おれはもう、夢の中だけでは満足できなくなっている。

 おれは立ち上がると、エナメルバッグを掴んで教室を飛び出した。上履き代わりのスリッパでダッシュをするのは結構きつく、カーブの途中で脱げそうになってつんのめった。が、すぐに体勢を立て直して走り出す。

 下駄箱まで来たところで、璃子が榎本に向かって「ばいばーい」と手を振っているのが見えた。榎本は「夏休み遊ぼなー!」と言って体育館の方へ向かう。璃子が一人になったところで、チャンスだと思ったおれは彼女の名を呼んだ。


「……浅倉!」


 璃子が弾かれたように振り向いて、おれの顔を見て目を丸くする。おれはスリッパをパタパタと鳴らしながら、彼女の元へと駆け寄った。


「た、高梨くん! どないしたん?」

「いや……その……」


 情けない話だが、猛ダッシュをしてきたせいで息が切れている。必死で息を整えた後、真正面から璃子を見た。


「……ら、LINE教えて」


 冷静に考えると、クラスメイトが追いかけてきて、ハアハア息を切らしながらそんなことを言われるなんて、絶対に気持ち悪い。璃子がきょとんとしているので、おれは言い訳をするように続ける。


「いや、勉強教えてくれたお礼したかったんやけど、タイミング逃したから……な、夏休み、なんか奢る」


 しどろもどろになっているおれをよそに、璃子はかちんと凍りついたように固まっていた。しばらくすると、「ふぁ、ふぁい」と声にならない声を出して、氷が溶けたように動き出す。ゴソゴソとリュックからスマホを出して、おれに向かって勢いよく差し出してきた。


「……よ、よろしくお願いします……!」


 まるで交際の申し込みでも受けたかのように深々と頭を下げられて、おれは赤面する。璃子も我に返ったのか、「な、なんか今のは変やった」と恥ずかしがっている。二人で赤くなっているのがなんだかおかしくて、目を合わせて笑い合った。

 頰を染めて笑う璃子の顔が夢の中の彼女とかぶって、今すぐ抱きしめてキスをしたくなる。もちろん現実のおれにそんなことができるはずもないので、差し出されたスマホの先をかちん、と重ねるのが精一杯だった。

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