第2話 なのらない女 2

身支度を済ませてヴィンセントが出る頃には、4人の騎兵を伴って4頭立ての馬車が用意されていた。用意されていたがさすがに馬の機嫌は良くないようだ。


「兵士4人に4頭立てとはまた、大仰ではないか?」


「しかし今は微妙な時期で御座います。万が一を考えればこれでも最低限かと……」


 ヴィンセントの問いかけに従者の男は強く答えた。その忠心を拒むほど彼は狭量では無い。


「そうか……」


 重厚な馬車に塗られた深い紺碧色はバマー家の象徴である。更に黒の縁取りと磨かれた真鍮の装飾が控えめながらも持ち主の品格と権力を物語り、そして矢も槍も通さぬ堅牢さを開かれた扉の厚みからうかがい知ることができる、ただの金持ち用の馬車では無い。


 バマーと共に乗り込んだ従者は小さな窓から顔を出して騎兵のひとりに声を掛けた。


「モーブレイを出たら十分に警戒してくれ」


「はっ、分かっています」


 従者がひとつ息を吐いてから御者に合図を送ると馬車はゆっくりと動きだす。騎兵は前に2人、後ろに2人、それぞれが自分の警戒するべき方向に注意を払いながら付き従う。馬車は小路から大通りへ、城に背を向ける形で東の出口を目指して進んだ。バマーは従者の落ち着かない様子を見て


「心配性が過ぎるぞ…?まあ、確かに良い顔をせぬ者もいるが……」


「しかし不穏な動きがあるとの話しも耳に入っております」


「私はなにも『彼等』に主権を握らせるつもりなど無いのだがな……だがないがしろにするワケにもいかぬ、ならば議会に末席を用意するのが得策であろう…都合が悪いならばその時は退席を願えば良い」


「それは分かっております。大半の諸家の方々にもご賛同を頂けているようですし……しかしながら噂というものは人の口を渡る度に尾ひれが付くものでございまして、それを曲解したり、これを機にと良からぬ画策を巡らす者がいないとも限りません」


「まったくっ、嘆かわしいことだ」


 バマーは従者の話しに肩をすくめて不満をもらした。


「しかしヴィンセント様、一体どうされたのですか?何か急を要するご心配ごとでも……?」


「ふうむ」


 大概の急用でも夜明けを待てないということは無い、ましてや翌日には屋敷に戻ることも分かっている、従者の疑問も当然だと言えた。


「ところがな、私にもよく分からぬのだ。急に屋敷が心配になり居ても立ってもいられなくなってな……そうか、これではお前のことを心配性だと責めるワケにもいかぬな、ふふ……」


「はあ……」


「なに、大事は無いのだ。皆にはお前から謝っておいてくれ」


「かしこまりました」


 この街の東側には大きな川が海まで横たわっており、緩く蛇行し方向を変えながら30キロ余り先のカッシミウで海に注いでいる。


 水量も多く水深も深く、雨が続けば更に水かさも増し、東からの敵に対しては自然の要害としての役割もあるため、むやみにこの川を渡る橋を増やしたりはしない。


 それでも石組みに木の欄干の頑丈な橋が街の正面に1本、それから少し上流にも同じ様に橋が架けられていて、こちらは街に用事の無い者が渡るために使われている。つまり街から東に向かうためには、2本ある石橋のどちらかを渡らねばならなかった。


 馬車は当然街の正面の橋に向かって行く。アーチ状の橋はうねった石の床が滑りやすく、馬車は速度を落として慎重に手綱を操ることになる。前を行く騎兵も気遣うように首を回しては馬車に目を配っていた。


 と、不意に跨っていた馬の背が不規則に揺れる。何事かと視線を戻すと、橋の中ほどの欄干から月灯りを受けて反射する小さな光が目に飛び込んできた。


(うむ?お……ととっ?)


 しかしその僅かな疑念も落ち着きを欠いた馬にかき消されることになる。それはこれから演じられる『惨劇』の幕が開けられたことを意味していた。


 どこまでも澄みきった悪意は全てを塗りつぶす濁った『黒』では無く、全てを覆う深い『闇』とよく似ている……


 そんな『闇』を纏った悪意の影が、川沿いに建つ宿の窓にうつろにたたずんで彼等を呑み込もうとしていた。


(橋の上では気をつけなさい……橋を架けると川の手前で足踏みしていた魔物が渡ってくると言うでしょう?)


 馬車がちょうど中程まで…もっとも川の深い所までやって来ると、抑えることに苦労するほど馬が落ち着きを失っていく。ましてや馬車には4頭の馬が繋がれている、それぞれの不安は伝播し増幅し、これ以上馬がパニックに落ち入れば到底手綱では御しきれなくなりそうだ……


(もしかしたら馬が何かに驚いたり…)


 突然目を剥き何かに怯えた馬車馬は暴れだし、手綱を引き千切らぬばかりに暴走を始めた!馬車を激しく揺さぶりながら馬は何かから逃げるように欄干に向かって行く。


(もしかしたら……たまたまぶつかった高欄が腐って弱くなっていたり……)


 勢いをつけた前の2頭は繋がれたまま無理に欄干を飛び越えようと激突し、後ろの2頭は勢いのままぶつかった欄干を吹き飛ばす……


(そのまま馬もろ共に川に転落するかもしれないわね……?)


 馬車はいきおい馬もろ共に川に転落する。中にいる2人が頭の中で状況を整理するよりも早く、馬車は水面に激突した。そしてクルミの木の厚い無垢板で組み上げられた重い馬車は見る間に早く沈んでゆく。


(歪んだ馬車のドアが開かなかったり…?ふふ……)


 堅牢に造られた馬車は壊れる事もなく、顔を出すのが精一杯の小さな窓からは勢いよく川の水が流れ込む。その中でバマーと従者は足掻き、ドアを開けようと懸命に力を込めるが、開く様子は無かった………


(だから気をつけなさいと言ったでしょう……?)


 奔流にもて遊ばれながら流され消えていく馬車を騎兵はなす術も無く見ているしか無かった。1人はすぐさま城に報告に走り、3人は流されていく馬車を追って河岸を走っていった。


「おやすみなさい……」


 後に残ったのは静寂とも思える川の音だけだった。

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