第7話 三人目の弟子 3

 カイルの勤務する警備詰所からしばらく、10分ほど歩くと小振りな家が建ち並ぶ静かな住宅街がある。その中の袋小路の更に奥、何の変哲も無い家の前でトリーは足を止めた。


 ドアのハンドルに手を掛けると動きを止めて中を伺うように目を伏せる。ほんの僅かな時間を何かに使って、彼女はドアを開けてその家に入っていった。


 中に入って小さなホールからリビングを抜けてダイニングへ…


「おかえりなさい、トリー」


 籠をテーブルに置いたタイミングで声だけがトリーを出迎えた。その声にぱっと表情を明るくするとトリーは小走りに奥へと向かって行く、その奥には書斎兼プライベートリビングがあった。


 声のヌシはこの家の女主人、見た目にはまだ20代と若く、ちらちらと輝いて燃えるような緋色の長い髪と、美麗とも言えるキリリとした美しい顔立ちは、他者を寄せつけない気品と威厳を併せ持っている。


 彼女はウレイアと言う。そしてこの女こそが、見た目は違うが先ほどまであの貴族をからかっていた張本人である。


 ウレイアは暖炉の前に置かれた長椅子に身体を預けながら本を読んでいた。そこへぱたぱたとトリーの足音が駆け寄ってくる。


「お姉様っ!」


 トリーは彼女の前で膝をつき、飛び込むようにお腹の辺りに顔を埋めると上目使いにウレイアを見た。


「美味しーいパイを買って来ましたよ?一緒にいただきましょう!」


 ウレイアはトリーの頭をやさしく撫でる、その目には慈愛が満ちていた。


 トリーはウレイアの弟子である、3人目の……彼女は20年ほど前、とある町でうす汚れて彷徨っていた。互いに引かれ合い自分に気づいた時の彼女の泣きそうな顔を…ウレイアは20年たった今でも鮮明に覚えている。自分の境遇を理解できずにうろたえるばかりの彼女をウレイアはそのまま連れ帰ったのだ。


「私はいいわ、あなたいただきなさい……」


「ええーーっ、せっかく一緒にいただけると思っていましたのにいっ?ひとりでは美味しくいただけませんっ」


 そうして甘えた眼でウレイアを見つめる。


 ウレイアは『3』という意味で『トリー』という仮の名を与えた。彼女には落ち着いてから自分で名前を選ぶように言ってあるのだが、何故かトリーは今だに名前を変えようとはしない。名前だけでは無い、今の自分の運命を理解し受け入れてから先は、全てを自らの意思で選んで生きていくよう言い聞かせてある。しかし彼女はやはり、始めと変わらずにウレイアから離れようとはしなかった。


「しょうがないわね、ワインでも飲みながら頂きましょうか?」


「そうですねっ、のみましょ飲みましょーっ!」


 トリーは嬉しそうに立ち上がり、また小走りにダイニングへ向かおうとすると


「あれ?この綺麗な小瓶は何ですか?」


 部屋を出る途中で見つけたのは壁際のワインテーブルに置かれた小瓶、例の貴族がウレイアに贈ったローズオイルである。


「例の貴族に貰ったローズオイルよ」


「ローズオイル?なーんか下心がぷんぷん臭うんですけど……」


 トリーは小瓶を摘み上げるとガラスが擦れあう音を立てて蓋を開けた。と、途端に濃厚なバラの香りが部屋に拡がった。


「ふわぁーーーっ!何ですかこれっ?まるで満開のバラ園にいるみたいです、お姉様っ」


「それは最も上質なローズオイルだけど、わずか1ccを作り出すのに数千本のバラが必要だと言われているわね」


「ええっ?!すうせん……って、なんて贅沢、いえ不経済なシロモノですかっ!たしかにすごく魅力的…いえ魅惑的な香りですけれど……一体いくらするんだコレ?」


 驚いた拍子に蓋を閉めた小瓶をトリーはしげしげと眺めていた。しかし、


「トリー、あなた今、中身を確認せずにフタを取ったわね?」


「あっ!」


 トリーは油断していた。しかし『彼女達』にとっては一瞬の油断が自らを危険に晒す。


「あの……すっすいませんお姉様、わたしっ……」


 声を荒げて叱るわけでは無い。ウレイアはたしなめる程度に自分の願いをトリーに訴えかける。


「初めて目にしたモノ、得体の知れないモノに不用意に触れてはいけないと言ってあったわよね?まあ、ここに置かれている物だから既に私が安全を確認しているはず…そう思うのは当然だけど、それでも念を押すくらいの警戒心を見せて欲しいの、私の安心と、何よりあなた自身の身の安全のために……」


「お姉様……ごめんなさいっ、わたしお姉様に甘えてました」


「そう、分かってくれればいいの」


 ウレイアの『願い』を受け止めたトリーは急にもじもじとはにかみ始めた。


「はい、よく分かりました。お姉様の……私にかけてくださる愛情も…………」


「ん……?」


「ん??」


「え、ええ…そうよ、あなたの身をいつも心配しているわ……」


「うふふ……」


「…………」


 何かが歪んで受け止められたような……しかしちゃんと自分の真心が届いているならそれで良い、良いとした。


「でも、お姉様に相応しいとは思いますが、なにかお姉様のイメージとは合わないような……」


「そんなもの使いませんよ」


「え?そうなのですか?」


「そんなものをつけて歩っていたらあの時会っていたのは私ですよ、と宣伝するようなものでしょう?」


「あ…たしかに……」


 それこそが油断というものである。


「じゃあ、処分ですね?」


 と、ウレイアは更にここで思考を巡らす。


「ふうむ……まあ他に利用できるかもしれないから封印し直して閉まって置くけれど、あなたも使ったりしてはいけませんよ?」


「はいっ、お姉様」


 100点満点の返事だ。


「それじゃあこの話しはもうお終いにして、せっかくあなたが買ってきてくれたのだもの、パイを頂きましょうか?」


「はい、すぐにご用意します、お姉様!」

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