第16話 入学式と挨拶と成長と
いつもとは少し異なる匂いのする廊下を、私は一人で歩いていた。
そもそも今日の学校の雰囲気自体が普段のそれとは違っていたんだ。
全体的にそわそわしていたというか、普段はいない人間がいたというか……。
ううん、決してオカルト的なことじゃないし、不審者でもない。
そう、理由は簡単。この学校に入学予定の小学六年生が学校見学に来ていた。
放課後になった今では、もう校内に小学生は居ないけれど、昼間は結構異質な空気感だった。
なんて思いながら、いつもの部室へ足を進める。
私より少し背の低い小学生が、引率の先生か保護者と一緒にいるところに何度も出くわしたし、いくつかの授業を教室の後ろの方で参観していた。父兄の参観日でもないのに、ちょっぴり緊張してしまった。私らしくも無い。
ただ、その緊張感というかザワザワの理由は、知らない大人が学校にいるという事ではなくて、紛れもなく小学生が学校にいるという事だった。あの時を思い出してしまうから。
小学生の終わり、いいえ、中学生活の始まりのこと。
今となっては闇に葬り去りたい程の事を、かつての私、小宮山梓はしてしまった。
若気の至り、この表現が正確なのかは分からない。だってまだ私若いし。
まぁ、若さゆえ、考え至らずに仕出かしてしまうこともある。それに、こんな大げさに語るほどの事でもない。
『失敗を経て人は成長していくものさ』といつかの汐崎くんは言っていた。あれは確か、テストで恐ろしく低い点数を取った時だったかな。その失敗からの成長が、一向に見られないのが、これまた恐ろしいところだ。猫や犬でも芸を覚えて、成長すると言うのに……。もしかしたら彼は人間では無いのかもしれない。本当に大丈夫なのかな?
見慣れた廊下をゆっくりと歩き、滑りやすい階段を気を付けながら昇り、家庭科の女の先生に軽く会釈をして、普段通りに目当ての教室の前に辿り着いた。
第二家庭科室。私達の部室だ。
扉に手を掛けようとすると、背後から喧しい音を響かせながら階段を駆け上がって来る音がした。音の主は廊下をドタドタと駆けながらこちらに近づいてきているみたい。
むむむ、嫌な予感……。
悲しいかな、私の予感は的中してしまった。
聞き慣れた理科教師の「危ないぞ!コラ!」という声と「すみません!急いでいるもので!」という声が向こうの方から飛んでくる。
その僅か数秒後。
誰かさんが私の近くまで走って来た。相当走ったようで、呼吸がせわしい。
その誰かさんは息も絶え絶えに言った。
「やぁ小宮山さん。扉の前で何をしているんだい?鍵でもかかってる?」
声の方へ頭を傾ける。
私より少し高い身長、無造作でやや長い髪、それなりに好青年な顔立ち、そして昔から変わらず、クシャっとした笑顔が印象的な誰かさん。
――と全力で褒めてみたけれど、その全てを打ち消すように、だらしなく膝に手を突く汐崎くんがそこにいた。なんというか、疲れ方に貫禄がある。私のお父さんもこんな風にはならない。
「こんにちは汐崎くん。今ちょうど入ろうとしていたの。それだけ」私は扉を引いて、教室に入りながら付け加える。「相変わらずマラソンがお好きなようで」
「い、いや、距離的には短距離走かな。どちらにしても走るのは好きじゃあないね」
どうでもいい訂正を聞き流して、私は窓際のいつもの席のすぐ後ろにある窓を開けた。ぬるい風が流れ込んで、夕立前の湿った土の香りが鼻につく。
そうして、ルーティーンを済ませてから椅子に座った。
大机の斜向かい、いつもの席に汐崎くんは既に腰を下ろしていた。と言うより、机にうつ伏せで伸びていた。ことごとくだらしがない人だ。
普通にしていれば、悪くない、むしろ女子人気が多少出てもおかしくは無いと思うのだけど、当の本人は全く気が付いていない。それどころか逆行しているまである。
……まぁ、このままでいてくれた方が良いというか何というか。
「今日って小学生が学校に来ていたよね」汐崎くんは冷たそうな机に頬を当てながら言った。「なんかそわそわしちゃって、まったく勉強に手がつかなかったよ」
「まるで普段は勉強熱心みたいな言い草だね」
「そりゃあもちろん、毎日の睡眠学習を欠かしたことはないよ」
「汐崎くんのそれ、世間では居眠りと言うんですけど……」
「小宮山さんの言う世間は、どうやら睡眠の重要性を理解していないようだね」
「あらら、汐崎くんは未だに勉強の大切さを理解していないようだね」
はぁ、同じ高校へ行こうと言う話はどうなったのやら。私はムッとして、手に持ったシャープペンの持ち手の方で、汐崎くんのつむじを突いた。うつ伏せの頭がちょうどこちらに向いていたので、なんとなく押してみたくなったのだ。
