鬼子兵(クイツピン)

John B. Rabitan

第1話 

 竹中豊吉のもとに、ついに召集令状が来た。それを持ってきた役場の職員を前に、豊吉は全身が硬直し、胸がキューっと苦しくなった一瞬の後に、力強くこぶしを握り締めていた。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 あちこちから連続的に爆竹の音が響いてくる。よく晴れた空には色とりどりの凧が舞う。

 王健中の家は村の南の外れで、門の前から一面に畑が広がる。今は麦はわずかに芽を吹いたばかりで、遠くに村の祠である「廟」がある以外は、視界をさえぎるものは何もない。

 門の前にたたずんで、健中はその地平線の向こうに何か無気味なものを見た。もちろん肉眼では何も見えない。しかし、何かどす黒いものがこちらに迫っているという、正月の晴れがましさにはふさわしくない圧迫感を感じていた。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 全国民のうち男子二十一歳に達したもの全員が受けねばならぬ徴兵検査で、豊吉は甲種合格だった。それで本来なら現役兵として即入営ということになるのだが、豊吉はくじ逃れで欠員補充要員として待機することになった。待機とは言っても、いつ欠員が出て呼び出されるかわからない状況である。

 その欠員補充を待つうちに、昭和十二年の新春を迎えた。親戚の年始回りを終えた豊吉は白い息を吐きながら、水戸郊外の那珂川の土手の上の道を、許婚いいなずけ里子さとこと並んで歩いていた。川の反対側には、切り株だけが整列している水も枯れた水田が、遥か遠くまで一面に広がっている。

「何か、死刑執行を待つ死刑囚のような感覚だよ」

 自分の心境を、豊吉はそのように表現した。

「私は、あなたが補欠になって喜んでたのに」

「ああ。でも、露骨に喜んだりしたら、それこそ不忠者にされてしまうからな。お国のためにご奉公する機会を奪われたのだから、恥としなければならないのだろうな」

「でも、死刑囚っていうのは」

「軍隊は地獄だっていうよ。生きて帰ることができたら、まだもうけものだ」

「でも、今は戦争なんてしてないでしょう」

「いや、分からないよ。『満州』では小競り合いが続いているし」

「でも、どう考えても、理不尽だわ」

 里子がうつむいて言った。

「毎日、普通に何事もなく生活しているのに、その一人一人の幸せな生活と自由を、たった一枚の令状が無理やり壊してしまうなんて。令状が来たら、あなたは連れて行かれてしまうんでしょう……」

「逆らうことはできないよな。それが社会というもので、そういう世の中の仕組みになってるんだよ。誰も逃げることはできない」

 二人がそんな会話を交わして帰宅したその日に、召集令状は届いた。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 門の中の方から、どう機嫌を損ねたのか子供が激しく泣く声が、爆竹に混ざって聞こえてきた。

「まあ、この子は! 正月からピーピー泣いて。鬼子クイツに食われちまうぞ」

 暖房のきいた部屋からは、老女の声も聞こえる。健中の暗い不安とは裏腹に、まだまだ平和な光景だった。

 この日、中華民国二十六年――一九三七年の二月十一日は農暦(旧暦)の一月一日で、中国では「春節」と称して盛大に祝う。

 北平ペイピン(現・北京)の南西約百五十キロにある河北省の省都保定郊外の農村は、いつもと変わらない春節を迎えていた。王健中の家とて例外ではない。朝から親族が年始に訪れ、「拝年パイニェン」と呼ぶ儀式をする。要は家長の前で「拝年」と言って一度ひれ伏すだけだ。子供がそれをやると、圧歳銭(お年玉)がもらえる。しかし王健中にとってこの年の春節は、いつもとは違う意味を持っていた。

 白く凍る息を吐きながら、白酒パイチィウの酔いを覚ますために表に出ていた健中は、赤い対聯が両脇に貼られた門の中に入った。庭では十歳になる姉の子の延冬が一人で爆竹に火をつけては地面に叩き付けている。健中の姿を見るとその子供は、笑いながら爆竹を差し出す。

