第15話 緑茶か紅茶か、それが問題だ

 一時期テレビをつければ、決まり文句のように『地球温暖化』という言葉が繰り返されていた気がする。言葉の意味が分からなかった当時のぼくは、その漢字の見た目や音の響きのせいで、地球温暖化とは怖いモノなのだと思っていた。

 そう、いつかぼくら人間は、煮立った大気と海の間で茹でダコのように真っ赤になって、イカのような宇宙人に食べられてしまうのだ。恐ろしき知的軟体生物大戦。

 なぜかそんな想像をしていた。


 けれど今は違う。

 いや、もちろん地球温暖化が重大な問題ということは理解している。ただ、世界全体の事を思いやれるほどぼくは器用じゃない。肌身に感じる身の回りの環境の方が、何倍も何倍も重要なのだ。イカ宇宙人が侵略してくるのは、どうせ何百年も先。未来の人々には申し訳ないけれど、どうかタコ代表としてイカ達を打ち破って欲しい。


 いやいや、こんなくだらない空想こそ、本当に重要ではない。いや、全く。

 いま真に重要なのは、それこそ地球の温暖化だった。


「近年の気候変動はいかがなものか!」


 ぼくは一人きりの部室で、あえて声に出す。

 梅雨が明けたと思ったら、急に夏が目の前に現れたのだ。

 それも真夏、常夏、日向夏。とにかく暑い。猛暑や真夏日といった語彙では表しきれない。現実が言葉を追い越して、ぼくら人間をあざ笑うが如く、襲い掛かってきているのだ。ちょうど夏日、もとい超弩夏日くらいの語彙の補填が必要だと思う。

 まぁ、つまるところ物凄く暑くて、物凄くムシムシしている。

 ぼくが小学生の頃はこんなに暑くはなかった。両親に訊いても、昔はここまで暑くなることなんて無かったという。朝のニュースに出ていた天気予報士も、前代未聞とか空前絶後とか言文一致とかなんとか言っていた。感覚的な問題では無く、周囲の環境が変わっているのはやはり事実らしい。


 ぼくは制服のワイシャツの袖を肘の所まで折り上げた。5月の終わりころに衣替えがあったので、薄手の生地になってはいるけれど、それでもやはり暑い。半袖のワイシャツはどうにもぼくの性に合わないので、長袖をきらした時くらいしか出番が無い。けれど、今日だけはそんな自分のこだわりがとても憎かった。

 時代錯誤も甚だしく、エアコンが未完備の第二家庭科室で、ぼくは天井に着いた扇風機の電源を入れた。頼りない音を立てて羽が回り始める。設定『強』には到底満たない風が肌に当たる。仕方なく、ぼくはひんやりとしたテーブルの上に軟体動物みたく伸びてみることにした。


 PTAの集会か、教師の勉強会か何かのせいで、今日は授業が午前中に終わった。給食も無いので、当然部活は休みになるものかと思っていたら、小宮山さんの考えは違っていた。


『弁当を持ってこればいいじゃない。中間テストが近いことだし、勉強しようよ』


 昨日の小宮山さんはこうおっしゃられた。

 正直、この部活に弁当を持ってきてまでやる意義は無いと思う。勉強をすると言っているだけで、部活をやるとも言っていないし。

 だけど、ぼくはわざわざ口出ししなかった。

 もしかしたら、小宮山さんがぼくの分のお弁当を持ってきてくれるかもしれない。

 そんな期待が頭をよぎったのだ。さすれば、やっと念願がかなう。小宮山さんの手料理を食べるという願いが。


 しかし、ぼくのにわかな期待は一瞬で霧散して、気体になって空気に溶けてしまった。


『もちろん、汐崎くんは自分でお弁当を持ってきてね。私が作っても良いかなとも思ったけれど、この時期は食中毒が怖いし、何かあったら責任取れないからね』


 そういう事なら仕方ない。ぼくは泣く泣く、夕飯の残りと適当に見繕みつくろった炒め物を弁当箱に詰めることにした。ただ『私が作っても良いかなとも思ったけれど……』という言葉を聴けただけで大収穫である。いつ訪れるか分からない運命の日を、ぼくは首を長くして待つことにする。ただ一つ、アフリカの哺乳類がキリンに進化するほどの月日が経たないことを祈るばかりだ。


