第13話 閑話休題 出会い

 今日も雨が降っている。

 ガラス窓には細く枝分かれした水の流れがいくつもあって、意図しなくてもその存在を確かに認識することができた。

 第二家庭科室の窓から見える空は鈍色にびいろをしていた。水彩画を描き終えた後の水バケツをひっくり返してしまったのではないか、そう思わせる光景だ。だけど『バケツをひっくり返した』という表現とは対照的に、雨脚は強くなくてシトシトとした雨だった。傘一つあれば濡れることなく家に帰ることが出来るくらい。鞄の中身や翌日の体調不良を考えなければ、雨具など無くとも問題ないだろう。

 ただ、問題なのは、この雨が4日も続く梅雨の長雨だったことなのだ。突発的な弱雨であれば、雨嫌いのぼくでも少しくらいは明るい気持ちで受け入れることが出来たのに。ちなみに頭痛対策は完璧である。痛み止めを開発してくれた偉大な科学者様には頭が上がらない。


 ピシッという音を立ててシャープペンの芯が折れる。こう沈んだ気持ちでは、な勉強がちっとも捗らない。まして数学などは言うまでもない。ぼくは10分ほど悩んだ図形の証明問題を諦めて、ノートの上にうつ伏せになった。

 ふと耳を澄ますと、サーという音に気が付いた。ひとたび興味をそそられると、集中は削がれて、心は捕らわれてしまう。目を閉じて耳に集中することにする。

 これは、きっと窓や校舎に当たる水滴の音だろう。沢山の雨粒が立体物にぶつかって、上空から保っていた形状を崩し、音の際立ちはあやふやになる。そうやって、不明瞭な音の粒が雑多に集約されるので、のっぺりとしたノイズのようにも聞こえるのだ。

 さながらホワイトノイズ。

 ぼくはこの類の音を聴くと途端に眠くなってしまうのだ。そう、例に漏れず今も。

 理由はよくわからない。何故だか安心する。

 やかましい音を優しく遮ってくれるからだろうか。

 そう言えば、以前にテスト勉強に集中しようとして、小宮山こみやまさんにお勧めされたアンビエントミュージックのCDを流したことがあった。幸か不幸か、ホワイトノイズのトラックが流れはじめてしまい、快適な睡眠にいざなわれてしまった。もちろん勉強どころでは無かった。ちなみに翌日のテスト時間もこんな感じの雨が降っていたので、テストの点はお察しの通りだ。むむむ、小宮山さんに抗議するのは今からでも遅くないだろうか。


 などと、色々考えているうちに、上瞼が重力に逆らえなくなってきた。きっとここが月だったなら、この6倍は瞼が軽かっただろう。そして頭の冴えたぼくは、月の地平線に浮かぶ母星を眺めて思うのだ。『地球は青かったし、ぼくは眠かった』と。

 ああ、妙に想像がリアルな映像を伴っている気がする。お迎えにやって来た睡魔は酷くせっかちらしい。いつもならば、小学生の頃に図鑑で見てトラウマになった、フュースリーの夢魔を思い出して目を覚まそうとするところだけど、今日は別だ。逆らう努力もしたくない。何度も言うけれど、ぼくは眠いのだ。我が睡眠を何人たりとも妨げるなかれ……。


 部活はとうに始まっているけれど、小宮山さんはまだ来ていない。いつもの特等席は人恋しそうに収まっている。ホームルームが長引いているのだろうか。それとも月に行ってウサギとワルツでも踊っているのだろうか。だったらぼくも混ぜて貰いたい。いや、優雅に踊る小宮山さんを目の端に入れつつ、お節介なウサギがついてくれたお餅を頬ばった方が楽しいかもしれない。中秋の名月にはまだ3カ月くらい早いけれど。

 と、ぼくは判然としない頭で考える。

 まぁ遅刻と居眠りなら十分イーブンな対決だろう。むしろ居眠りの方が健康にいいのでマシまである。もっと言えば、小宮山さんが来るまでに目を覚ませば、居眠り自体無かったことと変わりない。うん、早い所寝て、なるたけ早く目を覚まそう。


 ぼんやりと見えていた薄暗い教室は、とある瞬間に真っ暗になった。


 ***


 意気揚々と『お料理研究部』の部室の扉を開けると、身に覚えのないほどに沈み込んだ空気があふれ出て来た。地面を這う濃い紫色の気体は粘っこくぼくの足に纏わり着くようだった。あまりの陰鬱さのせいで、自分の比喩表現と現実に起こっていることを錯覚しかけてしまう。

