第80話 師 2

 それから数年の後、夏が近づき強い陽光に汗ばむようになる頃、エルセーがいつものように師の家を訪れると、


(あら?オネイロ様の気配が無いわ。出かけてらっしゃるのかしら?)


 中に入るなり、いつもと違う雰囲気を感じ取ったエルセーに不安が覆いかぶさってくる。


 原因を探すように家の中を確認して歩くと、リビングに自分宛の封書を見つけた。直感的に恐怖におののいたエルセーの時間が停止する。感情に支配され胸を叩きつける耳障りな鼓動以外は何も感じることが出来ない。


 小刻みに震えながらもやっとの思いで封筒の手紙を取り出した。


(おはよう、エルセー。今日も私に会いに来てくれて嬉しく思います)


(まず初めに、おまえに見たくも無い手紙を読ませることを謝っておきます。察しの良いおまえのことだから、この手紙を見つけた瞬間に、その意味を汲み取っているでしょう。それにおまえに前もって言うと、おまえはぽろぽろと涙を流して私を止めたでしょう?ともすれば自分も一緒に行くと言い出していたかもしれませんね。だからこうして手紙を残すことにしました)


(今になってなぜこんな事をするのかと、おまえは言うでしょう。これには私なりの、私だけの理由がちゃんとあるのです)


(このところ私はずっと考えていることがありました。おまえを育てることに夢中になる前、ケールの行いを何とか清算しようとしていたよりも前、私は長い人生を送っていた中で自分が何を求め、求められているのかを探していたのです)


(それは誰もが抱えるありきたりな探究心でしょう。でも私達は一度死んでも尚、この世界に留まり続けた)


(ただの執念や怨念かもしれません。あるいは人間の生存本能が起こした奇跡なのかもしれません。いずれにしても私は常にその答えを欲していたのです)


(おまえは私の期待に応え思っていた以上の成長を見せてくれました。これ以上おまえに教えることも無くなり、あらためて自分だけの世界に没入するようになると、かつての欲求が蘇ってきたのです)


(おまえと過ごす時間は本当に大切なものです。しかし、このまま死神を待つだけの時間に何の意味があるのでしょう。だから私は残された時間を使って想いのままに生きることを決めました)


(5年か、あるいは50年か、いつまで生きられるかはわからない。でもこの体が動く内は、私はどこまでも進んで行くことでしょう。そしてやがては死に追いつかれ、その場に倒れこみそのまま大地に還ることでしょう)


(これはあなたが思う通り、私の最後の旅です。探究の旅であり、死出の旅でもあるのです。でも今の私は年甲斐も無く心を踊らせています。決して期待しているような旅にはならないでしょう、しかしそれこそが自由の本質だと思いませんか?だからこそ価値があると思いませんか?)


(そして運良くその答えに辿り着くことが出来た時には、私はおまえの元に戻り、辿り着いた答えを教えるつもりです。これは待っていることを願っているわけではありません、私にはおまえが世界のどこにいても、すぐに見つけられる確信があるのです。だからおまえも自分の思うままに、好きな場所で生きていきなさい)


(これが、私の理由と望みです。そしてどのような結末を迎えても、おそらくこの家に戻ることは無いでしょう。ですからここにある全てをおまえに残します。おまえの好きに使いなさい)


(さあ、もう泣くのはおやめなさい、寂しいことなど無いのです。おまえも解っている筈ですよ、こうして文字をつづっている今でも、私の横にはおまえが居ます。そして、この手紙を読んでいるおまえの横にも私が居るのです。いつまでも私達の魂が離れることはありません)


(おまえが私を母親として家に誘ってくれた時は本当に嬉しかった。全てを学び終えた時におまえは私の娘となったのです、最愛の娘にね。愛しているわ、エルセー。そして無事と幸福をいつまでも祈っています)


(愛を込めて 母より)


 涙が止まらなかった。止めようとも思わなかった。師が自分の言葉を違えた事など一度も無い。もう会えない、その孤独と痛みは例えようも無く胸を締め付け、涙を搾り続けた。


「うふふっ、なんて…なんて勝手な人でしょう…」


「いつまでも…お達者で…お…母様っ」


 初めてそう呼びかけても、応えてくれるオネイロはもういなかった。

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