「叔父ちゃんもやって!」

 笑いながら健中は爆竹を受け取ると、

冬々トントン、ほれ!」

 と、叫んで空中にそれを放り投げた。庭の上で、激しい音がはじけた。叔父と呼ばれても、健中はまだ二十歳そこそこの若者である。庭から屋内をのぞくと、娘がひとり来客に餃子や年糕ニェンカオ(お餅)を振る舞いつつ立ち働いているのが見えた。その細い腰つきを見ながら、健中は目を細めた。その娘、張琳香こそが、あと数日で自分の花嫁になる。

 屋内では酒と食事が終わって、客と父母が麻雀を始めていた。

「外は寒いでしょう」

 琳香の言葉にやっと心の中のもやもやが消えた気がした健中は、微笑みを返した。

「少し休んだらどう? おふくろたちは、麻雀を始めたらなかなか終わらないよ。一日中やってるから」

 外から健中について入って来た冬々は、また爆竹、爆竹とせがみながら健中のズボンを引く。

「冬々! だめだよお」

 ドアが開いている隣の部屋から、麻雀の牌を混ぜながら声を張り上げたのは冬々の祖母、すなわち健中の母である。

「パンパン、パンパン鳴らしたら、また小忠が泣くだろ」

「だって、爆竹!」

「そんなことより、おじいちゃんに拝年したんか。せんだったら、圧歳銭やらんぞ」

 慌てて隣の部屋に駆け込んで、冬々は床に膝をついて円卓を囲む祖父の足元で両手をついた。

拝年パイニェン!」

 祖父も煙草をくわえたまま笑いながら、視線は麻雀牌から離さずに冬々の手に中国銀行券で十銭を握らせた。

 爆竹は周りの村中の家の庭で響いている。それ以外は、静かな正月だった。この地方の家はすべて大きな石造りである。長方形の平屋建ての家の両壁が延びて塀となり、庭を形作って隣家の背後に連なる。つまり庭の向こうを仕切っているのは隣家の建物なのだ。そして母屋から見て左側の壁に門がある。重々しい鉄の扉付きの門だ。庭の片隅では鶏とアヒルが檻の中で、そして二頭の豚が囲いの中でそれぞれの正月を過ごしていた。

 琳香はまだ働くのをやめない。しきりに客が食べ散らかした碗を片づけている。健中はふと自分の新婚生活を思い描いた。それももうすぐだ。それと同時に戸の隙間から寒気が入り込み、健中は着たままの思わず外套の襟を合わせた。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 豊吉の家は代々この地方の地主で、家の造りもちょっとしたお屋敷だった。かなりの奉公人がいるが、母は奥の座敷で一人で待っていた。父はまだ用足しから戻っていないという。

 召集令状を見て、母はため息をついた。そのようなことができるのも今だけで、父が帰ってきたら叱られるに決まっている。

「おめえが、軍隊にねえ」

「母さん。泣かないで。別に戦場に行くわけじゃないし、ただ入営するだけじゃないか」

「でも、もし戦争が起こったら、絶対に駆り出されっぺ。おめえ、おっかなくねえのげえ?」

「ぼくが恐がってたら、母さんはどうなるんだよ」

「おめえは優しい子だよ。こんな虫一匹殺せねえ優しい子が、どうして軍隊に……」

 母はまた泣いた。しかし、その後に帰宅した父の反応は違った。報告を聞いてただ「そうげ」と言ったきり、父は黙った。そしてひとこと、「お国のために励め」と付け加えた。

「おめえ中学出てるから、すぐに幹部候補生になれっぺ。そのまま修業隊さ入れば、軍曹にでもなれるぞ」

 お父さん、そんなこと……と言いかけて、豊吉は口をつぐんだ。自分は職業軍人にはなりたくはないと言いたかったが、家長である父親の前で言えるはずがない。豊吉は適当に返事をしてそのまま父の部屋を辞して里子の家へと向かい、彼女を暗くなった庭へと呼び出した。

「ついに来たよ」

 その一言で、里子はすべてが分かった。

「ご武運を、お祈りします」

 口ではそう言ってはいたものの、その目に光るものを豊吉は見た。

 入営は栃木県の宇都宮市にある旅団に、半月後にとのことだった。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 寒気もほんの少しやわらいだ頃、ついに建中の新しい人生の門出の日が訪れた。