 不意に扉が開く音がした。


「いやぁ、今日は暑いねぇ。部活しないで帰れば良かったね」


 何とも本末転倒なことをのたまいながら、言葉とは裏腹に涼し気な表情の小宮山さんが扉から顔を覗かせた。見事な黒髪がサラリと垂れ下がる。


 ぼくがあいさつ代わりに手を上げると、小宮山さんは応えるように左手に持った巾着袋を持ち上げてみせた。右手には何故か二本のペットボトルが窮屈そうに収まっている。


 いつもの席に腰を下ろすと、小宮山さんは言った。


「汐崎くんはちゃんとお弁当を作って来たのかな?」


「一応ね。在りものを詰めただけだけど」


「ふーん、今のところ及第点ってところかな。まぁ急な話だから甘目に採点するけど」


 ――おいおい、弁当を評価するなんて聞いていないぞ。勝てっこない。


「さ、採点とは言ってもさ、食べられないんじゃどうしようもなくない?」


「確かに……自分で食中毒が云々言っておいて、さすがに浅はかだったね」


 そう言うと小宮山さんはしょんぼりしたように口をすぼめた、と思ったらフフフと笑う。今日の小宮山さんは随分と演技派らしい。


「端からお弁当は議題じゃないんだよ。ほんの冗談なのですよ」


「議題とはまた大層な……」


 ぼくがぼやくのを後目に、小宮山さんは手に持っていた二本のペットボトルをテーブルの真ん中あたりに置いた。ご丁寧にラッピングをぼくの方に向けてくれる。


 促されている気がして、二本のボトルに注目することにした。

 一本は緑茶。抹茶が入っていると謳っていて、特有の濁りを売りにしているらしい。自販機で緑茶を買うならば、ぼくは十中八九これを選ぶだろう。

 もう一本は紅茶。安直にアフタヌーンティーを直訳したようなものでかなり飲みやすい。いくつかある種類の中ならミルクティーが好きだけど、件のそれはストレートの無糖だった。


 小宮山さんは品定めをするような目つきをして言った。ただ、その視線は二本のお茶じゃなくてぼくに向いているようだった。


「汐崎くんはどちらが好き?一本あげるよ」


「え、ありがとう。うーんじゃあ……緑茶……かな?」


「はっきりしてよ」


「緑茶が好きです!」


「えー私も緑茶がいいなぁ」


「えーと言われましても……」


 小宮山さんは頬を膨らませてちょっとムスッとする。さりげなく指先で紅茶のボトルをぼくの方に押してきた。どうやら早々に強硬手段に及ぶらしい。押し付ければ、ぼくが受け取るとでも思っているのだろうか。アメリカの警察でもここまで早く手は出さないぞ。

 ぼくもムキになって押し返す。人差し指同士が紅茶を隔てて相撲を始めてしまった。中々押しが強くて、びくともしない。このままでは、二人乗りした自転車で空を飛ぶくらい無謀な挑戦にだって、躊躇しない程度の絆がぼくらの間に生まれてしまうだろう。まさに良いティー。なんちって。

 少し戸惑いつつ、ぼくからも仕掛ける。

 緑茶のペットボトルを気付かれないように掴む。が、それは小宮山さんも考えつくこと。二人で二本のペットボトルを押したり引っ張ったりと、少々複雑な叩いて被ってジャンケンポンのような構図が生まれてしまった。


「ねぇ小宮山さん。これってこんなにムキになること?」


「ううん、違うと思う」


「ですよね。ならば、いったん休戦にしませんか」


「ええ、いいでしょう」


 なぜか事務的なやり取りを経て、両手の力が抜ける。小競り合いのせいでペットボトルの包装はクシャクシャになってしまったし、なんならボトルは凹んでしまって塑性変形している。懸かっているモノの価値と比べると、あまりに不釣り合いな緊張感が横たわっていたけれど、度を過ぎた暑さのせいで、それもうやむやになった。額にも鼻の頭にも汗が滲んでしまった。


