第109話 やくそく 1

 突然に姿を見せたテーミスがウレイアに残していったものは、困惑と身動きの出来ない状況だった。


 ウレイアは馬車に向かった時とは違いやや重たい足どりでトリィアの待つ部屋に戻って行くと、廊下の途中でずぶ濡れのトリィアがこちらに駆け寄ってきた。


「お姉様っ!」


 ウレイアは駆け寄ってきたトリィアを思わず抱きしめた。


「え?」


「ふう、トリィア…くす、ごめんなさいね、こんなにずぶ濡れにさせて。すぐに拭きましょう」


 トリィアの顔を見て、声を聞けたことで、何かようやく虚ろな世界から戻ってきたような、妙な感覚の中を彷徨っていた。ウレイアが思っていたより彼女の言葉のと影響を受けていたのだろう。


「お姉様?それはいいんです。それよりすぐに出られるように支度はしておきました」


「まったく、なぜ最近はこんな経験ばかりなのかしら?」


 ウレイアは額に手を当てた。


「はい?なんですか?」


「いいのよ、とりあえず部屋に戻りましょう」


 開け放された部屋に戻ると、荷物は最小限にまとめられ、ウレイアが頼んでいた通りすぐに飛び出せるようになっていた。


「もう、扉が切り落とされた時はびっくりしました…テーミスと激しい争いになったのかと……でも街から脱出しないということは?」


「ええ、実は困っているの…まったく……」


 部屋に戻るとウレイアはソファーに座り込んだ。


「どうされたんですか、お姉様?」


「私はさっき、確かにテーミスの首を飛ばすつもりだったのに……多分、彼女の『言葉』に影響を受けていたんだわ…それに深層ではあの場から逃げ出したかったのね……」


「え?ええと、どういうことですか?」


「もうっ!」


「っ?!」


 ウレイアはうなだれていた気持ちに自ら活を入れるとトリィアに自分の恥を晒した。


 もはや自分が正常な判断力を保てていたか信用できない今となっては、テーミスの本心も推し量れない。


「今回ばかりは、自分の甘さがほとほと嫌になったわっ」


 するとトリィアはそんなウレイアの手を握って


「そんなこと言わないで下さい。私はそんなお姉様が大好きなんですから…お姉様が自分を否定されるなら、私まで否定されているような気がしてしまいますよ…?」


「あ、あなたを否定するつもりなんて…」


「それに、そんなテーミスと相対して帰ってこれたのはお姉様だったからじゃないですか?お姉様じゃなければ、今頃はきっとテーミスに取り込まれていたと思います」


 テーミスを知ろうとして逆に彼女のペースに引き込まれていた。じわじわとテーミスの言葉に侵され、おそらく力を込めたあの言葉は止めのつもりだったのだろう。


「…でも、相手の人格を損なわずに従わせるには、かなり言葉を選ばなければならない……少なくとも彼女は私を壊そうとはしなかったということね。あれは彼女なりのわがままな説得だったのかしら?」


 そんなことを反芻している自分にハタと気づく。舌の根も乾かない内にまだウレイアは…


「!、ダメだわっトリィア…今は正気に戻っているのに私は甘いことばかり…っ」


「ぷっ、あ、ははははは…」


 弱音を吐いているウレイアをトリィアは一笑した。


「トリィア?」


「もー、頭でっかちなお姉様らしいです」


「ええ?」


「お姉様は…私達に敵性を示す相手にはいくらでも冷酷になれるのに、そうでは無い相手と見ると、ついつい情けをかけたくなってしまうんですよね?」


「なっ?」


 たしかにそう……確かにそうだが、そう言われると何か気恥ずかしい気がした。


「しかも真剣に話しを聞いてくれる上に本心から思いやった言葉を掛けてくれる、叱ってくれる…」


 そして、何故か徐々にトリィアの語気が強くなっていく。


「さらには強くて美しいのですもの、そりゃあ誰でもころっといっちゃいますよ。特に感受性の強い私達はっ…!」


「と、トリィア…何か怒ってる?」


「はあ……いえ、モテる恋人を持つ故のやきもちですっ!」


 ツンとそっぽを向かれると、ウレイアは急にトリィアのことが怖くなった。


「あ、のトリィ…」


 と、急にトリィアは抱きついて来て、


「なあーんてっもうっ!なんなのですかっお姉様はっ?遂には天使までたらし込んで帰って来るなんてっ、見境がなさすぎますっどきどきですよ私はっ!」


「トリィア…?」


「もういっそのこと誰もいない所にお姉様をさらってしまいたいくらいです……」


 その言葉は今の無防備なウレイアの心の奥底に、ふかく深く突き刺さった。


「…いいわよ」


 ウレイアは微笑んだ。


「はい?」


「あなたがそう望んでくれるなら、どこへでも、付き合うわ…」


 トリィアは一瞬、眉頭を上げて心配そうな顔を見せると、すぐにうつむいてふうっと笑った。


「できませんよ…出来るわけないじゃないですか?今逃げ出しても、きっとお姉様はすぐに後悔に気付きます。それにそんなことをしたら、お姉様も、お姉様を好きになった私自身も…否定することになるじゃないですか…」


「っ!…」


 トリィアの譲れない気持ちと覚悟の笑みは、またウレイアの足を前に出させる。


「だ、か、ら……この一悶着が片づいて、何年かしてセレーネも手が離れたら…少し長い旅をしませんか?ふたりっきりでっ!」


 それは先ほど同様…いや、それ以上に魅力的な提案だった。


「ふうん、いいわね、約束よ!?」


「え?あらっ?それは私のセリフのような…」


「でもセレーネの手が離れたらって、あなたにしては随分とのんびりね?」


「そうでしょうか?私の20年は本当にあっという間でしたよ…?初めてお会いした時のことを昨日のように思い出せます…」


 トリィアの言葉が生きる糧、力の種となってウレイアの内側に溜まっていく。


 そして自分のしてきたことに意味を与えてくれて……


「それでお姉様?何か急を要する案件はなんですか?」


 心許なくなっていたウレイアの足取りを背中を押して支えようとしてくれる。


「ん、そうねえ…すぐにエルセーに連絡を取りたいけれど、私達がここを離れたらテーミスがそれをどう解釈するのか……?」


「そうか、エルセー様がここに来ないように止めたいのですね?来た途端にテーミスに知られてしまうから……」


「まあ、あんなテーミスのことだから…私の仲間が増えても危機感どころか小躍りして喜びそうだけど、今のところはエルセーを隠しておきたいわね……それと、どうも無条件に感知できるのは存在だけでは無いようね?」


 今さら奇襲になるとも思えないが、全員の動きを把握されては全てが悪化する。何よりテーミスの中では既に、エルセーは引き入れる対象になっている可能性が高いのだから。


「それに、同族の何人が取り込まれていて、どこにいるのかしら?何処かに隠れているのか、この街にはいないのか?まあ、エキドナが『テーミスと会うわけにはいかない』と言った意味がよく分かったわ」


 おそらくすぐに力の差を感じとったエキドナは、『神言』を使われる前にテーミスに話しを合わせてその場を凌いだのだろう。そうでなければテーミスの『洗礼』を受けて、すっかりテーミス教の信者になっていたはずだ。


(慎重なエキドナがこの街に近づくことを恐れているとすれば……もしかして)


「あの、稼いだ時間の間にお姉様が考えたい事は…きっと沢山あるとは思いますが、その中で一番お姉様を悩ませて困らせているのは、テーミスを殺す必要があるのか…ですよね?」


 とうに悟られていても、改めてトリィアに言われると、隠していたものを見つけられたようにウレイアはどきりとした。


「それは、だから…」


「お姉様のお話では、テーミスは全てを思い通りにしないと気が済まない超駄々っ子みたいですけれど……敵かと言うと、そうでは無いですよね?」


「ううん…テーミスの目的や気持ちからすれば敵では無いのかしら?そもそも彼女自身、そんなつもりもない感じね。でも……」


「でも?」


「やり方に問題があるし、結局破滅する道を彼女は歩いていると思う。それに巻き込まれた者や道を共にした者もまた、一緒に破滅するわね……そしてその後には、今よりも酷い状況が残るんじゃないかしら?」


 どんなに特別な力を持っていたとしても、所詮は1人の力でしかない。たとえいく人かの同族を仲間にしたとしても、この広い世界の中では小さな存在でしかないのだ。


「人間を侮りすぎている、ということですね?」


 トリィアにうなずいた。


「いま、彼女には宗教という後ろ盾があるけれど、無理な支配を強いればいずれはぶつかり合って必ず負ける。どんなに矮小な存在でも数を侮っていては支配なんて夢のまた夢よね?まあそうね、テーミスが1万人いれば、面白いかもね?」


「うんうん、そりゃそうだ!私達だって無策で押し包まれたら大ピンチですよね?テーミスだってそれが分かっているのではないでしょうか?だからこそ仲間を求めているでしょうに……うふふ、それにしても1万人のテーミスがいたら、1万人のテーミス同士で大戦争が始まりそうですね?」


「かもね…それに多分、テーミスが仲間を求めているのはそれだけではないでしょうね、おそらく孤独なのよ」


 特に理想や夢を共有できる仲間とずっと出会えない苦しみは、尚更自分を歪めて他人とその考えを受け入れられない悪循環を生み出しているに違いない。


 増すばかりの孤独と欲求、彼女は人形ではない仲間を求めている。


「じゃあお姉様は、テーミスは敵ではなくても最悪の状況を産み出す元凶になり得る、そう思っているのですね?」


「……」


 トリィアはウレイアを見つめると、ふうとため息をついた。


「それでもお姉様は…テーミスの考えを改めさせて、他人を認めることを諭らせれば、彼女を殺さずに済むかもしれない。ともすれば本当に仲間になれるかもしれない…」


「!」


「今そうお考えでしたね?そう聞こえましたよ?」


「んっ、んんっ…」


「ほんと、凄いですお姉様は。相手が天使であっても救える者には手を差しのべたい、理解しあえるなら争う必要がない。そう思われてますね?でもそれは…本当に困りましたねー…」


(そう、話しをいつも複雑にしているのは私だ)


 しかもテーミスのことをもっと知りたいと思っていた。何よりもこれまで彼女がどう育ってきたのか?そのことが気になっていた。


「でも無理よ、あの性格では…利用するにも危険すぎる。あまり放っておくのも不安が残るし、もっと幼い頃に出会っていれば違っていたかもしれないけど…」


「?!っ、あれ?」


 トリィアは急に何かが、目の前に何かが現れたことに気付いたような顔をした。


「なに?どうしたのトリィア?」


「いえー、今…何か解ったような気が…でも、掴み損ねてしまいましたあ」


「ふうん…そう?もし掴めたら教えてくれる?」


「もちろんです」

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