 まず健中が琳香の家まで馬車で花嫁を向かえに行き、赤い綿入れに身を包んだ花嫁を抱きかかえて馬車に乗せると、麦畑の中のでこぼこの道を自分の家へと向かう。家の庭ではすでに親族が集まって待ち受けているはずだ。到着するとまた、激しいほどの爆竹の音で迎えられる。照れながら花嫁とともに健中はまずははやし立てる客人をかき分けるように屋内へと入った。そのまま、花嫁だけ新婚の新居となる一室に入る。そこには花嫁の女友達がいて、椅子に腰掛けてしばらく雑談をする。その間、花婿は庭で来客の相手だ。

 やがて新郎新婦の両親が庭に出て座り、親族代表の老人が声を張り上げる。

パイ高堂カオタン!」

 この時ばかりは照れよりも緊張した顔つきでで、健中は琳香とともに自分の両親の前に立った。

一拝イーパイ天地ティェンティー!」

 老人の声がよく晴れた空に長々と伸びて響くと、新郎新婦はその空を仰いでそのまま地へとひざまずき、手をついた。

二拝アルパイ高堂カオタン!」

 今度は健中の両親に向かって、同じように地面に手をついて拝礼をする。

夫妻フーチー対拝トゥイパイ!」

 次は新郎新婦が互いに立ったまま会釈を交わす。

四入洞房スールートンファン!」

 割れんばかりの拍手と野次が飛ぶ。これで儀式は終わりである。花嫁はまた寝室へと戻っていく。ここから庭にテーブルが並べられて、食事となる。数ある円卓には普段はめったに食べない豚やニワトリの料理が並んでいる。鯉を丸ごと使った料理もある。庭に煙草の煙が立ちのぼり、ざわめきの中、祝宴が始まる。あちこちで乾杯の声とともにグラスが鳴らされ、白酒パイチィウを一気に飲み干した証として互いにグラスの底を見せ合う。新郎はこの乾杯攻めにいやというほど遭う。グラスは小さいが、五十度はある白酒だ。その一気飲みの乾杯があちらこちらで延々と繰り返され、料理を進める甲高い声が響く中、新郎はあっちのテーブル、こっちのテーブルと引っ張りだこだった。庭中に白酒のきついにおいが充満する。

 いささか目が回りはじめた頃、健中はテーブルについているある笑顔に気がついた。ここにいるのはすべて新郎側の親戚か友人である。花嫁の友人は皆花嫁とともに寝室の中だ。従って、自然と庭は男ばかりで、女性がいるとすれば親戚だけである。その笑顔の娘も、確かに健中の従妹であった。

「よお、兄貴。乾杯」

 昔から男勝りで、幼い頃から一緒に遊んでいた従妹が、グラスを差し出してきた。

「来てたのか。どこか遠くにいると聞いたが」

 健中はグラスを干した後、ちょうど空いていた隣の席に腰を下ろした。テーブルの上は先程までそこに座っていて、今は他のテーブルをうろうろ徘徊しているであろう客が食べ残した鶏の骨が散乱している。

「兄貴のためにわざわざ来たんじゃないか」

 顔は笑っているが、従妹の李芳は目の底までは笑っていなかった。

「今、どこで何をしてるんだ?」

「あれ? 伯父さんから聞いていない?」

 健中は首を横に振る。

「陝西省と甘粛省の境目さ。これでも一応、今は兵士なんだよ」

「兵士って?」

 そう言われても軍服も着ておらず、どう見ても普通の村娘のいでたちだ。

「私はね、中国工農紅軍兵士なんだよ。国民党なんかの兵士と一緒にしないで」

「どう違うんだ?」

「常に民衆と共にあるのが紅軍さ。紅軍は今、国民党と戦ってる。でもね、もっと恐るべき敵が、きっともうすぐ現れる」

 ふと数日前の春節の時に感じたどす黒い予感が、健中の中でよみがえった。

「恐るべき敵?」

「今、日本はとうとう東北三省を手に入れた。それも、汚い手を使ってね。わが祖国の一部をもぎ取られたも同然じゃないか。しかも、それを売った売国奴が蔣介石だ。しかし、日本軍は、それで満足しない。きっと来る。その鬼の手を伸ばしてくる。だから我々は民衆とともに戦うんだよ。今、中国に危機が迫っている。我々の祖国が危ないんだよ」

 乾杯もせずに、李芳は一人でさっさとグラスをもういっぱい干した。

「あ、おめでたい席にこんな話はないか。でも兄貴、忘れないでくれよ」

 宴が終わっても人々はいつまでも寝室にはびこり、なかなか新郎新婦を二人きりにしてくれない。それもやっと退散したのは、夜半も過ぎてからだった。

 ようやく新しい布団の中で、琳香の細い体を抱き寄せる。しかし、酔いが覚めるに連れて、昼間李芳が言っていた言葉が鮮烈に健中の心に浮かび上がって来てしまう。日本軍の鬼の手――それが春節の時の感覚と妙に重なってしまう。

「何を考えているの? 老公ラオコン

 琳香が健中をそう呼ぶのは、これが初めてだった、だからその言葉の中に少しはにかみがあった。それまで真顔だった健中は、わざと笑顔を見せた。

「いや、別に。何でもないよ」

 そうは言いながらも、やはり気になる。しかしここはあくまでのどかな農村だ。そのような血なまぐさい話とはどう考えても無縁のような気がして、その度に健中は安心した。いや、無理に安心しようとしていたのかもしれない健中だった。


      ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 半月は慌ただしく、あっという間に過ぎた。親戚回り、中学校の恩師への挨拶と、ゆっくりと自分のこれからのことを考える余裕もなかった。とにかく、半月先以降のことは、自分がどうなるのかなど皆目見当もつかない。ただ、軍隊は恐いところだというのは常識として、誰もが知っていたことだった。

 いよいよ入隊の日が来た。水戸駅に集合した入隊者は、それぞれの家族に送られて汽車に乗りこんだ。豊吉の家からも、両親のほかに奉公人が数名見送りに出ていた。

 汽車は小山で乗り換え、東北本線を北上して宇都宮へと向かう。宇都宮に着いて練兵場に向かうと、そこには「祝入営」と書かれた旗が立てられ、十時の集合ラッパを合図に豊吉と似たような若者が次々に集まって来ていた。豊吉の所属は第十四師団歩兵第二十七旅団の歩兵第二連隊内務班であった。この連隊は、すべて水戸からの者だけで占められていた。直ちに班編制が行われ、一人一人の名前が呼ばれて十三人ずつの班に分けられていく。その方法は、とても紳士的なものとは言えなかった。怒号に次ぐ怒号で追い立てられ、整列させられた。中学校の教師でさえ、こんなには恐くなかったと、豊吉は感じていた。続いて班長の紹介と訓示となった。

 古橋と名乗った班長は、居丈高に話しはじめた。

「諸君はすでに軍人となった。これまでの娑婆での生活とは一線を画するよう。班長の命はすべて、恐れ多くも」

 足を音を立ててそろえ、

「天皇陛下のご命令である。いいかッ! 分かったかッ!」

「はい!」

 さっそく次の日から、初年兵教育が始まった。軍人勅諭の暗誦をはじめとして、射撃、歩哨、作戦要務、陣中要務など軍人としての基礎を怒号と体罰とともに徹底的に叩き込まれた。

 そこでは、一切の個性というものは認められなかった。一切のプライバシーも存在しない。一日二十四時間のうち、自分の時間というのはみじんもなかった。強いて言えば睡眠中だけだ。己(自我)というものを持つことが出来ないところであった。だから常に緊張を強いられ、毎日がクタクタとなった。

 ほんの少し気をゆるめると、どんな制裁が加えられるか分からない。古参兵たちは初年兵のあらを探したり揚げ足を取ったりで何だかんだと口実をつけ、その度に班全員に連帯責任として制裁を加えた。膝の間に竹刀を挟んでの長時間の正座など楽な方だった。

 時には皆の前で班の専任上等兵から拳で、靴で、あるいはこん棒で顔の形が変わるほど殴られる者もいた。気を失いかけると水をかぶせて覚醒させ、そしてまた殴る。その姿を見て、豊吉は血の気が引いた。お坊ちゃん育ちの豊吉にとって、身が引き裂かれるような辛さであった。とんでもない所に来てしまったと実感する。しかし、逃げることもできず、歯を食いしばってでも耐えなければならないのが豊吉たち初年兵の宿命であった。

 時おり、故郷の夢を見る。夢ばかりでなく、起きている時の団体訓練の教練の時などにも、ふと頭の中に故郷の景色が浮かぶ。しかし、それを口に出しては言えない。ここにいるのはみんな同郷の人たちばかりだから自然と故郷の話しもしたくなるが、そのような話をして古参兵の耳に入ろうものなら、「娑婆のことは忘れろ!」という怒号が飛ぶ。

 軍人勅諭は学校で暗誦させられた教育勅語よりもはるかに長く、難しいものだった。リズミカルな韻文的要素を持つ教育勅語に対して、軍人勅諭は完全な散文だ。冒頭の「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある」とか、「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」などの下りが心に響く。まるで今の境遇を暗示しているかのようだ。

 同じ班に、一人だけどうもがらが悪くて威張りたがる男がいた。同じ初年兵だが、ある日入浴のときにその背中の彫り物を見て、大変なやつと一緒になってしまったと豊吉は思った。水戸でも有名なヤクザの親分のせがれでだったのだ。その男は入営以来、さっそくその凄みを利かせて、同じ班のものを縮み上がらせている。

 普段なら接することもないこのような者と同じ班になろうとは、やはりよくいわれていたように、「軍隊は地獄」の様相だった。しかし豊吉がその言葉の真の意味を知るのは、間もなくであった。

 本名は知らないが自分では助五郎と名乗るその男は、班の仲間の兵員に睨みをきかせていた頃はよかったが、ついに班長の軍曹や、その他の下士官たちにもやたらと逆らうようになった。

 ある日、点呼で全員がそろっているときに助五郎は班長の古橋軍曹にも言葉を返し、軍曹の怒髪天を突いて助五郎の胸座をつかんで前に引き出した。

「て、てめえ。何しやがんでえ。俺様を誰だと思ってるんだ」

「分かっておる。助五郎とか名乗ってるそうだな」

「常陸の大親分の御曹司とくりゃ、ちょっとは知られた名よ。それにこんな仕打ちして、後が恐いぞってなもんだ」

「貴様ッ! 誰に向かって口きいとるんじゃ」

「つべこべうるせえな。陸軍のお偉いさんか何か知んねえが、いい加減にしておけよ。娑婆に出たらうんと礼はさせてもらうぞ、おい!」

 その次の瞬間、鞭が鳴った。

「いてえ、何しやがんでえ。すぐにでもうちの若いもん、よこそうか」

 整列して立ちながら聞いている豊吉たちの方が恐くなった。確かに常陸の大親分の御曹司を怒らせたら、ただでは済むまい。

「言いたいことはそれだけか」

「ああ。だけどよお、」

 助五郎は、その次の瞬間にその続きの言葉を発することはできなかった。助五郎の周りを下士官たちが取り囲み、班長の軍曹は居合いよろしく軍刀を抜くと、さっと助五郎の耳を切り落としたのである。一瞬の出来事に、見ている者たちは唖然とした。ヤクザの権威も、軍隊では通用しないと実感させられた思いだった。軍隊はヤクザよりも恐い。その後、助五郎は懲罰用の蔵である営倉に入れられた。

 恐いのは昼間の演習ばかりではなかった。夜の点呼から消灯までの間に、古参兵たちによる新兵いじめが連夜行われる。班の初年兵七、八人が一列に並べられ、古参兵の「セミだ!」の一声で隣りに立っている仲間に飛びついて「ミーン、ミーン」と声を張り上げなければならない。飛びつかれた方もよろけると、「木が動くかッ!」と鉄拳が飛んでくる。そして「セミ」には「声が小さい!」という怒号。それを延々何十分も、やめるのを許しはしない。また、犬の散歩として、二組で散歩する方とさせられる「犬」を演じさせられたりもした。その滑稽さに、古参兵たちは一斉に笑う。ついつられて初年兵も一緒に笑おうものなら、たちまち不動の姿勢を取らせられて全員が往復の平手打ちであった。

 そこでは豊吉たちは、人間として扱われていなかった。どんどん魂が萎縮していく。扱われていないだけに、自らも人間性を喪失していくような気がして恐かった。古参兵の制裁がひどかった翌日などは、恐いはずの下士官たちが仏に見えたりもした。そんなこんなで日がたち、東北の入り口のこの街にも夏が訪れた。

 七月七日、七夕の行事が町の方では盛んに行われている気配がする。しかし豊吉たちは、そんなロマンチシズムに浸れる余裕はなかった。誰かが「『支那』軍と帝国陸軍が、北平郊外で衝突した」と言い出したのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る