第119話 慟哭 3
トリィアを見つめるテーミスが鼻をひくつかせると、頰をそっと撫でた。
「あおい…蒼くて澄みきってる…葡萄の花?いい香り…」
トリィアを乗せて馬車が走り出す。人目から遠ざかるために街道から離れて東に向かって……
「なんて可愛らしい。この娘が新しい姉妹ですか?テーミス様」
「そう…ふふ…」
テーミスはまるで子供が人形を愛でるように撫でながら、トリィアに語りかけ始める。
「ねえ、聞こえる……?」
「………」
「そうね…自己紹介をしましょう……?わたしはテーミス……あなたの…〝なまえを教えて?〟」
トリィアの眉間に力が入る。
「ん…………」
「ん?」
それは無意識の必死の抵抗だった。
「ふうん……」
テーミスはトリィアの耳に口を近づけると、慣れた手順なのか焦ることもなくに囁いてくる。
「それじゃあ…10年前に戻って…そうね…〝あなたは生まれ変わってから…何歳?〟」
年齢退行はトリィアの記憶とそれまでの経験を奪われる意味で、抵抗力を削ぐには効果的な方法なのだろう。
「じっ……じゅう…いち、さい」
「そう…『あなたの名前は?』」
「トリー…」
テーミスがにんまりと笑った。
「トリー…そう…素敵な名前ね…?それじゃあ…〝おねえさまはあなたのそばにいる?〟」
テーミスはトリィアの意識が落ちる瞬間に呟いたことを聞き逃さなかった。
「もちろん」
「そう…〝お姉様の名前を教えて〟」
「おね…さま、の…んん……」
本当の名前を話してはならない……
口の軽めなトリィアでも得体の知れない相手とあっては幼い頃でも口は堅い。かと言ってテーミスも諦めはしない。
「じゃあ…15年前に戻りましょう……トリー…〝お姉様はそばにいる?〟」
こくこくと嬉しそうにトリィアがうなずく。
(そんなに…前から…?)
テーミスは2人の関係がどのようなものなのか、急に興味をそそられた。
「〝お姉様は優しい?〟」
また力強くうなずく。
「〝お姉様のことが好き…?〟」
「だいすき……」
ウレイアはいつもトリィアを気遣い思いやって叱り、抱きしめられることは少なくても常に愛情に包まれていた。
必死に追いかけて来る歩みの遅いトリィアが自分を見失わないようにゆっくりと、ゆっくりと歩いてくれる。いつかは追いついてその横顔を見上げることがささやかな夢になった。
「いつも…いつも一緒に歩いてくれる……」
「!……そうなの…あら?お姉様があなたを置いて行ってしまうわよ?早く〝お姉様の名前を呼んで!〟」
「う、ウレイアさまっ!」
「そうっ!…ウレイアっ!そう……綺麗な名前ね…」
テーミスは苛つくことも無く、こんな過程を楽しんでいるように見えた。まさしくおもちゃで遊んでいる子供のように……
「そう……そうそう…〝お姉様にもご主人様がいるの?〟」
トリィアは首をかしげた。
「ご主人様…さま?」
「〝あなた達を従えている…誰かがいるでしょう?〟」
「わたしにも、お姉様にも…ご主人はいないよ」
「え…?」
今度はテーミスが首をかしげる。
テーミスはトリィア達の関係が、自分と同じように力と支配によって築かれているに違いない、と思っていた。
自分よりも強い者におもねる。その思い込みはウレイアと話をした時にもテーミスが口にしていたが、エルセーにせよ、トリィアにせよ、彼女達の絆を他の同族と一緒にされるとは……甚だ心外だと言うだろう。
「…トリーにとって…お姉様はご主人様…でしょう?」
「お姉様?お姉様は……お姉さん、お母さん…家族、ずっと一緒……わたしの半分…」
「はん…ぶん?」
それまで楽しんでいたテーミスが不可解で、不愉快な顔をした。
テーミスは視線を落として少し考えてから
「トリー…5年前まで大きくなるよ…〝お姉様は優しい?〟」
「もちろん、それでもお怒りになる時は…私のためを思ってのことですから」
「トリーに…〝何かを押しつけたり…利用しているのでしょう?〟」
トリィアはハッキリと首を振った。
「ううん…利用しているのは私の方…お姉様に甘えてわがままばかり言って…むしろお姉様は…私に何も求めて下さらない…私はいつでも何でも捧げることができるのに…」
「…………」
そしてはじめて、テーミスは顔をしかめた。
「それに私には分かります、決して誰にも踏み入れられることのない強い絆と…」
「〝だまってっ〟…トリー」
止め処ないトリィアののろけを思わず一喝してしまったテーミス。
同時に心の奥深くから暗くどろりとしたものが湧き上がってくる。知らない感情にあらがうこともできず、テーミスはそのまま粘りつく心地にあっさりと自身を委ねてしまう。
「この人は…わたしの姉妹にはなれないのね…」
何故か心からウレイアに自分を委ねているトリィアにテーミスは苛つきを見せた。そしてテーミスがどのような言葉を発しても今一緒にいる女の表情にあまり感情は表れない。テーミスはその事で尚更のこと心の内を濁らせて、やるせない思いが幾重にも纏わりつき心をがんじがらめに絡めていく。
「トリー…あなたとウレイアの絆はとても強いのね?」
「もちろんです!」
「そう…」
しばらく虚ろを仰いでいると、テーミスは冷たくトリィアを見つめてささやきはじめた。
「トリー…あなたのお姉様の姿を思い描きなさい…」
心に描いたウレイアの姿にトリィアが微笑んでいる。
「お姉様…」
「よく聞いて…〝それが…テーミスよ!〟」
「え?ちがう…この人は私のお姉様…」
テーミスが語気を重ねて強めた。
「〝あなたはテーミスにそう信じ込まされているのよ?ウレイアが危ない…!お姉様を救うの…忘れないでっ、〝それはテーミスよ!〟〟」
悪意に染まったわがままがトリィアの無垢な現実を塗り潰していった。
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