「で、なんでお茶を持ってきてくれたの?」


「うーん、特に深い理由は無いんだけど、しいて挙げるなら今日が暑いからかな」


 小宮山さんはお弁当を広げながら言った。ぼくも釣られて弁当を取り出す。


「それだけ?」


「まぁ、こんな日に部活に付き合わせてしまったお詫びだと思ってくれればいいよ

「なるほどね」ぼくは冷めたごはんにふりかけを掛ける。


「もらう側でこんなこと言うのはおこがましいと分かっているんだけどさ、二本とも同じお茶にすればよかったんじゃない?そもそも選択肢が無ければ、争いは起こらないんだし」


「悔しいけど一理あるかも」


 おかずのハンバーグをつつきながら小宮山さんは言った。ちょいとお弁当箱を覗き込むと、なんとも色鮮やかなメンバーが並んでいる。小宮山さんの気質を考えれば、おそらく全部自分で作ったのだろう。恐ろしく手が込んでいるように思えた。


「なんで汐崎くんは緑茶が好きなの?」お弁当に夢中の少女は果たして興味なさげに言った。「これまでそんな素振りを見せたことが無かったじゃん」


「それを言うなら小宮山さんもだけどね」


「いいえ、私は毎日『緑茶が好きですよー』みたいな顔をしていたよ」


「そりゃあ初耳だ。じゃあ昨日、文庫本を読み終わって、いかにも物思いにふけっているように見えたけど、あの時は?」


「もちろん『ああ、この読後感には熱い煎茶が合うだろうなぁ』って思っていたよ」


「ぼくはメンタリストじゃないから、そんなことは分からないねぇ」

 と、精いっぱいの呆れ顔を作って抗議してみる。


 けれど小宮山さんは懲りていないようで、

「今だって「どうしても緑茶が飲みたい」という感情を必死に表現しているんだから」となぜか頬を膨らませた。


 どう見ても駄々をこねているようにしか見えないのだけど……。


 ややあって。


「で?もう一度訊くけれど、何で汐崎くんは緑茶が好きなの?」と小宮山さんは言う。


「ええと、特に深い理由は無いけど、普段ぼくが家で飲んでいるお茶が紅茶だからかな」


「その心は?」


「うまく伝わるか分からないんだけど、ぼくの中では紅茶が大量消費用で緑茶はここぞという時だけ、と決めているんだ」


 理解はできるかも、と小宮山さんは不意に鞄を漁りだした。

 そして「普段の授業とテストの時で、使うシャープペンを替えるみたいなことでしょ?」と、筆箱から二本のシャープペンを取り出して見せて来る。

 どう見ても同じデザインをしていて、違いは分からない。あまりにも同じ物体だったので、いくら聡明な小宮山さんであってもこの二本の違いは分からないのではないか、と雑に想像してみる。


「まぁその例はそこそこ的を射ていると言っても良いね。しかしながら、ぼくの場合はもっと高尚な区別なんだ」


ぼくは腕を組んで勿体をつけた。


「ぼくが緑茶を飲むのは、ちょっとお高い和菓子をいただく時か、来客があった時だけなんだ。つまり特別な時だ。いや、もちろん他の時に飲んでも良いじゃないかと思うかもしれない。ただね、好きなモノを手に入れられるという贅沢が、頻繁に存在したら、それはもう贅沢では無く日常なんだ。ありがたみなんてあったもんじゃないね」


「へ、へぇ……」


 どうやらぼくの熱弁は五割も届かなかったようだ。

 小宮山さんは首を傾げて、いぶかしげな表情になったのだ。


「と言うことは、私が持ってきた何の変哲も無いペットボトルの緑茶は、汐崎くんの言うところの特別なモノに該当するんだよね」


彼女の鋭い疑問がぼくの胸に突き刺さる。


「なんで?」小宮山さんの目の色が変わる。


「ええと……」

 と、いつものように焦って釈明するところ、ぼくはグッと持ちこたえた。

 正直、危ないところではあったけれど。


 ぼくは一旦冷静になる。

 ここで取ってつけたような理由や言い訳を申し並べたところで、なんとなくぼくが負けた感じになるのは目に見えている。なんとなく、本当になんとなく敗北を喫する気がするのだ。