 あのー、と声を掛けてみると、奥の方で猫背になって座っていた部長が、驚いたようにぼくの方を見てきた。ペットショップのケージの中で怯えて震える子犬みたい。それが部長に対する印象だった。


 部長は目に見えて慌ただしくぼくの方に駆け寄ってくると、口元に手を添えて小さく言った。


「汐崎湊人くんだよね?ええと、非常に申し訳無いんだけど……」


 もごもごとした言葉に続いたのは、衝撃的な一言だった。


「君はもうこの部活の部員じゃないんだ。本当に申し訳ない」


 ぼくの思考は、少なく見積もっても20秒は機能を停止してしまった。謝罪らしき取り繕いの言葉が片耳から入って、反対側の耳から抜けていった。変身ヒーローが一生変身スーツを外せないと知った時くらいの衝撃だった。


 それにしても酷い話だ。

 学校を休んでいる間に退部させられてしまうだなんて。理不尽を通り越して……ああ、上手い言葉が見つからないけど、とにかく滅茶苦茶だ、こんなのって無いよ。

 ぼくは悲しみを通り越して呆れてしまった。それと同時に、この理不尽の理由を問い詰めてやらなくてはいけないとも思った。ぼくは少々激怒した。かの邪智暴虐の王を除かねばならない、と言う心持ちにすらなった。


 ぼくが何も言わずに睨んでいると、げっそりした顔の部長は決まり悪そうに続けた。 


「ええと正確な情報を伝えなければいけないね。実は別の部活に移って貰うことになったんだ。この学校は全員がいずれかの部活に所属しなくてはいけないからね」


「そのことは知っています。ぼくが知りたいのは、なぜこの部活を辞めなければならないのか、という事です」


「い、いやぁ……」部長の歯切れは悪い。


「ただ、一つ誤解しないで欲しいのは、この状況になったのは君のせいでは無いんだ。そう、僕達が負けたのが悪いんだ」


 ――負け?この人は何を言っているんだ?料理部の敗北とは……調理失敗?季節大外れの毒キノコでも食べたのか?鶏肉への火通しが不十分だったのか?


「……とりあえずぼくはどこに行けば良いのでしょうか?」


 ぼくはあくまで冷静に言った。生来、ぼくは争いを好まない人種なのだ。できるだけ平和的解決を望む。と言うか、早くこの陰鬱な部室を離れたかった。ほかの部員たちの目線が読めなくて、中々不気味だったのもあるけれど。


「「第二家庭科室に行けば全部わかってくれるはずだ。本当に申し訳ない」


 去り際、部長は脂汗を額に浮かべていた。汚い話だけど、その脂を冷やして固めれば、そこらの背油には負けない量が取れるだろう。将来の部長は、おそらく背油系のラーメン店で湯切りに奮闘しているに違いない。ぼくはそのお店を訪れては、半チャーハンと餃子で長時間粘ってやるのだ。今決めた。


 ぼくは仕方なく第二家庭科室に向かうことにした。

 泣いても喚いても問題は解決しない。昔は幼稚園でも指折りの泣き虫だったぼくだけど、小学校を経て中学生になった今、泣くことは辞めた。男は強くなければいけない。そう約束したのだ、いつかの誰かと……ええと誰だったかな。

 と言うか今思えば、部長は全く悪くないじゃないか。まぁ行き当たり上、ぼくの精神的サンドバッグになってしまったのだな。部長に直接文句を言ったわけじゃないし良いか。ただ、邪智暴虐の王にしてしまったのは訂正するべきだろうな、一応。

 ぼくは第二家庭科室に居るであろう、かの二代目邪智暴虐の王を討たねばならない、という心持になった。ぼくに訪れるはずであった、かくも楽しき第一次お料理的青春をぶち壊した人間の顔を一目見なければ気が済まなかった。

 ぼくは潤んだ両目を袖で押さえ、口を横一文字に結ぶ。


 覚悟は……決まった。


 校内の地図を片手に、走ってはいけない廊下を全速力で駆け抜け、滑りやすい階段を二段飛ばしで駆けあがり、白髪の理科教師にぶつかりそうになりながら、何とか目当ての教室の前に辿り着いた。

