第79話 師 1
エルセーが寝室の板張りの壁を手で撫でると、羽目模様に貼られた木板が数枚、剥がれ落ちながらエルセーの手の上に重なった。
その隠された奥行き30センチほどの棚には2つの木箱と封書などの束が1つ収められ、エルセーはその内の1つの木箱を丁寧に取り出すと、ベッドのサイドテーブルの上に静かに置いた。
深い枯れ色と美しい木目のマホガニーの箱の中には100枚余りの古い金貨といくつかの宝石、石ころ、小さなアクセサリーなどが入っている。
それらをゆかしげな眼差しで見るエルセーの目には同時に、オネイロとのかけがえの無い幾つもの記憶が映っていた。
「エルセー、こちらに来て座りなさい。おまえに大切な話があります」
「はい、何でしょうか…オネイロ様?」
まだ幼さの残るエルセーの面差しは、この場面が遠く遥かな過去の思い出の投影であることが解る。
「おまえには準備が出来次第、私から離れて暮らすことを命じます」
「はっ?オネイロ様っ、私に何かお怒りを買うような落ち度がありましたでしょうか?」
問いすがるエルセーにオネイロは微笑んで答えた。
「私を怒らせることなんて、もう何年も記憶にありませんよ。だからこそ…ね。おまえが私の元に来てから15年あまり…この数年はむしろ、私の方がおまえとの生活を楽しませてもらいました。でもね、いつまでもおまえを引き留めておくわけにはいかないでしょう」
「そんな…私にはまだオネイロ様から沢山のことを教えていただきたいのです。ですからどうか…どうかまだ私を側に置いて下さい」
「今思えば、おまえは出来が良すぎて手がかからなかったのが、むしろ残念に感じるわねえ…?良いですか?これからは1日でも早く、ひとりで生き抜く術を身につけるのです。戦って生きる権利と、おまえの幸福を勝ち取って行くのです」
「オネイロ様…」
ぽろぽろと涙を流しながらエルセーは何とか踏み留まる理由を探した。
そんな愛弟子をつらい想いで見据えながら、オネイロは木箱を差し出した。
「ここに、いくらかのお金が入っています、これを使って準備を整えなさい。2ヶ月の猶予を与えます、良いですね?」
エルセーは声をふり絞り、変わるはずも無い返事を確認する。
「お考えを…変えては下さらないのですね?」
「そうよ、でもね…私からひとつだけ、頼みがあります。しばらくの間は、月に一度は顔を見せてちょうだい。そして沢山の話を聞かせてちょうだい。良いことも、悪いことも、ねえ…」
「オネイロ様っ!」
椅子が倒れたことも気にせずに立ち上がるとエルセーはオネイロにすがるように抱きついた。
「まあまあ、なんてはしたない…でも許しましょう。愛しいエルセー、忘れないで、あなたは私の最高の弟子で、最愛の娘よ…」
その時渡された木箱の中の金貨はエルセーにとってただの金貨ではなかった。
それはたまたま金貨の形を為してはいたが、その一枚一枚はオネイロの心と愛情そのもの。いくらかは、自分が貯めていたお金では足らずに仕方なく使ってしまったが、この時ほどモノの本当の価値というものを思い知らされたことは無かった。
だからもし、自分にも愛情をそそげる愛弟子を持つことが出来た時に、その弟子の為に使うべきだと決めていた。
それがなぜ、今もって彼女の元にあるのかと言えば、いつしか国も王もすげ変わり、流通している貨幣も時代と共に変わっていってしまった。とは言え新しい貨幣に変えることを許せずに、結果エルセーの宝となったのだ。
そしてウレイアとトリィアが以前もらった金貨のアクセサリーが、まさにこの中の2枚なのだった。
「良いですか?エルセー、相手を見極めた上で、おまえが勝てないと思った相手には係わってはいけませんよ?特に『天使』と呼ばれるモノには十分気をつけなさい。もしも避けられないのならば、1日でも早く倒してしまうのです」
オネイロは天使と対峙して生き残った数少ない同族である。
「なぜなら彼女等は自ら技をあみ出す向学の興味は薄いようでも、他者の技を感取して成長する速さは尋常では無いのです。私とオイジュが葬った天使は戦っている最中にも私達の技に対応して手強くなっていったのです。今日勝てる相手が明日には強敵に、明後日には手に負えないバケモノになっているかもしれない、それが天使だと覚えておきなさい。無論一番良いのは何も気付かせないことです。力そのものは強くても弱点は同じ、闇に乗じて討つ、騙して討つ、これが最善ですよ?」
オネイロがその身をもって経験して残してくれた天使の様態と戦いの話は、これも今の自分には何よりもありがたい贈り物となった。
自立した後も師からは遠く離れず、言いつけられた通りに長く年月を過ごしたが、やがてオネイロは年を経るごとに老いるようになると、まるでただの人のように…自分達の証明でもある力も体力も弱くなっていった。
「オネイロ様、今日のお具合いはいかがですか?」
エルセーは時間の許す限り、オネイロの元を訪れた。以前ならそんなエルセーを叱りつけているはずだが、一緒にいたいという気持ちが勝って、オネイロもエルセーを叱ることができないでいた。
「変わりありませんよ…不思議なものねえ、今は自分の老いを楽しんでいるわ」
「!っ……今、お茶をお入れします」
エルセーは唇を噛んだ。
「結局、私には何も出来なかった…いえ、諦めてしまったのかしら……?」
「?、何のお話しですか?」
「ケールが飛び出して行ったあの日、私達が孤独な存在になってしまった原因を…私は止めることが出来たのに。許してねぇ、おまえにこんな世界を渡すことになってしまって」
「いえ、ケール様はきっかけを与えてしまったかもしれませんが、いつかはこうなっていたと思います。もちろんオネイロ様には責任などありません。どうか、お気を煩わせぬよう」
「もう私達は自由を手にすることは出来ないのかしら?」
あと何回、自分は師にこうしてお茶を入れてあげられるのだろうか?そしてお茶を入れる度に別れへの時計が進んでいるようで、エルセーは恐怖と悲しみに押しつぶされてしまいそうだった。
「オネイロ様、どうか私の家に来ていただけないでしょうか?私の、その、母として…地元の人間が出入りしていて少しかしましいかと思いますが、そこそこな町ですから住みやすいと思いますし…」
「おまえには人々を惹きつける魅力がありますねぇ。町の中に住むことを選んだのもおまえらしい。でも私はここが…いえ、ここも違かったのかしら……?とにかく、家を変えるつもりはありません」
「?、ではせめて、私がここに住むことを許していただけないでしょうか?」
するとオネイロは最近は見せなかった師としての顔と気迫を見せた。
「なりません。私が死んだ後ならおまえの好きにしなさい。でもそれまでは、ここに戻ってくることは許しませんよ?」
「……わかりました」
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