第19話 部活と夏の日の幼い記憶ⅰ
きっと彼は本当に覚えていないのだろう。私と彼が以前に会ったことがあるということを。
私にはあの時の少年が汐崎くんだって一目で分かった。始めて出会った時からほとんど変わっていなかったから。しいて言えば、多少ひねくれていたくらい。背丈が伸びて顔がやや大人びて、本当にそれくらいの変化しかなかった。ここまで一緒に部活をしていて、その捻くれが多少に収まっていないことを知ってしまったのは誤算だったけれど。
あんなに強引に引き込んだのに、予想以上にすんなりと部活に入ってくれたことには驚いたものだ。適応力があると言うかいい意味で主体性が無いと言うか。今にして思えば、どちらも彼らしい。
ただ、入部の時以来、昔の出会いの話をまともにしていないことには引っかかる。やっぱりそのエピソードに興味が無いのだろうか。少なくとも私が嫌われている素振りは無いから、私自身に興味が無いなんてことは無いはずだ。……無いはずだ。
何度か私から話を振ろうとも思ったけれど、何だか今になっては恥ずかしくて出来ない。今更昔話を持ち出したところで、という感じでもあるし。
だけど今日は。そんなモヤモヤした日々が少しだけ変わる気がする。
カンカン照りが続いた八月のある日のことだ。
夏の暑さのせいで少しだけ私も浮かれていたのかもしれない。
§ § §
夏休みの朝。
まだ気温が高くなる前で、風もそれなりに吹くから割と過ごしやすい。
なのでぼくは二度寝をしてしまうのだ。
見慣れた天井を薄目で眺めながら思う。
――やはりこれは夏休みの人間のみに許された至福なのだ、と。
その日の予定が無ければなおさらだ。暑さに耐えかねてどうしてもベッドから出なければいけなくなるその時間まで、ダラダラと寝転がっていることが出来る。どうせ暑いうちは勉強に集中できないのだから、と潔く割り切っているので、山のように積まれた宿題の影を恐れてひりつきながら眠る必要もない。ぼくの夏休みの午前中はおおよそこの惰眠によって浪費されていた。別にぼく自身は無駄な睡眠だなんて思ってはいない。寝る子は育つの精神を実行しているだけなのだから。
ただ、その日は違った。
形式的にかけた目覚まし時計が鳴ったのが八時。
ぼくはそのけたたましい音を慣れた仕草で仕留めると、寝返りを打って二度目の夢の世界へ旅立った……はずだったのだが、下の階からぼくを呼ぶ声がする。
母の声だ。どうもぼく宛てに電話が来ているらしい。
このまま無視して眠ってしまおうかとも思ったけれど、この朝早くから電話が来るなんて何か重要な用事かもしれない。もしかしたらクラスの奴らからの誘いで、どこかへ出かけるのかもしれない。そうしたら何か夏らしいことが出来るかもしれない。
そんな風に想像が膨らんだ結果、ぼくは眠気眼をこすりながら階段を下ることにしたのだ。
居間に入るとエプロン姿の母が電話機を押し付けて来た。
「早く出なさい、もう二分くらい待たせているんだから」
やや怒り気味なのはぼくの朝が遅いからなのだろうか。
誰からの電話、と訊くと、出れば分かるわ、と不親切な回答が返ってくる。
ここで言い返せば無駄な血が流れることが予想できるので、ぼくは仕方なく未知の相手との交信に臨むことにした。朝から叱られてしまっては、一日のモチベーションの低下を避けられないし、ひいては大好きなお勉強にも手がつかなかくなってしまうのだ。
ぼくはコホンと咳払いをすると、受話器に耳を当てた。
「もしもし、お電話変わりました。汐崎湊人です」
「……もしもし。えらく待たせてくれるものね」
「いや、ええと、ごめ、ごめんなさい。どうもぼくは朝が弱いモノで」
「まぁ良いですけど」
どうも電話の相手も怒り気味らしい。朝からそんなにカッカしていては一日のエネルギーを余分に消費してしまうぞ、と言いたいところを、グッと飲み込んで会話を続ける。
「えーとそれで、どちら様でしょうか?」
「声を聴いて分からない?」
なんと難題だ。
若い女性の声ということは分かるのだけど、どうしてか聞き覚えが無い声だ。
そう言えば、電話の声は本人の声でなくて、本人によく似たパターンの音声を使っていると聞いたことがある。
いまいちピンとこない声、つまりこの電話の相手の声は、機械でも再現することが難しい微妙な声の持ち主なのかもしれない。F分の一揺らぎが云々とか、天使の声とか、滅びの歌とかその類なのかもしれない。
なんて一向に答えに辿り着かない推理を脳内で展開していると、電話のお相手はしびれを切らしてしまったらしい。
ため息が聞こえたと思ったら、何だか聞き覚えのある声色になってこう言った。
「私よ私。これでも分からない?」
