第14話 勉強をすれば将来は明るいか。
「やぁ
唐突に
びっしりと英文で埋まったノートを眺めながら、ぼくは少し前の事を思い出す。
小宮山さんより早く部室にやって来たぼくは暇を持て余していた。
ぼくの親友、もとい文庫本はあいにくカバンの中にいなかった。昨日読み終わって、カバンから出したまま、別の本を忍ばせることを完全に忘れていたのだ。不覚だ。古本屋で安く買い叩いた積読本が、家の勉強机の上を支配してしまっていると言うのに……。きっと読み終わった本が、印象に残らなさ過ぎたのだろう、と暴論を展開してみる。たくさん買えば当然ハズレもある。一種のギャンブルなのだ。
さて、仕方なく手慰みとしてペン回しをしていたところ、どうやら変なスイッチが入ってしまったらしい。先月行われた忌々しい中間テストの点が芳しくなかったことを思い出してしまったのだ。それもこれも、あまりに問題が解けなくて、テスト中にペン回しをしていたからだった。それに、これまた忌々しい担任に厭味ったらしいお小言を言われたこともあって、ぼくは渋々勉強をすることにした。
何を隠そう、ぼくの得意科目は社会と国語だ。
英語はそこそこ。大の苦手なのは理科と数学。
おそらくぼくは典型的な文系人間なのだろう。
言わずもがな、中間テストで足を引っ張って、ぼくに泥水を啜らせたのは、数学と理科だった。すなわち期末テストに向けての理系科目の強化が急務だったのである。
但し、今やっていたのは英語の宿題。短い時間で苦手な科目に取り掛かるほどの気力は無い。まして得意科目は特段の勉強を要していない。つまり自然な選択だった。
そんな英語の書き取りの宿題に、ぼくは思いのほか熱中してしまったみたいだった。
なにせ小宮山さんが部屋に入って来たことにすら、気が付かないほど集中していたのだ。
「ああ、小宮山さん。こんにちは」
と何気なく返して、ぼくは声のしたほうに顔を向けた……。
「って近いなぁ!こりゃあまずいよ!大革命だ!ナポレオン!」
ぼくは驚きのあまり、自分でもよく分からないことを口走ってしまった。
理由は言うまでもない、ぼくのすぐ右隣に小宮山さんの顔があったからなのだ。
距離にして30センチあるかないか。瞬きから口元の動き、呼吸の流れまで、すべてが感じ取れそうな距離感だった。まさに相合傘のシチュエーションか、もしくは同性でスケベな内緒話をする時の距離だったのだ。もちろん、ぼくはどちらの状況にも出くわしたことが無い。ぼくは清純派で名を通しているから当然の事である。
仄かに花のような良い香りがして、何だか良くないことをしている気になってしまう。
ぼくは自分の中の何かが外れる前に、上半身を後ろに反らすことにした。
「なに驚いているの?変な汐崎くん」
小宮山さんはニヤリと悪戯な笑みを、その端正な顔に浮かべる。
「私の顔に何かついてる?」
ついているついていないで言えば、多分小悪魔が憑いているに違いない。とぼくは思う。ぼくを惑わせる悪い憑き物は即時祓わなくてはならない。さもなくば、ぼくはいともたやすく篭絡されてしまうだろう。エクソシスト急募である。
……既に虜にされているではないか、という正論はぼくの耳には入らないぞ。
小宮山さんがいつもの席に座るのを見届けて、ぼくは胸を撫でおろした。
「いや、その……予想外に近かったからね、驚いただけだよ」
「じゃあ次はもう少し違ったアプローチにしてみようかな」
「なんだか怖いから、勘弁して頂きたい」
「隙を見せる方が悪いのです」
「好きで隙だらけになっている訳じゃないんだけどなぁ」
小宮山さんは鞄から筆記用具やらを取り出しながら言った。
自然と仕草の一つ一つを追いかけてしまう。
「そう言えば、遅れちゃってごめんね」
「いやぼくは別に問題ないよ。いつも遅れているのはぼくの方だからね」
「それもそうね」
「で、何かあったの?」
「え?修学旅行の係会だよ」
「……え?」
予想外の返答にぼくは固まる。変な汗が額と背中を伝うのが分かる。
大切な係会を無断欠席なんて……完全にやってしまった、把握漏れだ。
あの担任にまた色々言われてしまうに違いない。嫌だなぁ。懲り懲りだなぁ……。
ぼくの様子なんて気にも留めず、小宮山さんは飄々と続けた。
「各クラスの統率係が皆集まるはずなのに、汐崎くんは居なかったね。大事な話し合いだったのに」
「き、聞いていないぞ、係会があるなんてぼくは」
「居眠りでもしていて、連絡を聞き逃したんじゃないの?汐崎くんのことだし」
「そ、そんなぁ!」
「あーあ、顧問の先生怒っていたなぁー」
「……頼んます、嘘だと言ってくださいまし」
「うん。嘘」
「…………」
「全部嘘」
「……………………」
「雨のち嘘」
「………………………………」
もう、絶句だ。五言でも七言でもない。もちろん律詩でも。
今日の小宮山さんはぼくの寿命を縮めにかかっているらしい。驚きやらドッキリは本当に心臓に悪い、小宮山さんの言う事なら、ぼくが全て信じかねないことを、彼女が理解しているだろうというのも中々に度し難い。
「小宮山さんはぼくを早死にさせるつもりなの?心拍数がえげつないビートを刻んでいるんだけども」
