第20話 部活と幼い日の思い出Ⅱ
「ごめん、待った?」
そう声を掛けられてぼくは振り向く。
夏の日の駅前、彼女は立っていた。
半袖の白シャツに青みがかったロングスカート。それらが降り注ぐ太陽の光で鮮やかに照らし出されている。大人っぽい服装が言いようも無く似合っていた。そう言えば春に待合わせした時も似たような色合いだったような。白と青系統が好みなのかもしれない。
「いや、まったく。今来たところだよ」
決まり文句のようにそう言ったものの、実際は言わずもがな。
自宅から駅までは歩いてもそれほど苦が無いのだが、いかんせんソワソワしてしまって、集合時間の20分前には到着していたのだ。ただ、待っている身というのが、思っていたより退屈では無かった事は新たな発見だった。『待ち人来る』結果が決まっているおみくじほど、信用できるモノは無い。
「それじゃ、行こ」
普段とは僅かに上ずったような小宮山さんの提案に頷いて返す。
ひらりと身を翻してスタスタと歩いていく彼女の後ろ姿を目で追いかけて、気が付く。普段は後ろに流している長い黒髪を、今は紺色の控え目なシュシュを使って一つにまとめていたのだ。久しぶりに目にした小宮山さんのポニーテール姿に魅せられて、ぼくは動けなくなってしまった。遠ざかる後ろ姿がスローモーションだった。
それでも動かないわけにはいかなかった。
早く付いていかないと、また何か言われてしまうかもしれない。
……というのは建前であり、本心はもっと別のように思う。
離れるわけにはいかない。なぜかそんな気がした。
「ちょっと待ってよ!」そう声を掛け、ぼくは小宮山さんの横まで駆け寄った。
チラリと上を見上げると、ほんの先ほどまでカンカン照りで晴れ続き、青と白のコントラストに染められていたはずの空には、ごちゃまぜの絵の具のような灰色が溶けだし始めていた。太陽もその灰色に覆われて、次第に輝きを失っているようだった。だけど、特に気に留めるようなことでは無い気がした。
駅から続く寂れた商店街を並んで歩く。
夏休みとはいえ、平日の昼間。地域の人は居なくとも、学生くらいはで歩いているものかと予想していたけれど、全くだ。まさにがらんどう。あまりに人気が無いので、何かで読んだゴーストタウンを連想してしまう。
とはいえ、却って好都合である。小宮山さんと二人きりの所を見られ、あらぬ噂を立てられると今後の学校生活に響きかねない。ぼくが小宮山さんにあこがれを持っていることは隠す必要のない事実だけど、周りにとやかく言われて変に意識するのは何だか違うのだ。もどかしいけれど、今のままの関係が一番平穏なのでは無いかと思う。
それは単に、関係を打ち破る一手を打つほどの勇気がぼくには無いということの裏返しなのだけども。
「それで小宮山さん。今日は何をするの?」
「さっきも言ったでしょ。料理よ料理。元はと言えば汐崎くんの案じゃない」
小宮山さんは横にいるぼくには目もくれずスタスタ進む。
「ええと、前のプールの授業の時に訊かれたヤツ?お気に召さなかったんじゃないの?」
「私の様子がそう見えたのなら、あまりにありきたりの回答過ぎて呆れていただけです」
さいですか、と心の中でぼやいていると、小宮山さんは変わらず続けた。
「まぁ、大本を考えれば料理関係の部活だったわけだし、妥当と言えば妥当でしょ?」
「そうだね。でも何を作るかは決めているの?」
「案は考えてあるよ。ボロネーゼかカルボナーラ、それかボンゴレ・ビアンコ」
「パスタなのは確定しているんだ……」
「だってお昼ご飯だよ?重いモノは厳しいでしょ。汐崎くんに難しい料理をさせるのも厳しいし」
「色々ご考慮どうも。その三つも中々難しい気がするけれど」
「そこは大丈夫。汐崎くんには麺を茹でて貰うだけだから」
「じゃあ難しいとかどうとかの話は関係ないじゃないか!」
「まぁまぁ、どれも私の得意料理だからさ。安心してよ」
スクランブル交差点に差し掛かって、やっと小宮山さんは止まった。
焦っているというか、そわそわしているように見えるのは気のせいだろうか。
「この道って前も通ったけど、小宮山さんの家って和菓子屋さんの近くなの?」
「近くではないかな。通り道にあるけど」
