バウンド bound

hanetori.

第1話 なのらない女 1

 今に残る人の歴史の中でありのままの事実を伝える記録が、果たして存在するのだろうか?


 戦いの歴史の中で勝者は敗者を踏みにじり、その存在すらも人々の記憶から消し去ろうとする。


 権利を掴んだ者に不都合な事実は書き換えられ、侵略者は英雄に、清廉な者は愚者に、力の無い者は歴史のそのドキュメントに引っ掻きキズすら残すことが出来ない。


 そんな歴史の奔流の澱みの中で、人が人と生まれついた時から彼女達は存在した。人の時間の流れから取り残された者達……


 たとえ歴史に否定されて自分達の存在を歪められようとも、かけ離れた力を邪悪と拒絶されようとも、己の心を裏切ること無く自由を求めて思うがままに生きていた。


 そしてそれは、もう随分と昔……


 これは遥か五百年ほど前、まだよちよち歩きだった人の文明と文化がようやくしっかりと歩み始めた頃、どこかで人知れず、たしかに織り紡むがれた話しである。






 カチャッ、カチャリと…闇に沈んだ街で鳴いているのは巡回の責務に就く警備兵の足音だけである。闇の恐ろしさを忘れて人が夜にうごめくようになるのはまだずっと先の時代で、『魔』が這い出してくる宵を迎える時、人は扉を閉し、明日も変わらずに陽が昇る事を神に祈り、家族と共に眠りに就く。


 ペンズベリー王国の首都モーブレイ、これ程大きな街ならばしばらくは『ランタン持ち』が道を照らす灯りを手に街かどで立っているが、それも陽が落ちてから数刻の間だけ、彼等が引き上げた後には月あかりだけが色の無い世界を浮かび上がらせる。それこそ全てが青白く包まれて、この世が裏返ってしまったことを実感させた。


 街並みは城壁に囲まれた城を中心に拡がり、城に近い建物ほど堂々たる屋敷が建ち並ぶ。そんな特権階級の邸宅の中にバマー家別宅はあった。


「う…むう……」


 その屋敷の一室で、初老の男が深夜に目を覚ます。どうやら夢見が悪かったのか窓から差し込む月の明かりに額の汗が浮かび上がった。


 男はうつむいたまま静かに息を整えると少し考えて、天井から下がる金と白で紡がれた組み紐を手で探ると2回引いてため息を吐いた。するとしばらく置いて……


 コンコン……


 続きの間のドアをノックして現れたのはナイトガウンを羽織った目付きの鋭い中年の男である。


「どうかなさいましたか?ヴィンセント様……」


「うむ、今は何時頃だ?」


「はい、2時を回ったところでございます」


「そうか……」


 深夜2時、ヴィンセントと呼ばれた男はバマー家当主ヴィンセント・バマー公爵、モーブレイ王国の執政官を務める誉れ高い名家の重鎮である。


 ランタンの僅かな灯りに照らされたヴィンセントは顔をしかめて重い口を開いた。


「ふうむ…すまないがこれから屋敷に戻る、支度を頼む」


「?!、これからでございますか?もとより…明日には戻る予定でしたので支度は整えてございますが……早朝のご出立では遅うございますか?」


「うむ、悪いがすぐに出たい」


「……かしこまりました」


 従者と思われる男は主人の様子を見て不満気な様子を見せることも無くこうべを垂れるとドアを閉じた。建国以来の公爵家ともなれば自分の所領と屋敷は別に在る、ここはあくまで職務に勤しむ為の別宅であった。






 屋敷は急に騒がしくなり深夜に点々と明かりが灯る、その擁壁の月灯りも届かぬ深い影の中に黒い陽炎の様に人の影が揺らめいていた。凝視するほど意識からするりと抜けて落ちてしまいそうに淡く頼りなく、フードを被っていた様な影は気づくとやはり、闇に溶けてスッと失われた。






 

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