第12話 全部低気圧が悪い!

 その日の第二家庭科室には陰々滅々、さらには鬱々とした雰囲気が漂っていた。

 理由は至極明確燦々陽々。だけれど、原因の全てがそれによるものかと言われると疑問が浮かんでしまうのだった。

 その日は雨だった。強くも弱くもない雨。一年間に降る雨の約7割はこんな雨なのではなかろうかと思うほど、特徴の無い雨だった。小さな雨粒は校舎にぶつかって、あまり主張の強くないヒタヒタという雨音を立てていた。テスト中であれば気にならない程度の雨音だったし、湿り気さえ無ければかえって心地よいくらいだ。

 そしてそんな平々凡々とした雨によって、ぼくと小宮山さんは苦しめられていたのだ。いや、雨は副次的なものかもしれない。中学生のぼくに、細かいところは分からないのだけど。


 古くなった蛍光灯が目障りにちらつく室内で、ぼくと小宮山こみやまさんは自身の身体の思い思いの部位を押さえていた。ぼくから見た小宮山さんは、ちょうどヘッドマッサージをする風にして、両手で頭を押さえている、と言うか抱えていた。ただ、比喩のそれをしている時とは程遠い表情だったのだけど。かく言うぼくもわけあって、顎を両手で支えている。こと頬杖を繊細にコントロールする事には特段の注意を向けていた。


 悪戯に両目を泳がせていると、不意に小宮山さんと視線が合ってしまった。

 渋い表情でやや青白い顔をした小宮山さんは、はぁ、と小さくため息をついた。


「今日はもう部活を切り上げて帰る?」ぼくは間に合わせるように口を開いた。


「ううん、帰れない」小宮山さんはがっかりしたように口を尖らす。「だって私の傘、今日の登校の時に吹いた突風のせいで壊れてしまったの。だから帰りに差す傘が無いんだよ」


 朝の嵐のような強風を思い出して僅かに頷くと小宮山さんは、6時前には止むらしいからそれまではここにいるよ、と小さく溢した。


「傘くらいなら貸すよ」


「気持ちは嬉しいけど、そしたら汐崎しおざきくんはどうするの?どれだけ頑張って譲歩したとしても、汐崎くんが折り畳み傘を持っているようにも、置き傘をしているようにも思えないんだけど」


「……ぼくのことを『アリとキリギリス』のキリギリスみたいな奴だと思っているなら、それは心外だな。ちゃんと置き傘含めて三本あるよ」


「三本ってどうせ置き忘れた傘でしょ。あと人間の小ささで言えばアリの方がお似合いかもね」


「し、辛辣……」


 ちらりと時計に目をやる。未だ6時には程遠いし、雨脚が弱まる気配は感じられない。本当に止むのだろうか。


「とりあえずは6時まではここにいるかな。もちろん傘は借りるけど」


 小宮山さんは消え入りそうな声でちゃっかりしたことを言った。弱まるとは言ってもこの雨の中、どう帰るつもりだったのだろうか。小宮山さんが頭の上に鞄を構えて水たまりの上を駆けていく無邪気な姿……想像できない。実際にそんな場面があったら以外と画になりそうではある。


「ねぇ小宮山さん、さっきから言おうか迷っていたんだけど、随分頭が痛そうだね。大丈夫?」


「まぁ何とか。そう言う汐崎くんはあごに爆弾を抱えているようだけど?」


「あごよりは歯かな。短い導火線がシューシュー言っているよ」


 わざとらしくはにかむと、下あごの奥の方に痛みが駆け巡る。思わず顔を歪めてしまう。


「うわ、痛そう」


「イテテ。何でこう雨の日は体のどこかしらが痛くなるのかなぁ……」


 雨の日に傘をさすのと同じくらい自然に、素朴な疑問が口をついて出る。

 瞬間、小宮山さんの鈍い色をしていた目の奥に、僅かな明かりが見えたような気がした。思いもせず小宮山さんのスイッチを押してしまったらしい。小宮山さんが若干前のめりになったのが分かる。


「雨の日に身体が痛くなるのは、雨のせいじゃなくて低気圧のせいらしいよ」


「へー知らなかった。てっきり雨が降って湿度が高くなると、身の回りの空気の体積が膨らんで、身体がいろんな方向から押し付けられることで、痛みが出るんだと思っていたよ」


「近いような遠いような……ってその理屈だとプールやお風呂に入るだけで全身に激痛が走ると思うんだけど」


「なんと!ぼくは特異体質だったのか」


「じゃあなんで歯が痛んでいるんでしょうねぇ。大層、空気の読める特異体質だこと」


 眉間に寄せられた皺のせいで、いつもより三割増しにキツイ眼差しが飛んできた。反射で身を引いてしまう。リスやネズミくらいの小動物なら失神させることが出来そうだ。下手をすればぼくだって危うい。


「失敬失敬。それで低気圧と痛みには、どういう関係があるの?」


「私も詳しく知っているわけでは無いんだけど……」


 痛みを和らげるためか、それとも低気圧について思い出そうとしてか。小宮山さんは頭をワシワシしながら続けた。


「低気圧がやってくると身の回りの気圧が下がるわけじゃない?その気圧の変化を耳の奥にある器官が察知して、自律神経が乱れるんだって。あと、体内の水分バランスが崩れることも、身体に支障が出る原因らしいよ」