「それだと、学校からも結構遠いんじゃない?」
「確かに遠いね。学校は駅の向こう側だし」
歩行者用の信号機が緑に変わって、ぼくらはいそいそと横断歩道を渡った。
そうして以前和菓子屋へ赴いた時に見た街並みの中、歩みを進めた。
同じ市内とは言え、ぼくはこの辺りにあまり詳しくない。
ぼくらが住む市は鉄道路線で二分される。
ぼくの家は駅の反対側、市内でもまだ栄えている側にある。小宮山さんには何だか申し訳ないけれど、市の機能を担う施設は栄えている側にあるので、わざわざ駅のこちら側に来る必要がほとんど無かったのだ。主要な観光地も高速道路も栄えている側にあるというのだから、もう踏んだり蹴ったりだ。
母から聞いた話だと、昔この辺りを市にするために周辺の町や村と合併した結果、市の土地だけが異様に広くなってしまったらしい。今では市を名乗れる程の人口がいるかどうかも怪しいということはさておいて、市の広さ故にこちら側はぼくの小学校の学区外だった。
小学生の時は学区外で遊んではいけませんと言われていたこともあり、駅のこちら側に遊びに来たことは無い。いや、数回あったか。ぼくは悪ガキだったのだろう。
ともあれ、駅のこちら側に馴染みが無い事には変わりない。中学生になっても半年に一回、母が知り合いの店を訪ねる時について行くくらいのものだった。直近の一回は春の桜もちを買いに来たときである。
ふと、今になって気が付く。そもそもこちら側に住んでいる生徒が少ないのではないか。こちら側にも小学校があるけれど、一学年2クラスだったと聞いたことがある。そりゃあ出歩いている子供を見ないわけだ。ぼくは歩きながら妙に納得してしまった。
些細な会話をしながら小宮山さんについていくと、しばらくもせずにあの和菓子屋さんを見つけた。……残念なことに定休日だったのだけど。
帰りに寄って行こうと決めこんでいたぼくの思惑は簡単に打ち砕かれてしまった。
和菓子屋さんを通り過ぎても、小宮山さんは中々歩みを止めなかった。
いつもの癖で白い長袖のワイシャツの袖をまくって着ていたぼくは、納まる気配のない暑さにウンザリしていた。自分の好みではあるけれど、たまには信念を曲げることも重要だなぁ、と改めて思う。
対しての小宮山さんは、とても涼しそうな顔を保っていた。汗一つ浮かべず、澄ましている。
そんな横顔をチラチラとみていると、私の顔に何かついている?と冷めた目を向けられてしまい、ぼくはかぶりを振るしかなかった。
「ねぇ、ちょっと」
小宮山さん突然立ち止った。そして地面を指さす。
「あれって……」
彼女が指さす先には、ひび割れたアスファルト。その上には小さな染みがポツポツポツ……。
「多分……雨だね」そう言ってぼくは空を見上げる。
ああ、灰色だぁ。駅に居たときに気が付いてはいたけれど、これほど早く変化するとは思わなかった。ぼくは夏のにわか雨、ゲリラ豪雨の事を完全に忘れていた。
「なに呑気な事言っているのよ!私傘なんてもってないんだけど!」
小宮山さんが急に駆け出す。一歩遅れてぼくは追いかける。
「ぼくだって持っていないよ!てか小宮山さんの家までこんなに距離があるとは思わなかったよ。自転車で来ればもっと早く付いたろうに!」と言うと、
「ああ、それもそうね」とポンと手を打つ。
「こんなときにふざけないでよ!」
「他にどうしろって言うのよ!ほら急いで」
「だから雨はキライなんだ!」
わーわーぎゃあぎゃあ言っているうちにも、空はゴロゴロ唸り声をあげてますます黒々としてくる。そして数分とせずに、大粒の水滴が地面に打ち付けられ始めた。上からも下からも激しい音が耳に飛び込んでくる。久々の雨らしい雨だった。
「とりあえずあそこに!」
小宮山さんの声に導かれるように、雨宿り出来る場所に駆け込んだ。
ただ、そこはかなり予想外の場所だった。
そこはとある公園の、とある遊具の下だった。
半球状にかたどられ、下に入るための穴が開いており、モノによっては滑り台がついていることもある遊具だ。とは言っても今までに見たことは数度しかないし、正式な名前も未だに知らないので、メジャーな遊具では無いのかもしれない。