しかし、返って来たのは「やめて欲しいなぁーつむじを押されると髪が薄くなるらしいじゃないか。嫌だなぁ禿げるのは」というのんびり声。こうも覇気が無いと夏バテを疑いたくなる。
「まぁ勉強はちゃんとやっているから安心してよ」
ややあって、汐崎くんは伸びをしながら上体を起こした。そして面倒臭そうに、目にかかった前髪をかき上げる。
「それよりも、彼ら小学生の話だよ。あと半年もしたらあの子たちがこの学校に入学するんだねぇ。しみじみするよ」
「何がしみじみよ。私達だってほんの一年と半年前に入学したばかりじゃない」
「いやいや、人間一年と半分もあれば結構成長すると思うね」
「そう……かな?」
この汐崎くんの主張には疑問符を付けざるを得ない。何度も言うけれど、当の本人が全くと言っていい程に成長していないのだから。汐崎くん自身は成長成長言う割に、身長くらいしか伸びていない。晩成型だと信じたい所だ。
「彼らが半年でどれほど成長するかが見ものですな」
汐崎くんはわざとらしく踏ん反りかえる。
「誰目線なんだか……あの子たちの保護者じゃあるまいし」
「保護者ねぇ、ぼくももうそんな年になったのか」
「老化は始まっているかもね、その様子じゃ」
さっきの廊下を駆け抜けた後の疲れようを思い出す。
けれど、汐崎くんは別の事を連想していたみたいだった。
彼は焦ったように頭を押さえる。
「えっ!まさかぼくの頭頂部って薄い?もう?この年で?」
「いや……そんなわけないじゃない。面倒な勘違いしないでよ」
「なーんだ安心安心。ぼくの親戚は薄い人が多いから、もう魔の手が迫って来たのかと思ったよ」
薄毛は遺伝するらしいから何一つ安心できないよ、とは言わないでおこう。
知らないが吉。知っていても既知、じゃなくて凶。
「そうそう、小学生の彼らを見ていて思い出したんだけどさ」
体勢を変えて熱心に頭皮マッサージをし始めた汐崎くんは言った。
「ぼく達の入学式の時に、新入生代表の挨拶をしたのって小宮山さんだよね?」
――むむむ、危惧していた方向へ話が進んでしまった。
「そ、そうだけど、それがどうかしたの?」
「今まで気にもしていなかったんだけど、ぼくが小宮山さんの事を初めて知ったのは入学式の時だったなって」
ああ、確かに汐崎くんからしたらそうかもしれない。小学生の時の事は覚えていないようだから、彼の私に対する最初の印象は必然的に入学式になる。というか、余計なことばっかり覚えていて、肝心なことはすっぽり抜け落ちている。きっと汐崎くんの記憶の水盆は穴だらけだ。
うーん、なんにせよ今更掘り返されるのはツラいところがある。当時の私は自分に自信があり過ぎたというか、自己認識が甘かったというか……とにかく、どうにかして話をそらしたいところ。
私は自分でも分かるくらい抑揚のない声で言った。
「ああそうですか。私を知ったのは『お料理研究部』に入ってからだと思ってた」
「ちゃんと認識したのはあの部活に入ってからだね。まともに在籍していないけど」
と、冷ややかに向けられる目線が痛い。ごめんなさいねぇ、引き抜いたりして。
「まぁでも、小宮山さんが同じ部活に居たことには、とても驚いたな」
「そんなに?私なんて普通の生徒だったじゃない。挨拶をしたくらいで……」
そう言いかけると、汐崎くんが呆れたような顔をしているのが目に入った。
「流石に冗談だよね?小宮山さん」
「え、何が」
「何をどう間違えたとしても、小宮山さんは平凡な生徒では無かったよ」
「いやいや過大評価だよ?」
私が否定すると、汐崎くんは目を細める。
「過大評価なわけがないね。この際はっきりと言わせてもらうけれど、小宮山さんは非凡な容姿と秀でた才能を持っている、これは確定事項だ。そんな人が大勢の前に立ったんだから、さらにその非凡さをアピールすることになる。そうだ、何か思い出すことは無い?」
「な、何かって?」サラリと褒められ気がするけど、とりあえず流して訊き返す。
「いや、一年生の春から今までの周りからの扱いとかで、気にかかったことは無かった?」
……言われてみれば、いくつかある。
何と言うか、クラスの人との関わりがぎこちなかった。
一年生の六月くらいまでは、クラスの皆の私に対する口調がなぜか敬語交じりだった。男子に至っては、未だに敬語なのか古語なのかいまいちわからない話し方の人もいる。悲しいことに下の名前で呼んでくれる人は未だに居ない。いつも仲良くしているクラスの子だって『小宮山さん』呼びだ。噂によれば、男子連中は『様』をつけて呼んでいるらしい。