 そう、妙に慌てた様子から却って悟られてしまうに違いないのだ、

 ――ぼくが女の子から何かを恵んで頂くという状況を、この世の贅沢の一つみたく嬉しいと感じる気持ちの悪い奴であると。


 相手が小宮山さんなのだから、なおさらだ。

 ならば、大人な対応をするべきである。たとえぼくが本当に気持ちの悪い奴だったとしても、時には開き直ることも大切なのだ。


「小宮山さんが何かをくれるなんて珍しいことだからね。それはもう特別な事さ。だったら好物の緑茶が飲みたくなっても不自然ではないと思うね。今日は暑いし」


「別に不自然だなんて言っていないけど?」


「あ、しまった……」


「何が『しまった』なのよ」


 完全に墓穴を掘ってしまった。人間少しでもやましいことがあると、饒舌になってしまうらしい。余計なことを口走ってしまった。


 疑り深く目を細めた小宮山さんは、表情を変えずに、最後に残していたらしいキャンディーチーズの包みを解く。


「まぁ、また今度お返ししてくれれば、どっちでもいいよ、私は別に」


「もちろんだよ。流石にタダ茶を乞うほど、ぼくは落ちぶれてはいないさ」


「タダ飯じゃないんだから……」


 そう言って小宮山さんは、丸いチーズを口に含んだ。

 ぼくもデザートとして持って来た輪切りのキウイを口に入れる。甘酸っぱい味が口の中に広がった。普段は好んで食べないけれど、悪くはないと感じる。


 しばらく黙々モグモグと咀嚼を続ける。

 何気なく小宮山さんを眺めてみる。ぼくがあれだけ暑さに喘いでいたというのに、彼女は汗一つかいている様子が無い。ぼくが暑がりなのか、それとも小宮山さんが特殊体質なのか。なんとも計り知れない。


「ごちそうさまでした」


 いつの間にか小宮山さんは昼食を終えていたようだ。かく言うぼくの弁当箱も空になっている。ぼくは急いで弁当箱を片付けることにした。


「さーてと勉強しようか」


 小宮山さんは、んーっと伸びをすると、自然な流れでペットボトルに手を伸ばした。

 そして、蓋をひねって開け、口をつけた。結露した水滴がボトル表面を滑らかに流れ、陽光に反射してきらりと光る。


 画になる光景。

 一つだけ文句をつけるならば、それが緑茶のボトルだったことだ。


「ちょ、ちょっと待ってよ小宮山さん!さっきの話の流れなら、ぼくが緑茶を手にするんじゃあないの?なんで勝手に飲んでいるのさ!」


「あ、しまった」


「何が『しまった』だ!」


「まぁまぁ、世の中にはただ一つの真理があるんだよ、汐崎くん」


 小宮山さんは爽やかに微笑んだ。


「早いもん勝ち、と言う絶対的真理がね」


「そんなぁ!」ぼくは軽く憤慨する。「ぼくの特別ががが……」


「じゃあさぁ……」


 小宮山さんは笑いながら、不意に緑茶のボトルの口をぼくの方に向けて来た。湿った飲み口が微かに揺れている。


「これ、いる?」挑戦的で魅惑的な瞳がぼくを見据えて来た。


気温なんて目じゃないほどに体温が上がる。まさに、発熱、常夏、ココナッツ。


「こ、このぉ……」


 喉から手が出るほどに飲みたい。色々な意味で。

 だけど、ダメだ!理由を述べるなんて鬱陶しいくらいだけど、失望されてしまうのは確実なのだ。挑発に乗ってはいけない!沸き上がる本能を、沸騰しかかった理性で抑えつける。


「の、飲んだら、失望されることが見え透いているトラップなんて踏まないぞぼくは!!」


 ぼくは半ばヤケクソに紅茶を手に取り、がぶ飲みする。


「あはは、冗談だから、そんなに必死にならなくても」


 小宮山さんは砕けて笑っていた。心底面白がっているようだった。


 梅雨明けに到来した真夏。暑すぎる教室。差し込む眩しさ。笑う少女。

 強引に胃に流し込んだ紅茶は、心なしか涙の味がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る