「まぁまぁ抑えて抑えて。ちょっと、お灸を据えようとしてのことだよ」
「お灸?また古風なことで」
「汐崎くんにはお灸なんかよりも厳しいお仕置きが必要かもね」
小宮山さんはわざとらしく怒ったような表情を作ってみせる。そしてすぐに口元を綻ばせた。
「さっきの事なんだけど、ちょうど部活に向かう途中で汐崎くんのクラスの担任に会ったんだよね。そしたらさ『最近一段と汐崎の成績が悪くてな、俺の方からは散々言っているんだが一向に変化が無い。だからキミの方からも何か言ってやってくれ』と言われてしまったのですよ」
決して似てはいない担任の口真似が、妙に皮肉っぽく聞こえる。
「あの野郎、余計なお世話を……」
「担任の先生を野郎呼ばわりするような人には、やっぱりお仕置きが必要だね」
「もう担任のお話は結構。おなかいっぱい大満足だよ」
ぼくは数多のお小言を思い出して、ため息をついた。
「それで?ぼくを懲らしめようと驚かせたわけ?」
「うん、良い線いってる」
「だったら、最初の接近は完全に悪手だよ。あれほどまでに勉強に集中していたんだから」
「あれは私も予想外だったよ。あの汐崎くんが例を見ない集中をしていたからね。別人かと思ったよ」
言葉の節々に鋭い棘を含ませて、小宮山さんは微笑んだ。
ぼくは苦笑いを返すことしか出来なかった。
「汐崎くんって理系科目が苦手だったよね?」
「よくご存じで」
「それも赤点ギリギリのレベルで」
「流石にそこまでじゃないよ!」
「でも平均点には届かない、と」
「ぐぬぬ、間違っていないのが辛い……」
「国語と社会はトップクラスに得意らしいのにね、残念と言うか、汐崎くんらしいと言うか」
小宮山さんは手に持ったシャープペンをぼくに向けて言った。少し伸びた前髪の隙間から見える大きな眼には、どんな思惑が潜んでいるのだろうか。
「いいよ、私が勉強に付き合ってあげるよ」小宮山さんはさらりと言った。
「それはつまり……ぼくに勉強を教えてくれると?」
彼女の突飛な提案にぼくは耳を疑う。
「受験は団体戦とも言うからね。人に教えた方が勉強になるらしいし」
「そ、それは……」ぼくは息をのむ。
小宮山さんはどの教科もトップクラスに成績が良い。特に理系の科目には目を見張るものがある。出どころは分からないけれど、既に高校の勉強にも手を付けているという噂があるやら無いやら。小宮山さんについては、ぼくですら知らないことが多すぎる。
「ひ……」
「ひ?」小宮山さんはキョトンとする。
「非常に助かるよ!小宮山さんが教えてくれれば百人力だよ、怖いモノなしさ!」
嬉しさのあまり、少々声が大きくなってしまった。
そのせいで、
「ああ、喧しいなぁ……」と言われ、ジト目で睨まれてしまった。
簡単に謝ると、彼女は表情を変えずに頬を膨らませる。慌てて追加の謝罪の語彙をあいうえお順に並べると、小宮山さんはプッと噴き出して「もういいから」と笑い交じりに言った。
「どうせ同じ部活にいるんだからそのくらいはね」
小宮山さんは、数学の問題集をパラパラとめくる。
「そもそも、これだけ部活中に宿題やら課題をやってきて、勉強を教え合わなかったことが不思議かも」
「それもそうだね」
「まぁ1年間もあれば、汐崎くんの苦手も払拭できるかな」
「1年間?」ピンと来なくて訊き返す。
「ほら来年は高校受験じゃない」
「ああ、なるほど」
「ほら、もちろん同じ高校を目指すわけじゃない私達。だったらちゃんと勉強しないと」
「ん?」
――どういう事だ?同じ学校?
ぼくの頭上に浮かぶクエスチョンマークを認識したのか、
「ち、違うの?」と、小宮山さんは戸惑ったように手をパタパタと振る。
顔はちょっぴり赤いし、挙句、目が屋台の金魚くらい激しく泳いでいる。
余程、ぼくの反応が予想外だったらしい。
「ほ、ほら、この辺りの進学校って一つしかないじゃない?ね?」
「ああ、確かに」
ぼくらが住む町は田舎だ。都会の学生ほどの選択肢があるわけじゃない。別に電車を使えば幾らでも選択肢は増えるけれど、そんな未来は今のところ想像できない。地元での生活しか知らないぼくには。
明確な選択肢を目の前にしなければ、ぼくは選び取ることが出来ないだろうと思う。ぼくはいつだっていつまでたっても、優柔不断だし、フラフラしている。
「分かったよ。同じ高校を目指そうか」ぼくは軽い気持ちで言った。「将来なんて全く分からないけれど」
「言ったことは、実行しないとね、汐崎くん」妙に彼女の語気は強い。
「出来る限りを尽くしたいと存じます……」
ぼくがそう絞り出すと、小宮山さんは、
「くれぐれも私を失望させないでよね」と、腕を組んで言う。
若干の上目遣いがぼくに突き刺さる。得も言われぬ感覚に陥る。
そんな彼女を前にしてぼくは漠然と思うのだ。
こんな日常が高校でも続くのならば、頑張ってみてもいいかもしれないな。
中学生活も半ばなのに、こんなことを思うのはまだ早計過ぎるだろうか。いや、将来のことは分からないのだ。ちょっとした想像と妄想と夢くらいなら、好きにしたって許されるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます