第2話

 むき出しの大地が緑の穂で覆われ、それが子供の背丈くらいになると、いよいよ小麦の収穫の季節となる。

 作業は村総出で行う。それが終わって同じ畑にトウモロコシの種をまくと農作業は一段落するが、そのころが一年で最も暑い季節である。ただでさえ雨が少ない地方だが毎日毎日が炎天下となり、気温もぐっと上がる。人々は屋内で麻将をしたりして、束の間の休息を味わう。空気が乾燥しているので、気温が高くても屋内に入ればひんやりとしているのだ。

 ところが今年は、農作業以外の思わぬ仕事が村人たちを待っていた。それは畑の下に、どんどんと横穴を作ることであった。

 誰から指示されたわけでもなく、村人たちは自発的にその作業に立ち上がった。もちろん、王健中もそれに参加していた。村の住民は子供や女も含め、老人以外はほとんど参加している。

 まずは井戸を掘る要領で縦穴を掘り、その途中から横へと穴を延ばす。そんな穴をいくつも掘り、最終的には網の目のようにそれぞれの横穴をつなぐという。さらには、隣の村でも同じように掘っている地下の横穴の網とつなげて、地下を通って隣村まで、そしてまたその隣村までも行かれるようにするということであった。

 その日の作業を終えて帰宅した健中は、部屋に作り付けの両親のベッドに腰を掛けて汗をぬぐった。妻の琳香も同じ作業から戻ったばかりだ。隣の部屋では、母がせっせとかまどにわらをくべている。

 健中は夕食が出来るまでの間の手持無沙汰に、ひまわりの種を何度も口に運んだ。前歯で割って中身を口の中に入れ、殻は足元に落とす。その動作を繰り返しているうちに、足元には殻がかなり堆積していった。

 琳香は疲れているにもかかわらず、母の炊事を手伝いに行った。やがて円卓を父と二人で囲み、揚げた落花生を箸でつまみながら白酒を飲む。それがひと段落したところで女たちも入って食事となる。

 この家は日が暮れても、完全に暗くなるまで節約のためにランプはつけない。

「穴掘りも大変だなあ」

 まだ女たちが来ないうちに、父が一つ落花生をつまんで話し掛けてきた。

「いつ来るんだ、やつらは。本当に来るのか」

「来ても来なくても、我々は断固屈せず闘うという精神を持って準備しておくのは、いいことじゃないですか」

 父は呑気だと健中は思う。しかしその根拠は、自分の中に春以来持ち続けてきった予感がすべてで、何も確証があるわけではなかった。何しろこの村にはラジオが普及していない。新聞とて来ない。つまり完全に外界から遮断され、わずかに口伝てに隣村からの情報が伝わるだけだった。

 そのわずかな情報によると、ついに中国は日本と全面戦争に入ったという。情報がなくても、日本が仕掛けた戦争であることは間違いない。東北三省を日本がもぎ取った時の、ことの発端もそうだった。詳しいいきさつは健中の知るところではないが、日本の悪の手がこの華北にものびつつあることは誰もが知っている情報だった。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 北支で事変が起こってから、営内ではしきりに噂が立った。

 どうやら、外地に派遣されるらしいというのである。行き先は上海らしいと、噂は次第に具体性を帯びてきた。しかし上層部からは、何のお達しもない。すべてが機密であり、また初年兵などは知る必要もないとされた。

 決定は突然言い渡される。しかも、ただそれに服従するだけだ。上官の命令は、すべて天皇陛下の御命令である。

 数日たって、その突然の言い渡しがあった。

「今や事変は『北支』のみの事変にあらず、『支那』全土の事変となっている。わが大日本帝国は、もはや『支那』軍の暴挙に対し堪忍袋の尾が切れたとの政府声明も出た。我々は、『支那』をして戦意を喪失せしむべく、『北支』派遣軍として敵地に渡ることになった。政府声明によれば、帝国の願いは『日満支』三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意はなく、もとより毫末も領土的意図を有するものではない。大東亜が手を携えて共に反映するその崇高な理念のもと、搾取にあえぐ東亜の民衆の解放にこそ我々の使命はある。その邪魔をする憎き国民党軍は叩き潰さねばならない」

 それが説明であった。何か予感はしていたが、いざ外地派遣となると胸がどっと重い豊吉であった。何しろ今は入営の時と違い、戦争をしている。しかもその戦地へ行くのである。

 征途を前に豊吉たちの連隊は、一日だけ帰省と帰宅が許された。

「もうすでに、大陸の方ではでぇぶ戦果が挙がっているようだな」

 父は別れの杯とともに、厳かに言った。

「まあ、詳しいことはわかりませんが……」

 苦笑する豊吉の脇で、母は袂で目頭を抑えていた。

「豊吉が、戦争さ行くなんて……。何の因果か……」

「ごじゃっぺ! めでてえ日を前に、泣ぐやつがあるが。自分の息子がお国のためお役に立てる、栄えある門出なんだぞ」

 父の怒号が飛ぶ。しかしそれが余計に母の涙を誘ってしまった。その母の隣りで、やはり涙をこらえている存在があった。里子である。

 思い切ったように、里子は顔を上げた。

「豊吉さん。どうかご無事で」

 また、豊吉の父がそれを睨む。

「何を言うが。まずはご奉公が先だ」

 ところが里子は、ますます暗い顔をしてうつむいた。

 里子が帰る時に豊吉は送ると言って、二人は暗くなった河原の土手の上を歩いた。

「豊吉さん、生きて……」

 里子は何か言いかけたが、あとは言葉にならなかった。しかし豊吉は、すぐにその言わんとするところは察していた。

「約束は出来ないけど」

 と、豊吉は言った。立ち止まって見詰め合う二人を月の無い夜の闇が包み、二人とも寒ささえ忘れていた。

「いいえ、きっと帰ってきて下さい」

「ああ。こんなこと、大きな声では言えないけど、でもぼくは死ねない。大丈夫。心配しないで。二人の心はいつも一つだよ」

 豊吉は優しく微笑む。

「君のために、帰ってくるよ」

 そして、里子の柔らかい体を力強く抱きしめた。「軍人は生きるためではなく、天皇陛下の御ために死ぬものだ」――そんな上官の言葉が脳裏の片隅によぎったが、この時ばかりは豊吉はそれを抑え込んだ。この里子のために、生きて帰らねばならない……里子と抱擁を交わしながら、豊吉はそのままそのまま時を忘れていた。


 出発の日が来た。水戸の駅のホームは朝から人でごったがえしていた。鳴り物入りの見送りである。豊吉の家では奉公頭の為造や女中のなかをはじめ、奉公人たちが総出で、旗を振ってプラットホームに押し寄せた。父親が仙台袴姿で、今日も難しい顔をしている。そして、汽車の窓から顔を出している豊吉に向かって、何度も黙ってうなずいていた。母親ときたら、ほとんど狂乱状態である。

「豊吉、向こうさ行ったら生水を飲むでねえぞ。班長さんの言うごどをよぐ聞いて、しっかり勤めてくれよ」

 そう言いながらも、顔は涙でぐしゃぐしゃである。そして。豊吉の手を取る。

「班長さんはどごだね」

 豊吉は戸惑った。母が班長に余計なことを言えば、あとで制裁を受けるのは自分だ。

「え。どごだね」

 仕方なく豊吉は、班長の座る窓を教えた。幸か不幸か、それはホーム側だった。母はさっそくその窓の下に行き、手を差し伸べて古橋班長の手を握る。

「班長様、お願いですだ。豊吉は大事な息子なんです。どうか死なぬように、しっかり守ってやって下せえ」

 豊吉はあとで班長から何と言われるか、気が気ではなかった。班長の声が聞こえる。

「母上殿、ご安心あれ。私は一人でも死なせとうはない」

 そのひとことは意外だった。今までは恐いだけだと思っていた班長も、実はいい人だったのかもしれないと豊吉は思った。

 ホーム中が、見送りの歓呼の声に包まれていた。人混みに押し合いへし合いされながら、豊吉の見送りの一団は万歳三唱を始めた。

 汽笛が鳴る。汽車はゆっくりと動き出す。母はついにその場に泣き崩れた。その時豊吉は、敬礼をしながらも見送りの人々の肩越しに、柱の影で涙を流していた一人の娘の姿を見た。

 里子だった。里子は遠慮してか、豊吉のそばには来なかった。もちろん会話も何も交わしていない。しかし、どんな歓呼の声で送ってくれた人よりも、なぜか里子の姿が強烈に心に刻まれた。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 穴掘りは、もう何日も同じ作業が続いていた。その意味をある日の夜、健中の家族は知ることになる。男たちの飲酒が終わり、女たちも入って夕食を始めた頃、門を激しく叩く音があった。健中が出てみると、従妹の李芳だった。今日は軍服姿だ。しかも、かなり汚れている。彼女は肩で息をしていた。

「どうしたね」

 健中の母が怪訝そうな顔で、自分の男勝りの姪を見た。

「伯父さん、伯母さん。ここが心配だったから、特別に許しをもらって来たんです」

「心配って?」

 健中の母は、ますます顔をしかめた。おまえは黙っとれというような仕種を、健中の父はその老いた妻にした。そして李芳に言った。

「もしかして今日、陝西の方からかね?」

「はい。物資輸送のトラックに途中まで乗せてもらいました。何しろこの村が心配だったんで。私にとっても故郷ですから」

「あんたのお父さんとお母さんのところへは?」

 また、健中の母が口をはさんだ。

「今行ってきました」

「ご飯食べたんかい?」

「はい」

「で、心配とは?」

 また、父が身を乗り出した。健中と琳香は黙って聞いている。

「これを見て下さい」

 李芳が開いたのは、一枚の紙だった。書かれている内容には、「中華蘇維埃ソビエト共和国中央政府、中国労農紅軍革命軍事委員会、抗日救国宣言」というタイトルがついていた。

