第17話 体育疲れて汗をかく、プールで濡れて乾かない

 ***


 クマゼミやらニイニイゼミが鳴いて、強い日差しが降り注ぐ下。

 振動を絶え間なく繰り返すプールの水面を、ただ眺めるぼくがいた。

 夏の体育と言えば水泳の授業。この時ばかりは、面倒な学校にも光が差す。

 で、どうして授業中なのにただぼんやりしているかと言えば、授業でやるべきことが早々に終わったらしく、自由時間が与えられたからである。授業担任によっては、授業の半分を自由時間に充ててくれる場合があるらしい。生憎、ぼくらの授業担任はそんな聖人では無かったのだけれど。

 ともあれ、プールで自由に遊べる。こんなに楽しいことは無いだろう。潜水したり、水を掛け合ったり、競争したり……何をしたって良いのだ。


 だからぼくはプールの水面を眺めていた。キラキラと揺れるその大海を。

 何が『だから』と思うだろう。まぁ、こんなぼくでも、はしゃぐことを辞めて、夏らしい情景を前にたそがれたい時だってあるのだ。決して、女子の前でいいところを見せようとして、普段以上のやる気で泳いで疲れてしまった、という訳ではない。


 そんなわけで足だけをプールに入れて軽くバタ足をしていると、ぼくの横に座り込む人がいた。クラスの友人ではない。彼らは揃いもそろって潜水している。大粒の気泡が水底から浮かび上がっては、弾けるのが見えていた。

 ならば誰か。おおかたの予想はついた。

 ぼくは横を一瞥し、慌てて水面に視線を戻さざるを得なかった。

 スクール水着姿の小宮山さんがいたのだから。

 なんて恰好をしているんだ!といつもの調子で叫びかけたが、すぐに冷静になる。

 水着なのは当たり前だ。だってプールだもの。


「こんにちは、汐崎くん。汐崎くんは遊ばないの?」彼女の足が水面に新しい波を作る。


「や、やあ。今は良いかな。水を見たい気分なんだ」


「変な趣味ぃ」小宮山さんはからかうように言う。


「別にいいじゃないか。そういう気分な日もあるんだ」


「やけにメランコリックだね」


「そうでもないさ」


「ふーん」

 横の少女はつまらなそうに足をばたつかせた。しぶきが身体に当たる。冷たい。


「ねぇ競走しようよ」


「うーん遠慮しておくかな」


「つれないねぇ」


「小宮山さんだけで泳いで来たら?水泳の授業でしゃべっていても面白くないだろうから」


「言われなくてもそのつもりです」


 じゃあなんで、と訊くと、ちょっと言っておきたいことがあってね、と水面を撫でる。


「夏休み中にさ、何か部活で活動する?」


「活動内容が無いよう」


「ちょっと涼しくなったわ……じゃなくて!」


 パシャンと小宮山さんの足が水を叩く。また水が飛んでくる。


「一応部活として活動しているのに、休暇中に何もしないっても野暮でしょ?なんか考えておいてよ」


「そうは言うけれど、部活とは名ばかりだからね。何か有意義な議論でもするかい?哲学的な討論でもするかい?」


「二人だけだとアゴラは再現できませんよっと。その辺は汐崎くんに一任するよ」


「投げやりだなぁ」


「あとで聞くからね、じゃあ」


 そう言い残し、小宮山さんはスッと黒いゴーグルをつけて水の中に消えて行ってしまった。

 今度は盛大な飛沫が飛んできた。ぼくは輪郭のあやふやな水中の影を眺めていた。


 ***


 うーん、やっぱりまだ塩素臭い。髪は若干湿っているし、キシキシしている。

 ぼくは、いつもの第二家庭科室で手ごろなノートを持って風を扇いでいた。一方の小宮山さんは、教室の端の方、コンセントのある辺りに陣取って、どこから借りて来たのか、据え置きの扇風機を前に濡れた髪を乾かしていた。

