第117話 慟哭 1

 ウレイアはこれまでにないほどの恐怖を感じていた。


 テーミスがトリィアを狙っている!


 あの『天使』が何を考えているのか理解できないが、そうでなければ影武者を置いて消えるはずがないのだ。相手を警戒しすぎて思慮思考の視野が狭くなっていた。そして考えが深すぎたのだ。


 ましてや、もう敵がテーミスひとりでは無くなった。100人の同族が敵であってもおかしくない、今さらでもそう考えを改めた。


 ウレイアは全力で疾る馬の背に乗っていながらも、すぐに自分の脚で駆け出したい気持ちだった。


(もっと…もっと遠くっ…)


 ウレイアの『監視』が届く範囲は全円で視ると半径2キロほど、視界を絞るほどに距離は伸びるが狭い範囲を視るだけではそれだけ見逃してしまうものも増えてしまう。


 俯瞰による『監視』も距離は格段に伸びるが、広く見通そうとすれば目で見るように認識は粗くなり、木や物陰の裏を見ることもできない。ウレイアは行く手にあるものを絶対に見逃さないように、自分より前だけに視野を絞り倍の距離を稼ぐ。


「つっ…!」


 激しい頭の痛みが襲ってくる。


 少しでも遠く見透そうとすると、脳がその負荷に耐えきれずに悲鳴を上げる。それはまるで、ことのほか酷くのぼせている時と似ている。


 そして悲鳴を上げ始めたのはウレイアの脳だけでは無い。かわいそうだとは思うが、既にペースが落ち始めている馬にウレイアは苛ついていた。


 しかしそれとほぼ同時に……


「…っ!、トリィア!」


 見つけた方へ目を凝らしても肉眼では遠すぎる。でもウレイアはやっと大きく息をすることができた。


(はあ…無事だったのね…)


 トリィアも大分急いでこちらを目指しているようだ。姿を確認できたウレイアはそのまま馬なりに走らせ、首を撫でて馬をねぎらった。


 やがて肉眼でも姿が見えるようになるが……


 何故かトリィアは速度を緩めることなく、真っ直ぐにウレイアを目指して馬を走らせている。


(トリィア?)


 すぐ先まで来ているというのに、トリィアが手綱を緩める気配がない、まるでウレイアに気づかずにすれ違ってしまいそうな勢いだが…トリィアは直前で何かを地面に捨てた……


「?」


 ウレイアは自然と今目の前で起きていることから可能性を分析するが……感情が邪魔をしてウレイアの時間が止まる。その時っ…


 首に下げていたひとつのマテリアルが熱を帯びた。それはエルセーのコインだ。


「あつっ!?」


 胸に熱とざわつく危機を感じながら、ウレイアは反射的に顔をそむけてのけぞった次の瞬間…っ


 トリィアがすれ違うと同時に仰ぎ視るウレイアの頭をかすめていく鋼糸が見えたっ。


 それは集中した彼女の目にはっきりと、そしてゆっくりと後方へ飛び去っていく。


 冷たい汗が一瞬で吹き出し、鞍の無い馬の背中からバランスを取りきれずに、転がり落ちてしまう。


(トリィアッ?!)


 背中から落ちてゆく中で、ウレイアは身体が地に着くよりも早く左足で地面を蹴ると、転がる体に勢いをつけてその場から身をかわした。


 パキンっ!と乾いた炸裂音が響く。


 そうっ、落ちた場所にはトリィアが仕掛けた石が獲物を待ち構えていたからだ。


(つっ…!!)


 逃しきれなかった足を石のかけらがはすっていった。


 確実に殺意のこもった一撃っ、いや、二連撃っ!しかし今はそんなことを考えている暇は無い。手綱を返して突進してくるトリィアがすぐそこに迫っている。


 ウレイアがトリィアの顔を凝視するとその顔に浮かぶ敵意と激しい怒りの面様に、彼女はそのまま棒立ちになってしまう。しかしトリィアは激情にまかせて手綱を緩めることは無く、またウレイアの首に鋼糸が迫ってくる。


 それを弾き返そうと鋼糸が力なく鎌首をもたげるが、今の彼女の精神状態では弾き返せるか分からない。


 するとっ、今度は馬が突然嫌がって斜行したことで流れた鋼糸がウレイアの頰を薄く切って通り過ぎていった。


 はっとしたウレイアはすぐ側の雑木林に向かって走り出すと、何の考えもないまま木の影に逃れた。


(トリィア…無事では無かったのね……っ)


 ウレイアは自分の出来の悪さに怒りがこみ上げてきた。トリィアに散々偉そうなことを並べ立ててきたことに恥じ入り、そして謝りたい気分だ。


 そのトリィアは林の前で馬を降りるとウレイアに向かって叫んだ。


「テーミスっ!よくも…よくもお姉様をっ!」


 一瞬カッと熱くなった頭の血の気はすぐに引いて、逆に身震いするほどの冷たい怒りと殺意がウレイアを支配する。


 テーミスがトリィアにしたことを理解するには十分な言葉だった。 


(やってくれたわね…テーミスっっっ!)


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