「これ、おととしの日付ですね」

 初めて琳香が口を開いた。

「ええ、その頃からもう、東洋鬼トンヤンクイの野心は見え見えだったのよ。まあ、読んで」

 字が読めるのは健中だけだ。そこで健中が皆に音読した。

「全中国の労働者、農民、兵士、学生、自由業、商人、工業を営む家、東北の人民革命軍、東北の義勇軍、すべての軍隊の高級官吏たち、およびすべての国を熱愛する志士たちよ。東北四省に続いて今はまた華北で、中国の半分が滅亡の危機に瀕している。日本帝国主義の強盗たちは中国の全人民を亡国の民にし、中国全部を植民地にしようとしている。売国奴のボスの蔣介石が東北四省を売った後、今また華北全部ひいては中国全部を売り渡し、それによって中国の全人民に対する自らの残虐なファシスト統治を維持しようとしている。国が滅び種が絶滅するのを目前にして、中国人民は決して手をこまねいて死を待つことはできない。全国の陸・海・空軍と全国の人民を総動員し、神聖な反日的民族革命戦争を展開して、それによって日本の帝国主義を打倒し、中国有史以来最大の売国奴である蒋介石を消滅させてこそ、中国民族は最終的に徹底的な解放が得られる。中華ソビエト共和国中央政府と中国労農紅軍革命軍事委員会は全国の人民に、団結して日本に対抗して戦うよう絶えず呼びかけ、自らの紅軍の主力を派遣し、二万五千里の長征を通して、苦難をなめて北上し、日本軍に抵抗してきた。しかし、今の情勢はさらに緊迫している。今や我々全国人民は、力ある者は力を出し、金がある者は金を出し、銃を持つ者は銃を出し、知識ある者は知識を出し、団結、奮闘して、命がけの決意で中国人民の共通の敵に当たる時である」

 宣言はその後に十大綱領が記され、「中華ソビエト共和国中央政府主席 毛沢東、中国労農紅軍革命軍事委員会主席 朱徳」の署名で終わっていた。

「難しくて、よく分かんねえ」

 健中の母は苦笑した。だが、それ以外の人は皆真顔だった。

「しかし、何で二年前の宣言を今さら?」

 いぶかしげな健中の問いに答える李芳の顔も、真剣そのものだった。

「確かにここに書かれている情勢は二年前のものだけど、でも今はこれ以上に、もっと事態は差し迫っているんだよ。それを知らせたくて」

 李芳は息をついた。

「日本は東北に満州国とかいう偽の国を作り上げた。そして今、華北を第二の偽満にしようとしてる。今までも十分にその気配はあったけど、今月に入ってついに東洋鬼は露骨にその正体を現したんだよ。わが祖国に対し、日本は大掛かりな戦争を仕掛けてきたけど、これは紛れもない侵略でしょ」

「ふん、小日本シャオリーペンめ」

 父が吐き捨てるように言ったが、李芳はそれにはかまわなかった。

「北平で大規模な軍事衝突があって、わが中華ソビエト共和国政府ははただちに抗戦宣言を発して、武力抗戦することになったんです。全面戦争なの」

「この村が、危ない?」

 やっと母もまじめな顔になってきた。

「ええ、日本は北平から必ず南へ向かうはずです。そうすれば、この村は通り道ですから」

「で、俺たちにどうしろと? 逃げろってか?」

 健中が身を乗り出した。それを李芳は手で制する。

「いいえ、この村の人たちにも起ち上がってほしいの」

「起ち上がるって……。そのため地下に穴を掘ってるんだよ、毎日ね」

「それだけではだめ。戦うのよ。戦うには組織が必要で、私たち紅軍だけではまだまだ不十分。そこで紅軍としては各地の人々を促して、民衆で作る抗日義勇軍を結成してもらっているってわけなの」

「そんな……」

 一家は顔を見あわせていた。最初に口を開いたのは健中だった。

「その気持ちは充分にある。でも、今は……」

「今は?」

 しばらく間があった。意を決したように健中は言った。

「琳香のお腹には、子供がいるんだ」

「え?」

 少しだけ李芳の顔も輝いた。

「ああ、それは、それは。でも、今は……」

「分かってる。その気持ちも十分にある。でも今は、穴を掘るだけで手いっぱいだよ。琳香も本当は休ませなければならないのに、穴掘りを手伝ってるんだ」

「分かった。我々は民衆に対して、強制はしないことになってるから。でも、考えておいて」

 それだけ言って、李芳は帰って行った。

 またもや一家は、顔を見あわせていた。

 日本軍がこの村に来る――そのことが現実味を帯びて具体化しつつあることをそろって感じた夜だった。

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