 言うまでも無い。六限目は体育の水泳だった。ぼくらの学校では、水泳の授業が2クラス合同で行われることになっており、今日は小宮山さんのクラスと一緒だったのだ。

 カンカン照りの真夏日。遠くに見える入道雲は盛りすぎのアイスクリームみたく成長していた。降り注ぐ日差しがジリジリと身を焼いて、美味しくこんがり。まさにプール日和と言って間違いない日だった。

 暑さのピークのお昼頃、つまり四限や五限では無かったものの、夏の猛威は十二分なほどに発揮されていた。夏休みになったらさらに暑くなるのだろうか。日焼け止めも厚く塗らないといけないな、なんて思う。


「もう、本当に憂鬱なんだけど!」


 扇風機のせいで異星人になった小宮山さんが唐突に言った。


「それだけ髪が長ければね、心中お察しします」ぼくは小宮山さんの方に視線を向けた。


「嘘だね。汐崎くんにはこの苦労が分かるはずもないよ」


 不貞腐れた表情の小宮山さんと目が合う。肩の下まで伸びた髪が扇風機に吹かれてゆらゆらとたなびく。濡れているせいか、艶のある毛束がいつもの小宮山さんとは違った雰囲気を醸し出していた。こう、上手く表現できない事が大変歯がゆいのだけど、しいて言えば、見てはいけないモノを見ているような、そんな感じだろうか。女子のうなじであったり、膝の裏であったり……そういうモノを見てしまったのと同様な気がする。まぁ水泳の授業ならばいずれも見放題と言う事実は、この際忘れることにする

 小宮山さんから逸れそうになる視線を扇風機に固定して、ぼくは返事をした。


「嘘とまで言いますかい。ぼくだって男子の中では割と髪が長い方だから、多少は理解できるつもりだったんだけど」ぼくは目にかかった前髪をかき上げてみせる。


「じゃあ、汐崎くんはお風呂上りに10分以上もドライヤーを使う?ねぇ?」

 なぜか語気が強い。何か怒らせるような言動があったのだろうか。

 ……今までのことを考えれば、心当たりがあり過ぎて分からないぞこれは。


「いやぁ……ごめん。そんなに深刻な問題だとは思わなかったよ」


「まぁ分かってくれればいいんだよ。分かれば」


 小宮山さんは再び扇風機の方を向いて、髪に風を当て始めてしまった。一向に乾いていないように見えるのは、ぼくの思い過ごしだろうか。

 そんな小宮山さんを横目に、ぼくは何気なく訊いてしまった。


「あのー余計な口出しかもしれないけれど、毎日髪のことで苦労するなら、いっその事短くしてみたら?」と。


 自分の発言を改めて自分の耳で聞き、そして気が付く。

 女性の髪型について色々言ってはいけない。女性にとって髪は命とも言うではないか。そんな神聖な領域に無作法にも立ち入るのは、タブーなのである。古今東西の創作においても、タブーを犯した男はたいていの場合、女性を怒らせている。

 つまり……今のぼくは非常にまずい状況だと言えるだろう。

 ギロリと鋭い目がぼくの方に向けられる。まさにメドューサ。身じろぐ暇すらなかった。

 反射的に謝罪の言葉が口を突いて出る。


「いや!ごめ……」


「それはつまり!」小宮山さんはわざとらしく言葉を区切って言った。「このロングが私に似合わないということ?」


「ぼくはとんだ馬鹿者です!軽はずみな発言をしてしまって……ん?」


「だから!」小宮山さんはムッとしてぼくの方に向き直った。


「こ、この長さより、短い方が良いってこと?」


 一瞬、時が止まった。

 あーこれはどうすればいいのだろうか、どうすればいいんだ!?