嫌われているのか、距離を取られているのか。そんな風に杞憂したこともあったけれど、実際はそうでも無かった。朝下駄箱を開ければ、月に数通は男子からの手紙が入っていた。どれもラブレターというよりは、応援しています的な内容だったのだけれど。それにバレンタインにはクラスの女子のほぼ全員から友チョコを貰った。普段あまり関わりの無い子からも、凄く手の込んだモノをもらった。最近は料理だったり、勉強のことでよく話掛けられたりするから、幾分かマシになったのだろうか。
先生方も私にはあまり踏み込んだことを言わない気がする。これは単に私が先生の眼に触れるような悪事を働いていないだけだとも思う。自分が優等生であることは自覚しているし、そうあろうと努めているから、そもそもの悪事をしたことが無い。というか、比較対象が悪いのかもしれない。それにしたって汐崎くんは怒られ過ぎじゃない?
さて、色々を考慮すると、つまり……。
「私ってもしかして、偉い人かすごい人か何かだと思われている?」
恐る恐る訊いた結果は明らかだった。
「もしかしなくてもそうです」
「あっはい」
汐崎くんは腕を組んで、妙に鼻息荒く続けた。
「それにあんな挨拶、いやある種スピーチか演説と言っても良い。あのスピーチをしておいて自分を普通だと思っているのかい?」
「……覚えていたの?」
「この記憶力の権化のぼくが忘れるわけがないじゃないか」
「自虐にしては鋭利すぎるお言葉ですこと」
「自虐?何のことやら。ちょっと待って、今正確に思い出すから」
「ちょっと、思い出さなくて良いってば!」
イスから腰を浮かせて圧をかけるも、私の制止はただの徒労に終わった。
まるでレコードを再生するように、私の挨拶を一言一句違わずに語り始めてしまった。
「……厳しい寒さを乗り越えて、暖かな陽気に包まれた今日この頃、誰が呼び寄せたのかは私の知るところではありませんが、例年のように春がやってきましたね。私が思うに、この春という存在は本当に侮ることができません。修羅が宿っていると評しても過言ではないでしょう。突然何を言い出すのか、と思われるかもしれませんが、少々お付き合いください。なぜ春が侮りがたい存在なのか。そう、なにせ春という奴は『今年も春がやってきましたよ!』と大声で喧伝しながら、突風とともに町中を駆け抜けては、木々をピンク色に染め上げ、虫や小鳥の目を覚まし、私達を浮足立たせるのです。春という大きな存在は、身勝手にも私たちの環境を大きく変えてしまいます。挙句の果てに、私達人間に唐突な別れと出会いをもたらすのです。まさに人智を越えた所業であると言うしかありません。さて、そんな春の影響を多分に受けて、今この場に立つ私たち新入生のために、このような盛大な会を開いていただき、本当にありがとうございます」
「や、やめ!」
この無意味な前口上が既に恥ずかしい。自分らしい文章でも良いですよと言われて、それを言葉通り受け取って、テンプレートを無視した小学六年生の自分が憎い。完全に黒歴史だ。
「――中学校に入学するわけですから、何か抱負が無ければいけません。ただこれは私たち新入生だけの話ではありません。在校生の先輩方、ひいては先生方に通じる話でもあります。目標も無く日々をただ浪費するだけの学校生活に意味なんてありません。与えられたタスクをただただこなし、機械のように動くだけでは、人間とは言えない、私はそう思います。外的な要因に従って、流れ湧き出る水のように身の振り方を決める、それこそ人に飼われるペットと代わりません。皆さん、そうは思わないでしょうか?」
前代未聞だ。どうも当時の私は新入生挨拶と生徒会選挙を勘違いしていた節がある。というより、選挙の街頭演説に近い。あの頃は何に影響は受けていたのか……背伸びして自己啓発本か戦争映画でも見たんだろうな。
「――一つ、私は一つここに宣言したいと思います」
汐崎くんは私のマネらしく、大仰な身振りをつける。
「――私はこれから始まる三年間の中学校生活を通して、学生の本分である学業を充分に修めると共に、今後の人生におけるかけがえのない宝を見つけたいと思っています。この宝は友人かもしれませんし、何か貴重な経験かもしれません、もしくは中学生時代にしか作ることの出来ない思い出かもしれません。宝には大きいモノや小さいモノ、形がきれいなモノ、いびつなモノ、様々あるでしょうが、きっとそのどれもが大切な宝物なのです。何年か経って振り返った時に、中学時代の宝だけは光輝き、くすむことは無い、そう信じたいのです」
汐崎くんは言い切ると、ふうと一息ついた。
「……ってここまでは覚えているんだけど、この後はどんな感じだったっけ?」
「そこまで覚えていれば充分……じゃなくて、覚えすぎ!あとは締めるだけよ!」
なんでこんなに正確に覚えているの?この記憶力を勉強に生かしてほしいと強く願う、というか……なんだかむしゃくしゃする!