雨宿りする場所として、雨が入って来ないことには文句が無い。周囲の地面と比べて、遊具の下の方がやや高いらしくて、降り落ちた水が流れ入って来ないことも高評価だ。
でも天井が低い。一から十まで天井が低い。足を延ばして立とうとすると、頭が天井にめり込んでしまうだろうし、かと言って、腰を下ろすにも下は土なので服が汚れてしまうのは必至だ。ぼくはしゃがみ、小宮山さんはロングスカートの裾を持ち上げて中腰になっていた。
「とりあえず何とかなったね」
四方八方から雨が打ち付ける音が聞こえる中でぼくは言った。
小宮山さんはコクリと頷いて何かを言ったようだったけれど、雨音のせいで聴き取れなかった。
な・に?と声を張り上げて訊く。
小宮山さんも声を大きくして言った。
「敷・く・も・の・な・い?」
なるほど中腰の姿勢で雨が止むまで待つのは厳しいとみた。
だけど突然敷くものと言われたところで、ぼくにピクニックに行くような予定も趣向も無いのだから無理難題ではないかと思う。とりあえず探すアピールだけはしようと肩から掛けたサコッシュを漁ると、折りたたまれたビニール袋が出て来たので、一応渡してみることにした。
……どうやら粗末なビニールは小宮山さんのお気に召したらしい。開いて下に置くようにジェスチャーをされたので指示の通り行うと、小宮山さんは静かにビニール袋の上に腰を下ろした。ぼくと小宮山さんは向かい合うような形になっていた。
こんな、まともに会話の出来ない狭い空間、少し動けば足先が触れてしまいそうなこの空間でぼくは、以前にもこんなことがあったなぁ、と不意に思い出した。記憶の片隅をしっかりと占有している思い出。されど意識して、と言うより何かきっかけが無ければ思い出すこともないような、ありふれた思い出だったのだけど。
あれは確か小学生の時だ。時期も今くらいの夏だったか。
当時の友人たちとの間で、駅のこちら側を探検してみようという話が持ち上がった事があった。小学生の男子は大体が悪ガキで、大体が好奇心旺盛なのだ。そこから導き出されるのは冒険心、それただ一つに定まると言っても過言ではない。
学区外への児童だけでの往来はいけないと先生達にきつく言われていたこともあって、ぼくらの冒険心には反抗的な炎が灯ったのだった。
ゴチャゴチャしたデザインのリュックサックに、ごつい水筒と親から借りた(勝手に持ち出した)地図、それとかなりのお菓子を詰め込んだ。右手には虫網、左手には虫かごを掴み、ぼくら数人は旅に出た。
駅前の一番の大通り、今日ぼくと小宮山さんが通って来た道を進み、とりあえず一休みできる場所として公園に立ち寄ったことを覚えている。今のぼくらがこうして雨宿りしているこの妙ちくりんな遊具が当時もあったので、おそらくは同じ公園だろう。
そして、その時も強烈なにわか雨がぼくらを襲ったのだった。
公園内ので虫を取ることに夢中になっていたぼくらは、急な雨粒の襲来にてんでバラバラな場所で雨宿りをすることになってしまった。言うまでもなく、ぼくが雨宿りの場所に選んだのは、この半球状の遊具であり、当時はまだ天井がいくらか高かった。
激しい雨音が周囲全方位から聞こえるのはもちろん、頭上からも聞こえてきて、心細さと濡れた服で身を震わせていた時だった。
びしょ濡れの知らない子がぼくのいる半球状の遊具の中に駆け込んできたのだ――。
「ねぇ汐崎くん」
小宮山さんに声を掛けられて、ぼくは浸っていた思い出から顔を上げた。
いつの間にか雨脚は若干弱まっている。小宮山さんの声が普通に聞き取れた。
チラリと正面を見るも、小宮山さんは遊具の入り口の方に首を傾けて一切こちらに目を向けない。彼女は凛としていた。
「私達、以前に会ったことがあるという話をしたよね」
「うん覚えているよ。小宮山さんの言う初遭遇時のことは覚えていないけどね」
「じゃあそのことは置いておいて、この場所に見覚えはない?」
「見覚え?確かにこの公園に一度だけ来たことはちゃんと覚えているよ。なにせ一世一代の冒険をしていた時のことだからね。いやぁ禁止されている事を破るってのはスリルがあって楽しいモノだったよ」
流し目が一瞬だけぼくの方を捉えるも、小宮山さんは調子を変えずに続けた。
「その時も雨が降ったんじゃない?今みたいな」
――え?