 怒られ叱られ失望され……という絶望的状況を想像していたのだけど、どうやら現状は違うらしい。むしろ事情が難しくなっている気がするのは、ぼくだけだろうか。

 もちろんぼくは今のままの小宮山さんに文句はない、文句のつけようがない。出会った時からこの髪型だし、とても似合っていると思う。ぼくの中での黒髪ロングの代名詞と言えば、小宮山さんか紫式部なのだ。それほどしっくり来ている。

 その一方で、ショートヘアの小宮山さんを見てみたいというぼくがいるのも事実だ。耳が出る位のショートヘア。もしくはショートはショートでもショートボブか。どちらも捨てがたい。ぼくの心は遊撃手の如く、広範囲に揺さぶられてしまった。


「いやいや、そういう訳では無くて……」


「じゃあどういうわけよ」


「誤解無く言うならば、小宮山さんならどんな髪型でも似合うと思うね」


「誤解を恐れずに言うのなら?」


「多様性も好奇心も尊重すべきですな」


「つまり短い髪も見てみたいと」


「べ、別にそうは言っていないじゃないか!」


「それじゃあ見たくないの?」


 その直球にもほどがある問いかけは、ぼくの中でまどろっこしくへばり付いていたプライドを消し飛ばすようだった。ぼくは仕方なく、本当に仕方なく素直な気持ちを言葉に出した。


「み、見たいです」


「そ、そう。ふーん……」


 まぁ考えてあげないことも無いかな、と言ったきり、小宮山さんはまた扇風機の方を向いてしまった。ちらりと髪の隙間から見える耳は赤くなっているようだった。


 教室内は静かになってしまった。

 対照的に野球部の掛け声と打球音が耳に入って来た。合唱部の歌声や吹奏楽部の演奏も響いてくる。

 この雰囲気のまま過ごすのはちょっぴり心臓に悪い予感がしたので、窓を開けることにした。元から開いていたけれど、今のぼくには他の目的を持った行動、言い訳のある行動が思いつかなかったのだ。

 窓をさらに開けたところで吹き込む風は大して変わらなかった。普段ならどんな季節でも風がそれなりに吹き込む教室なのだが、今日はその例に漏れたようだった。

 窓の外に見える桜の木は緑の葉を数え切れないほど纏い、その微かに見える幹は太く、健康そのもの元気の塊といった風体だった。しかし蝉や小鳥は止まっていないようで声がしない。だからか、とぼくは納得した。他の部活が発する声や音をまじまじと聞いたのは夏になってから久しぶりな気がしたからだ。



「さっき言ったこと覚えてる?」


 不意に背後から声がして、ぼくは振り返った。

 未だに扇風機の前に陣取っている小宮山さんがこちらを見ていた。


「さっきの水泳の時のこと?もちろんだよ」


 夏休み中の部活のことだろう。そうは思いつつも、ぼくの脳裏には夏の陽の下で眩しく佇む、小宮山さんの水にぬれた白い四肢が焼き付いていた。ぼくも男子だ。仕方が無い面もある。


「それじゃあ、夏休み中は何をする?」扇風機の風に逆らって小宮山さんは言った。


「覚えているとは言ったけれど、考えたとは一言も言っていないよ」


「うわっ屁理屈!失望、失望必至だよこれは」


「だ、だって集まったとしてもやることが無いじゃないか!それに素晴らしい案を思いついたとしても、それを述べるのにこの部活の時間は短すぎるね」


「出来損ないのフェルマーみたいなこと言って……」


 小宮山さんは扇風機から顔を背けて、ぼくの方へ不機嫌そうなふくれっ面を見せた。


「だったら……料理でもしてみない?一応は第二料理部として始まった部活なんだし」


「……まぁ妥当だけど」と小宮山さんは何だかはっきりしない


 ――ぼくのこの提案は予想外だったらしい。


「その方向性で計画してみるよ。一任したのは私の責任だし」


 ――予想外と言うより期待外れだったらしい。


 ぼくの評価は地に落ちきって、今頃はマントルを抜けている頃に違いない。ブラジルに芽を出す日もそう遠くはないだろう。きっと陽気なサンバが待っている。


 他の部活の声と扇風機の羽が回る音を聴きながら、ぼくは今年の夏休みに思いを馳せることにした。

 長いようで短い夏休み。それがもう少しでやって来るのだ。

 一年に一度の夏休み。どう満喫してやろうか、考え物だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る