 第二家庭科室。入学してから一度も来たことの無い教室だった。

 ぼくは高ぶる感情を押さえ込むように丁寧に三回ノックすると、静かに扉を引く。

 建付けの悪い扉の向こうからは、眩いばかりの光が溢れて来た。

 廊下が暗かったせいもあり、その明暗の差で目が痛くなる。

 しばらく目を瞑っていると、教室の奥の方から落ち着いた声が聞こえてきた。

 それは、どこかで聞き覚えのある声だった。


「こんにちは、汐崎湊人くん。この『第二料理研究部』に入部してくれてありがとう。非常に感謝しています」


 ぼくはその声のする方へ薄く開いた目を向けた。

 そこには学校の有名人、小宮山梓が居たのだ。人名覚えの悪いぼくでも、名前だけは知っていた。入学式の日の一件以来すっかり有名人なのだ。それにお料理研の入部の時にも確かに居た。

 穏やかな風が吹き込んで白いレースのカーテンが揺れる窓際の光の中で、彼女は長い髪をいじっていた。白い肌と細く長い手足、目鼻立ちの整った顔は磨かれた宝石のように輝いて見えた。


 おっと、いけない、いけない。

 彼女の佇まいに圧倒されそうになりながらも、ぼくは思いのたけを叫んだ。


「と、とりあえずどういう事か全部説明してくれ!この仕打ちはあまりに理不尽すぎる!」


「じゃあとりあえず、ごめんなさい。それとこっちに来て座ってくれませんか?ちょっぴり話しにくいです」


「こ、このぉ……」


 あまりに形式的な謝罪に怒髪天になりかけながらも、ぼくは言われるがまま、彼女の斜向かいに座ることにした。小宮山さんは終始にこやかな笑顔を崩さなかった。


「結論から言います。あの『お料理研究部』一年生の入部届の中から、無作為に一枚取り出した所、君の入部届が出たので、今きみはここにいるのです」


 ――まったくもって訳が分からない。


「まぁまぁこれから説明するから、そんな怖い顔しないでよ」


 どうやら感情が表に出ていたらしい。ポーカーフェイスは難しいな。まぁ感情を隠す気なんて毛頭なかったけれど。

 小宮山さんは悪びれずに話を続けた。


「実は私、自慢じゃないけれど物凄く料理が上手なんですよ。だから中学校でもお料理研究部に入ってもっと腕を磨こうと思ったんですけどね。あの部活の先輩達はてんでダメ。挨拶代わりにお料理勝負をしたら全部私が勝っちゃったわけなの。ついでに顧問の先生にもね」


「お料理勝負って何なんだ?さっきの部長も負けたとかなんとか言っていたけど」


 純粋な疑問を口に出すと、小宮山さんは、そんなことも分からないんですか?とでも言いたげにクスっと笑った。なんとなく癪なのでムスッとしてみる。


「そのくらいは想像できないですか?どちらがどれだけ危ない料理を作れるかの勝負です。アニサキス躍るイカ刺身とか、季節の毒キノコ鍋とか、あるいはミディアムレア鶏ももステーキとか」


「どれもが、およそ人類の食べ物の範疇に含めてはいけないモノだと思うなぁ!」


「一応、人類が発明した調理方法に則っているので、食べ物の領域内ですね」


「もはや、調理をしたということが、ただの言い訳にしかなっていない件について」


「無免許の先生が自信満々にふぐ刺しを出してきたときは、さすがの私も驚きました」


「冗談でも、中学校の部活で命のやり取りをしないでくれ!」


「やっぱり訂正します。毒キノコ鍋は冗談です。すみません」


「さも、寄生虫と生鶏肉と無免許フグは事実だったみたく言うな!」


「じゃあその三つも冗談に含めましょうか。汐崎くんはワガママですね」


「じゃあってなんだよ!真面目に答えてくれよ!」


 ダメだ。終始、この人の手の上で転がされてしまっている。さながらぼくは小さなサイコロだ。目の前の麗しき有名人は、とにかくサイコロの色々な出目を出して遊びたいらしい。この調子で居たら、5分としないうちにぼくの人となりを越えて、弱みまで握られてしまうに違いない。努めて冷静であらねば、足元を掬われかねない。