ぼくは言葉を失った。ぼくにしかないはずの記憶、それも悪事が発覚することを恐れて当時は同行した友人以外には話していない記憶だ。小宮山さんが何を知っているというのだ。
「ああ、降ったよ。まさにゲリラ豪雨だった」
ぼくは口の中にたまりつつあった唾をゴクリと飲み込んでから言った。
そうして、その時の事を一から説明する事にした。なぜそうしたのかは分からない。もしかしたら、今しがた思い出した幼い日の思い出を共有したくなったのかもしれない。もしくは、何かを知っているらしい小宮山さんと事実の確認をしようと思ったのかも。
どちらにせよ、話さなければ話が進まない。いや、ぼくらの間の何かがこのままでは変わらないと直感的に感じたのは確かだった。
「――で、独りでこの遊具の下にいたら、知らない子が駆け込んできたんだ。白い無地のTシャツを着ていて、下は半ズボンだったかな、色は覚えていないや。髪型は耳が隠れる感じで前髪は眉にかかるくらいの長さだった。丁度今のぼくくらい。で、雨にぬれてびしょびしょだった」
「それで?」と小宮山さんは続きを促す。
「で、その子は僕の前に座り込むなり、足元を押さえだしたんだ。その子は白いサンダルを履いていたかな。ぼくが『大丈夫?』って聞いても『大丈夫です』って小さい声で返すだけだった。でも明らかにサンダルの鼻緒の部分が壊れていたし、その子は無理して走ってきたみたいで、右足の鼻緒が当たる部分とくるぶしのあたりが赤く腫れていた。なんかその子が痛々しく見えてしまったからぼくは……」
「自分の靴を渡したんだよね。その子に」
「ぼくはその子に靴を渡したんだ……え?」
食い気味に放たれた小宮山さんの言葉は、ぼくの口から出た言葉と同じだった。
「なんでそこまで知っているんだい?ぼくこの話を小宮山さんにしたことあったかな」
「だってその子……」
小宮山さんはぼくの方に向き直った。上気した頬が僅かに動く。
「……私だったんだもん」
衝撃の告白に、ぼくは再び言葉を失うことになった。ついでに夏目漱石もびっくりなくらいに全身が硬直した。小宮山さんの言葉は魔法棒から放たれた呪文だった。
危うくそのまま遊具の下の石も三年、もとい石の身の上では残念、になりかけたぼくは、息を吹き返す。
雨音に全てがマスクされて、小さな個室になった遊具の下。ぼくはあえぎあえぎ口を開いた。
「ま、待ってよ!確かにぼくはその子に靴を渡した。流石にこの様子じゃあ歩けないだろうし、かと言って大人を呼んだ時に自分の名前と学校を言うのはリスクがある。だから最低限歩けるようにと思って靴を渡したんだ。でもそれだけだ。靴を渡してちょっと恥ずかしくなったぼくはすぐにこの遊具の下を飛び出してしまった。後先考えなくね。それで仕方なく、雨が降る中、大声を張り上げて友人を呼びよせて裸足のまま家に帰ったんだ。だから、その子とはほとんど会話をしていない」
ぼくは一息でここまで言い、もう一度大きく息を吸い、再び口を開く。
「それに、ぼくが靴を渡したその子は、ぼくの記憶の限りは男の子なんだ」
「……え?え?お、男の子?」
小宮山さんは戸惑いを隠せないようで、前につんのめる。
何かブツブツ言ってせわしく髪型を治す小宮山さんを前に、ぼくは記憶の印象を伝えた。
「いや、ステレオタイプだと言われるかもしれないけれど、あの時のぼくには女の子は髪が長いと言う印象が植え付けられていたんだ。クラスの女の子は個人差はあれど、みんな髪を縛れるくらいの髪型だったんだ。あの子はさっきも言ったみたいに、男子だったら若干長いかなくらいの髪型だけど、女子にしては結構短い髪だった。それに飾り気のない半袖半ズボンを着ていたはずなんだ、たしか。多少気にかかることがあったとすれば、サンダルが少し可愛い感じのデザインだったってことくらい。声も小さくて、性別を変別出来るほどじゃなかった。後は……」