「もしかして……」
「そう!そのもしかして」
「もしかして、ミル・マスカラス?」
「誰が仮面貴族よ!誰がスカイハイよ!」
大声で叫ばれてしまった。ぼくの鼓膜は軽く二、三枚ほどはじけ飛んでしまった。
ほんの冗談のつもりだったのに……酷いことをする人がいるものだ。
気を取り直して受話器に耳を当てる。
「ごめんごめん、小宮山さん。でも名乗ってくれなきゃ分からないよ」
「あれだけ毎日一緒の部活をやっておきながら、声を聴いても分からないなんて本当に失望させてくれるね、汐崎くんは」
「いやだって、初めの声は明らかに余所行きの声だったじゃないか!猫だか仮面だか、何を被っているのか知らないけれど、普通に話してくれなきゃ分からないよ」
「そんなこと言われても、電話にお母さまが出るんだもの。驚いてトーンが変わっちゃったの。仕方が無いじゃない」
「そもそもぼくは八時に電話に出られるほどの余裕がある生活を送っている訳じゃないんだ。本当なら九時過ぎまで優雅な二度寝を貪るはずだったのに」
「むしろ余裕しかないじゃない」
「よせやい、ぼくが余裕のある男だなんて」
「一ミリも褒めていないのだけど!」
再び深いため息が聞こえて来る。この辺にしておこう……。
「それで…‥何の用でしょうか?」恐る恐る尋ねる。
「夏休み中の部活の話、覚えてる……かな?」
「一応はね。内容は決まって無かった気がするけど」
「ええと、今日って暇?」
小宮山さんの言葉が脳内をリフレインする。
――今日って暇?
――今日は暇でしょうか?
――今日の事なんですが、お暇はあるでしょうか?
――本日はお日柄も良く、実に何かをするには適した日だとは思いませんか?という訳でですね、少々ご相談したいことがあるのですが……。
ふむ、唐突の事で理解に手間取ったが、おそらく今日の予定の有無を聞かれているのだ。電話で予定を聞かれるなどという、十数年生きてきて数回あるか無いかの出来事。どうもぼくの脳は、ほぼ初めての事象を処理するだけの器用さを持ち合わせていなかったらしい。
なんにせよ、今日のぼくは暇すぎるほどに暇だ。誇張を抑えて返事をする。
「日が昇って沈むまでの間に、少なくとも五千回は寝返りをうてるほどに暇だよ」
「たとえが分かりにくいけれど、暇なことは充分に伝わったよ」
小宮山さんは呆れたようにそう言うと、ワンテンポおいて続けた。
「じゃあ今日なんだけど、部活しない?私の家で」
「ぶ、部活!な、何をするんだ?それも小宮山さんの家で!?」
こ、これまた唐突な提案ではないか。
ぼくの脳内に、様々な想像が騒々しく早口に飛び交う。
女の子の家にお呼ばれするなんて、小学校低学年以来だ。だから女の子の家での作法が全く分からない。あの頃の遊びと言えば……。お人形遊びやお手玉みたいな遊びは正直キライではなかったけれど、今のぼくにそれらを熟すだけの柔軟さはおそらくないだろうな。いや待て、相手は中学生だぞ……人形遊びに実際の人間を雇ってやるのかもしれないし、お手玉の玉は野球の公式球かもしれない。……もしかしたら、部屋にある姿見で悪魔や魔獣を召喚する儀式のための触媒に利用されるのかもしれない。下手をすれば人死にがでるぞ、これは。しかも確実にぼくが血を流す羽目になる。これは確定事項だ。
つまり、女の子の家に立ち入るということは、それだけの覚悟をしなければならないのだ。ぼくは貧弱な男子中学生。眼前に立ちはだかる試練にどのように対処するべきか、独りで考えなければならない。ここを乗り越えなければ成長は無い。でも……!
「ぼ、ぼくはまだ死にたくない!」
「……何をどう想像したら死につながるのよ」
冷静な返答が聞こえて来た。
「部活をするって言っているでしょ。何か料理でも作って、話でもしようかと思っただけ」
「料理ってのは建前で、ぼくを取って食べたりするわけじゃないよね?」
「もう!ふざけているの?」小宮山さんは声を荒げた。
「いえいえ、申し訳ありません。ほんの出来心で」
「とりあえず、十時半頃に駅前に集合ね。私の家を案内するから」
「りょ、了解です」
「それじゃあ、汐崎くん。覚えておきなさいよ」
小宮山さんは、そうまくしたてるように言うと、一方的に電話を切ってしまった。
ツーツーという無機質な音が耳の中に残る。
小宮山さんとの電話。少々はしゃいでしまったのかもしれない。まぁ、夏の仕業、と少し恰好つければ許してもらえるだろうか。
ちなみに、長電話のせいで朝食が冷めてしまい、母にはお小言を言われてしまった。
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