「で、本当は?くれぐれも真面目にな」ぼくは発音しっかり、口を大きく動かして言った。


 すると小宮山さんは少し残念そうに肩を落とした。


「なんて言ったら良いのでしょう。お題に沿った料理を作って、審査員が美味しいと評価した方が勝ちと言うルールで勝負しました。面白味に欠けますね」


「君の言っている面白味は随分スリル満点なようだね……」


 ぼくのぼやきを受け流すように、小宮山さんは柔らかに微笑んだ。

 そして小さくため息をつく。


「まぁ、その勝負で圧倒的大差をつけて勝ってしまったんです。満場一致で私の料理が選ばれました。鉄人もびっくりですね」


「は、はぁ……」


「だからあの部活にこれ以上居ても私に成長は無いな、と思いました」


「そりゃまた、随分と早い決断ですな。まだ中学校に入学してひと月くらいしか経っていないのに」


「自分でも早いとは思いましたよ。でも『料理のさしすせそ』すら知らない先輩がいたんです。あまりにお粗末だと思いませんか?失望ものですよ」


 小宮山さんは頬を上気させて言った。料理への思い入れが余程強いと見えた。


「分からないことも無いけど、部活辞めるほど?」


「伸びしろの無い所で三年間もくすぶるのは良い判断とは言えません。パンチェッタも腐ってしまいます」


「ま、まぁ一応納得はするけどさ。それなりに色々考えて新しい部活を作ることにしたと?」


「そう正解。意外と物分かりが良いですね。見直しました」


 どうも目の前の女の子は説明がヘタらしい。それとも意図的に誤魔化しているのだろうか。であれば相当の逸材だ。ただ、そんなことはどうでもいい。

 とにかくぼくをこの訳の分からない部活に引き入れた理由を問いたださなくてはならない。なぜ、この『ぼく』でなくてはならなかったのか。それが問題だった。


「よーし。一応、ここまでは理解した。険しい道のりだったけれどね」ぼくは演技っぽく、身振り手振りをつける。「それでだ。ぼくはまだ一番重要なことを聞いていない」


「正しいフランス料理の食べ方ですか?」


 あくまで、とぼけるらしい。

 悪手だと薄々気付いていながらも、ぼくは棒読みで乗っかった。


「……ほほう、ご享受できるのですか」


「ええ、いいでしょう。まず前提として、並べられたカトラリーは外側から使うんです。で、次に……」


「ええと、何かい?わざわざ食事のマナーを教えてくれるためだけに、ぼくを引き抜いたわけですかい?」


「汐崎くんがそれで良いのならば、そういうことにするけれど……」


「良いなんて一言も言ってなぁい!」


 危うく立ち上がってしまう所だった。衝動を両腕に込めて天井に向けて突き立てる。


 当の小宮山さんは, 

「万歳三唱?入部祝いにやってもいいけど、音頭は汐崎くんがとって下さいね」

 と努めて冷ややかである。


「悪かった。乗っかったぼくも悪かったさ。だから教えてくれ。」


 ぼくは振り上げた腕を前に伸ばして、説得を試みる。


「なぜ『ぼく』なんだ?この部活に引き抜かれたのが、ぼくでなければならないという必然性を説明できないのならば、納得しないぞ!」


「はぁ……」


「ため息つきたいのはぼくの方だよ」


「さっきも言ったのだけど、無作為選出ですよ」


「それが理由になっていないことはお分かりですね?」


「……分かりました、分かりましたよ。仕方ないですね」


 頬杖を突いた小宮山さんは、ちょっと怒りっぽく目を細めて、ぼくから視線を外した。


「私と汐崎くんは以前会ったことがあるでしょ?全くの赤の他人よりはいいかと思ったの。それだけ」


 ――以前会ったことがある?どういう事だ?


「い、いや、ぼくの記憶だと、君と会ったのなんて入部の時くらいだよ?あとはぼくが一方的に君を見ただけで……それこそ赤の他人だと思うんだけど」


「それよりも前に会ったことがあるんだけどなぁ……」


「小学生の時とか?うーんやっぱり覚えてないな」


「え、何ですか、覚えているのは私だけですか?ちょっと動揺を隠せないんですけど」


「ぼ、ぼくが悪いの?え、何かごめん」


「もういいよ。部活には入って貰うことだし。でもね……」


 小宮山さんはさらっとぼくの入部届を見せつけながら、はっきりと言った。


「正直、失望したよ。汐崎くんには」


 春のきらめく窓際でぼくは、ほぼ初対面の美少女に失望された。

 カミソリのような切れ味を伴った言葉は、ぼくの頬をかすめて、後方に落下した。

 運よくクリティカルヒットは免れた。なにせ本心で言っていないことは,容易に理解する事が出来たのだ。証拠に、彼女の顔には柔らかな微笑が浮かべられていた。


「えーあーその……一応、君の作った『第二料理研究部』だっけ?それには入るけどさ。他の部員とか活動内容を教えて欲しいなぁーなんて」


「他の部員は居ないですよ?他の人は引き抜いて無いし、勧誘ももちろんしてないです」


「うすうす気づいていたけど、やっぱり二人だけかい!」


 おっとすんなり受け入れそうになったけれど、二人だけの部活とは何事か。これは幸運であると言って良いのだろうか。学内の有名人、眉目秀麗で間違いなく人気が高い、そしてちょっぴり変わり者、そんな小宮山梓と同じ部活に所属するのだ。突然部活を辞めさせられたと思ったらこの仕打ち。ぼくの精神状態はジェットコースター並に乱高下だ。


 ちょっと難しそうな顔をして小宮山さんは続けた。


「部活内容はですねぇ……今のところ実習室は借りられそうにないから、それまでは待機ですね。学業に関する意見交換、もとい雑談でもしましょうか」


「お、おしゃべりするだけなら、別に前の部活でも良いじゃないか!」


「まぁまぁ、四の五の言わずによろしくお願いしますね、汐崎くん」


 そう言って,小宮山さんは笑いながら手を差し出してきた.

 ぼくは戸惑いながらも,その手を握り返した.


「よろしく,小宮山さん」


 まだ戸惑っているけれど、一つだけ確かなことがある。

 間違いなく、ぼくは運がいいし、恵まれているのだ。

 ここから始まる中学生活が楽しくないわけが無い。


 彼女の手のぬくもりはなんとなく春だった。


 ***


「……ぉい、おーい。いま丁度、部活中に寝ているとペナルティになる部活則を作っているんだけど。起きないと早速校庭20周だよ、汐崎くん」


 優しい声色から放たれる恐ろしい言葉、ぼくは纏っていた眠気のベールをかなぐり捨てて、飛び起きた。頭を上げると、いつもの席にすました顔の小宮山さんが座っていた。


「め、目覚めには悪すぎる冗談をどうも」


「まぁ、今日のところは私も遅れてしまったから、冗談のうちに留めておいてあげる」


「もし冗談に済ませなかったら、この部が陸上部になってしまうところだったよ……」


「冗談にも限度がありますから」


 なんと!夢の中で恐ろしい食中毒ジョークを言っていた小宮山さんが、冗談の適切な取り回しを学んでいるではないか!これこそ成長期の恩恵なのか。

 それに小宮山さんが丁寧語を使っていないじゃないか。ほんの短い夢で見ただけなのに、何だか違和感だ。というか、ぼくが小宮山さんに対して持っていた麗しいイメージは、あの話し方由来だったのか。合点がいった。かく言うぼくも、あのぶっきらぼうな話し方がすっかり抜けきっている。うーん、過去の自分を追体験するのはちょっとむず痒い。


「むむむ、人は一年経つとこんなにも変わるんだねぇ。しみじみだよ」


「どういうこと?」小宮山さんは疑問符を浮かべる。


「いや、こっちの話」


「ふーん」


 小宮山さんは、夢の中と変わらない黒髪を指先で回した。

 くるくると毛先を巻いて、離して、もう一度巻く。 

 小宮山さんはそんなことをしながら、見透かすような目つきでぼくを眺めてくる。

 何かを聞き出したい、そんな思考が漏れ出している。漏れ出るのが石油なら大問題。機密情報でも大問題。どうか、ところてんくらいで妥協して頂きたい。


「なにかよう?」


「さっき言っていた『こっちの話』とやらを聞きたいな、と思って」


「ああ、何だか昔の夢を見ていた……気がするんだ。それだけだよ」


「どんな夢?」


「とてつもなく理不尽だけど、まぁハッピーエンドな夢かな」


「ふーん、教えてよ」


「別に教えるまでも無いと思うよ」


「焦らすねぇ」小宮山さんはニヤリと口角を上げた。


「あ、ねえ見てあれ。雨漏りだよ」


 ぼくは何もない天井を指さす。話すのが面倒くさい話題で粘られても困るのだ。ともすれば、話題をずらすのが一番。多少強引だけれど。


「え、どこどこ?」


 あらら、運よく小宮山さんが釣れた。やはりぼくは運がいい。


「ほれ、あっちあっち」


 適当に指さす先を変える


「え、どこ?嘘ついてないよね?」


 そうは言いつつ、小宮山さんは律義にぼくの指の先を追いかけている。

 それはまるでレーザーポインタを追う猫の様。うむ、ちょっぴり、ほんのちょっぴりだけど可愛らしいと思ってしまった。

 そんな彼女を見ながら、ぼくはふと考える。


 ――一年前のぼくは、小宮山さんとぼくがこんなに仲良くしている所を想像できただろうか?


 夢は一年前の光景。 ぼくがうっすらとしか覚えていなかった思い出。

 そして、ぼくと小宮山さんの出会いで、この部活の結成の思い出でもあった。


 そうだ、一つ引っかかることがあった。

 昔に会ったことがあるとはどういう事だろうか?

 ぼくはまだ何かを忘れているのだろうか。

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