「後は?」ちょっぴりムッと頬を膨らませた小宮山さんがこちらを見ている。
「あ、後は、ええと……その……スレンダーと言いますか、薄いと言いますか。こう、身体的特徴から考察する限りは男の子だったのかなぁ……と」
「し、ししし、失礼なぁ!」
百パーセントセクハラな発言の応酬にグーパンチが飛んでくる。
が、言葉の勢いほど力は強くなく、小宮山さんの右手はぼくの三角座りした膝にポフっと当たり威力を失った。痛くはなかった。心なしか、むず痒かった。
「じゃあ……何?今の今まで、あの時のあの子が私だと気が付かなかったわけ?」
「そりゃそうだよ。顔だって覚えていないし、名前だって名乗っていないはずだよ。むしろなんで小宮山さんは、ぼくだって分かったわけ?」
すると小宮山さんは呆れたように言った。
「貰った靴にご丁寧にも名前とクラスと学年が書いてあったんですけど」
「な、なるほどね。盲点だったよ」
下手をすれば、その靴から身元が割り出されて、教師から大目玉を喰らう可能性だったあったわけだ。
急に知った事実をかみしめる。
会話は途切れ、半球の遊具の下は再び静寂に包まれてしまった。
小宮山さんの言っていた通り、ぼくと彼女は中学校に入る前に出会っていたわけだ。ぼくにはわかるはずもないのだけど。
ただ、その事実が今のぼくらの関係に何か影響しているかと言われると……。
「ぼくをこの部活に入れたのってさ、小学生の時のことが関係しているんだよね?」
「まぁね。多分、入部の時にも言ったはずだけど」
「でもおかしくないかな。このくらいのことで強引に部活を入退部させるなんて」
「最初は靴のお礼を伝えようと思ったんだけどね……」
言葉尻を濁す小宮山さんは三角座りで組んだ膝に顔をうずめていた。
「それなら最初に言ってくれればよかったじゃないか。わざわざ強引な手段に出なくとも」
「……が出てしまったの」くぐもった声だった。
「ごめん、聴き取れなかった」
「欲が出てしまったの。汐崎くんに会ってね」
二度目ははっきりと聞き取ることが出来た。
それっきり小宮山さんは顔をうずめたまま、何も言わなくなってしまった。
ぼくはそんな小宮山さんの様子を見て、そして彼女の言葉を聞いて、ここまでの全てに納得がいった気がした。
ああ、そうか、そうなのか、と。
分かってしまった。分かってしまっただけに、もどかしさが全身を駆け巡る。
熱い……気がする。あの時のようにこの雨の中に駆け出してしまいたいそんな衝動に駆られてしまう。全身を濡らして叫んでやりたい。
でも今の僕がすべきなのは、こうして小宮山さんの目の前にいること。そう思った。
そうしたいと思った。
遊具の入り口から見える水たまりに出来る波紋の数は徐々に少なくなってきていた。雲が切れたのか、外が明るくなっている気もする。
でも、完全に止むまでこうしていよう。雨が完全に止んで、太陽が外を支配するまでは。
§ § §
結局のところ、あのにわか雨のあとは雨一つ落ちてこなかった。あんなに不機嫌だった空模様なんかは嘘だったみたいに、晴れ晴れとしている。もしかしたら、あの事を彼に思い出させるためにお天道様が気を利かせてくれたのではないかとも思う。まぁ、雨宿りの場所を多少作為的に選んだのは私なのだけど。
期待していなかったと言えば嘘になる。
雨の止んだ後は予定通りうちに来て昼食を作ることになった。