夜、ベッドに入ると偶に思い出してしまい、全身が熱くなるくらい恥ずかしくなって、掛布団やら枕をきつく抱きしめてしまうあの感じ。よりにもよって汐崎くんに全部暴かれてしまったことが、本当に情けないし、自分でもよく分からないけれど怒りたいような気分にもなる。
汐崎くんは私の心中なんて気にしていないみたいで、飄々と言う。
「なんだか、今の小宮山さんらしくないことを言ってない?」
「そ、そう?思っていることは大して変わっていないけど」
なんて言えば良いんだろうなぁ、と汐崎くんは首を傾げる。
「伝えたいことは分かるんだけど、ちょっと背伸びしてる感じがあると思うんだ」
「わざわざ分析しなくてもいいってば!言われなくてもわかってるし。あれから何度思い出して、独りで脳内反省会をしたことか」
「もしかして……この件は小宮山さんの中で黒歴史みたいな扱いになってる?」
「もしかしなくても、そうに決まっているじゃない。流石に鈍感すぎるよ汐崎くんは」
睨みを利かせるも、どうも納得しない表情の汐崎くんは続けた。
「時間が経って振り返ると、腑に落ちないことがあるとしても、悲観するほどのことじゃないと思うね」
そしてこうも言った。
「多分あの時のぼくは物凄く感銘を受けたんだ。同じ学年にこんなことを考えている人がいるなんて、と思ったね。今でもあの挨拶を覚えているということは、きっとそういうことだろうね」
「……ああ、どうも……です」
私は汐崎くんと目を合わせられなくて、手元に視線を落とした。
自分の好いていない部分に真っ向から気持ちをぶつけられると、どうしていいかが分からない。素直に喜べないんだけど、いやでは無いというか。耳とか頬のあたりが熱くなっているのが分かる。
「それはそうと、宝は見つかったの?」
「……は?」
「一応は小宮山さん自身が言ったことじゃないか」
「いや、そうだけど……」
具体的に訊かれていない分、返事には困らないけれど……。
私は少し考えて、さりげなく言った。
「宝はもう少ししないと手に入らないかも。でもきっと近くにあるはず」
「手を伸ばせば届くくらい?」
「多分」
「いいね、目に入る範囲に宝があってさ」
「汐崎くんは違うの?」
「宝を目標と言い換えるなら、その目標は雲の上だろうね」
「さては……」
「もちろん、高校受験さ」
「勉強だけじゃなくて、思い出や友人関係にも目を向けた方が良いと思うな」
「おお、今日は厳しくないね。小宮山さんもついに無勉強の境地に辿り着いたか」
「極端だなぁ、汐崎くんは」
「冗談冗談。大丈夫、ちゃんと確実性のある宝にして、五年十年、いやもっと経っても輝き続ける宝のためにぼくは頑張るよ。たまには努力しないとね」
彼は情け無い笑いを浮かべながらも、そう言い切った。
パラパラと粒がぶつかる音がして、夕立が降り始めた。私は窓を閉めるために席を立った。
薄い一枚ガラスの窓を閉めると、ガラスに反射して私の顔が映っていた。
その顔にはみるみるうちに水滴がついていき、ついぞ窓に鏡としての役割は失われてしまった。
私にとっての宝はすぐ近くにあるんだ。そのためにあの時からどうにかこうにやって来たんだ。あの時は、すごく救われた気がしたし、今でも忘れられない思い出だから。
……覚えてくれているだろうか、彼は。
反射光が判然としない鏡の中に、自分を見つけたみたく物思いにふける私がいた。
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