「おお博識。ただ申し訳ないけれど、ぼくのアリさんレベルの脳では理解できないや」


「せっかくの説明も汐崎くんの前では水の泡なのね」


「水たまりに落ちる水滴で泡が立ったら、雨の日も楽しくなるのになぁ」


「界面活性剤が降ったら世も末だよ。どこもかしこもツルツルテカテカよ……ってコラ。痛いからって現実逃避しない」


「ご、ごめん」


 雨音は先ほどまででは無いように感じる。シトシトシトシト……。小宮山さんが言った通り、弱まってはいるのかもしれない。ただ、日が暮れてきたせいで窓外はいっそう灰色がかってしまった。一人で居たら曇り空の閉塞感に押しつぶされるところだったろう。

 しばらくしばらく痛みに耐え忍んでいると、雨音を押しのけるように小宮山さんが口を開いた。


「低気圧で頭が痛むのはよく聞くけれど、歯が痛むってあまり聞かなくない?」


「そうかな?雨のせい……じゃなくて低気圧のせいだと思ってやまなかったんだけど」


「ただの虫歯がタイミングよく悪化したのではなくて?」


「まぁ確証が無いので、都合が悪いことを低気圧のせいにしているふしがある、ということは認めようじゃないか」


「そうやって頭痛、関節痛以外の体の支障を押し付けられる、低気圧さんは本当に可哀そう」


「きっとぼくが勉強できないのも低気圧のせいだね」


「はいはい、御託はいいから早く歯医者に行きなさいな」


 小宮山さんは興味なさげに目を細めた。やはり冷ややかである。


「ねぇ、そう言えばさ」ぼくは取り繕う意味を込めて早口でしゃべった。「小宮山さんって頭痛持ちだったっけ?去年は雨の日に頭を抱えるような素振りを見なかった気がするんだけど」


「確かに……去年は頭痛なんて感じなかったかも。考えられることがあるとすれば、体質が変わったからかもね。私達は絶賛成長期だし」


「なるほど成長期か。ぼくも去年と比べて、身長が5センチも伸びたし、頭とか身体の構造に変化があっても不思議じゃあないね」


「あら、意外と伸びているんだ。気付かなかったな」


「ごめん4.5センチだった」


「なぜ5ミリだけ見栄を張ろうとしたかな……」


「伸びたらいいな、の5ミリだから、希望の5ミリだと思ってくれていいよ」


「何を言っているか分からないし、面倒くさいので結構よ……イテテ」


 再び小宮山さんは頭を抱えてしまった。そのままテーブルの上にうつ伏せになる。傍から見たらかなりの重症だ。


「ううう……こりゃ鎮痛剤の携帯は必須かも。梅雨入りする前に買っておかないと」


「そうか、まだ梅雨入りしていないのか」


「朝のニュースに出ていた気象予報士さんは、何も言っていなかった気がする」


「正直、梅雨入りなんて天気予報士の匙加減だと思うね、ぼくは」


「うわ、うがった見方。そんな斜に構えた考え方しているから、汐崎くんは真っすぐに育たないんだね」


「残念、トマトなんかは斜めに植えた方が育ちが良いんだな、これが」


「今日の汐崎くんはアリになったりトマトになったり大変だね」


「小宮山さんこそ、ツッコミご苦労様です」


 ぼくと小宮山さんは目を合わせると、示し合わせたわけでも無く、ヘへへと肩を落として力ない笑みを浮かべた。さながら共犯者のようだった。


 時計の長針は12の文字に近づいて、細い真一文字を描こうとしていた。最初から主張のなかった雨音は、さらに勢いを失ってしまったようで、耳を澄ませてもほとんど聞こえない。


「そろそろ玄関に向かおうか。さっきよりは雨脚が弱まっているみたいだし」


「そうね。潮時かも」


 ぼくらは不器用に明るい蛍光灯を消すと、鬱々とした第二家庭科室を後にした。


 痛い痛い言いながら玄関に辿り着くと、ぼくは数本の傘が残る傘立てから、自分の傘を引き抜いた。そして一番新しくて綺麗なモノを選りすぐって小宮山さんに手渡した。


「あ、そうだ。ねぇ小宮山さん、一つ気になることがあるんだけど」


「ん、何?」


 小宮山さんは既に靴を履き替えていて傘を開こうとしていた。後ろから見える小宮山さんの横顔は幾分か血の気が戻っているように見えた。


「さっきぼくに対して、置き傘をしている訳が無い、とか散々言ってくれたけど、小宮山さんこそ置き傘はどうしたの?間違っても置き傘をしていないなんて言わないよね?」


「…………」


 小宮山さんは無言で傘をパタパタさせる。


「図星ですか」


「ま、前の雨の日に持ち帰ったことを忘れていたのは、きっと低気圧のせいだね。うん、きっとそうだよ」


 小宮山さんは抑揚のない早口で言い切ると、霧雨の中にとび出した。長い黒髪ふわりと揺れる。薄い花の香が漂う。


「じゃあ傘借りるね。また明日、汐崎くん」


「さ、さようなら。じゃなくて!なんでもかんでも都合の悪いことを低気圧のせいにするのは良くないよ!」


 ぼくは奥歯にズキズキとした痛みを覚えながら、小さくなっていく背中を眺めていた。三本目の傘はちゃんと学校に置いておこう、そう思った。

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