実のところ、公園から私の家までは割と近所にある。だからと言ってあの雨で雨宿り無しで私の家まで走ったら、翌日には二人とも風邪をひいていたに違いない。
小学生の頃のあの日も、その近所の公園で私は友人たちと遊ぶことになっていた。激しい運動はしないし遠出もしないから、と踏んでのサンダルだったけれど、それがアダとなったのだ。今となっては幸運だったのかもしれない。
さて、話を戻そうと思う。
汐崎くんとの話合いの結果、私たちはボロネーゼを作ることになった。
汐崎くんが料理用の赤ワインをぶどうジュースと間違えて危うく飲みそうになったことと、ニンニクを過剰に入れようとしたこと以外は、おおむねレシピ通りにことが運んだ。もちろん私が一緒につくるのだから失敗する事なんてありえない。それだけの自信が私には合ったし。
出来上がったパスタは上々な出来だった。最高とまではいかないまでも、私の期待値を大きく超えていた。包丁で野菜をみじん切りするのも手作りっぽくて良いけれど、やはりフードプロセッサーを使った方が風味が出る気がする。大幅な失敗は無いし、片付けが非常に手間がかかることを考えなければ、素晴らしい調理器具だ。
当の汐崎くんは「おいしい、おいしい」しか言わない機械になっていた。美味しかったのなら別に文句はないけれど、もっと何か表現する言葉はないのかと思う。勉強そっちのけで本を読んでいるのだから語彙力だって少なからずあるはずだし、国語が得意科目なのだから。(他が低いせいで相対的評価になってしまうのはいささか悲しいところではあるけど)ああ、知識を生かせるだけの知能があるかどうかは別問題だった。
片づけを終えた後に、例の靴を彼に見せた。欲しいか訊いたら、いらないとのことだった。私だって思い入れの無いモノだったらとっくに捨てているだろう。穴が開いているし、底もすり減っていて誰が履くでも無いのだから。
だけど、私はあの時本当に救われたのだ。
あの日、雨が降って来たのは家から公園に向かう途中だった。
家に戻るか、このまま公園に行くか。迷った挙句に出した答えは、このまま公園に向かうだた。先に来ているであろう友人が心配だったのだ。
ただ、その焦る気持ちが災いした。公園の入り口に至る頃には既に雨が本降りになっており、アスファルトの路面は滑りやすくなっていた。わずかな勾配の下り坂を経て、公園に入ろうとした私は足を滑らした。転ぶには至らなかったものの、足首を捻りサンダルは壊れてしまった。そうして、痛む足を引きずって目についた遊具の下へ入ったところ、汐崎くんがいたという訳だ。
壊れたサンダルで家まで戻るのはほぼ不可能だったし、痛みと孤独のなか雨が止むのを待っていたと考えるのは少し怖い。だから救われた。彼にとっては些末な思い出かもしれないけれど、私にとっては大切な記憶なのだ。
汐崎くんを見送ったのは夕方だった。玄関から見上げた空には、あの雨の残り香を感じさせるものは何も残っていなかった。立ち昇る入道雲と青い空、それらが赤みがかかった光にだんだんと浸食されて、穏やかに色を変えている。まるでさっきの雨が嘘みたいだった。それでも、地面はまだ湿っている。
雨は嫌いだ。滑って怪我をするし、気圧の変化で頭が痛くなることもある。傘が無ければ服を濡らしてしまうし、靴だって水がしみてくる。
雨は嫌いだ。でも……。
悪くはないのかもしれない、と最近思えるようになってきた気がする。
ううん、むしろ好きなんだ。雨も、彼も。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます