第8話 修学旅行、それには準備と期待が重要なのである。

 人生、準備するに越したことは無い。


 そんなことは重々承知している。いくらぼくが十五の夜を迎えていない若造だからといっても、世の中に無数に存在する真理のいくつかは理解しているつもりだ。『網無くしてふちにのぞむな』中国のことわざだか何だか知らないけれどよく言ったものだと思う。


 であるとしてもだ、三年生の春先に行われる修学旅行の計画を今から始めるのはいかがなものか。今はまだ二年生の五月である。風に吹かれてたなびく鯉のぼりは既に下ろされ、柏餅の葉っぱを食べて顔をしかめる子供も居なくなった、そんな時期なのである。


 つまりぼくが言いたいのは、流石に早計過ぎやしないだろうか、ということなのだ。早まっても良いことが無い、これもまた世の中の真実なのだ。

 というか、一年前から旅行の詳細な計画を生徒達に立てさせ始めるなんて、この話を持ち出した先生方は何を思っているのだろうか。旅行先についての事前学習の必要性とか、中学生の計画能力の無さは理解しているけれど、それとこれは別の話なのだ。少なくとも今は別の話という事にしたいと思う。


 第一、修学旅行なんて、人生における一大イベントだ。だから一年もあれば、人知れずくすぶっていたぼくらの期待は、延暦寺えんりゃくじの焼き討ちの如くごうごうと燃え盛ってしまうに違いない。そしてもしもだ、旅行先が期待以下の場所であったらどうしてくれるのだろうか。行き場を無くした火炎は徐々に京の町を焼き、過度に肥大化した期待はその燃えカスを押しつぶして、焼け野原一つすら残さないかもしれないのだ。そうなったら、もう手を付けることが出来ない、出来るはずがない。まさに応仁の乱。消防隊はお呼びでない、地球防衛軍くらいには出動してもらわなくてはならない。


 ぼくは期待と憤りの入り混じった気持ちで、第二家庭科室の扉を引いた。

 もちろん例の乙女は既に教室の中に居て、何やら厚い文庫本にご執心の様子であった。


 小宮山こみやまさんの様子など気にも留めず、ぼくは声を張って言い放った。


「聞いてよ小宮山さん!どういう風の吹きまわしか、いや何の手違いか分からないけれど、修学旅行の統率係に選ばれちゃったんだよ!しかもクラスの代表だよ!よりにもよってこのぼくが!」


 そうなのだ、別に準備云々はどうでも良いのだ。ぼくが統率係にさせられてしまったことが不満なのだ。誰かに愚痴を言わずにはいられない。


「ふーん」小宮山さんは果たして興味なさげに言った。「いやなの?」


 ぼくは答える、大仰な演説を真似た仕草をしながら。


「そりゃあいやだよ。だって面倒じゃないか。班行動やクラスの活動の計画を立てたり、みんなを統率をしたり、点呼を取ったり……人の上に立つことほど大変なことは無いよ」


「……汐崎しおざきくんみたいな、水面を漂うだけの笹船みたいな人はそうかもね。他人の意見に流されるだけの汐崎くんには」


 ――やや、今日の小宮山さんは少し毒気があるな。


「だ、だって修学旅行だよ?仕切ることに慣れている人ならともかくとして、ぼくみたいな人間が統率するのは難しい事だと思うんだ。旅行を楽しむどころじゃないよ」


「まぁまぁ決まってしまったのだから受け入れなさいなー」


 ――今度は悟りに至ったようなご意見だ。


 きっとこれ以上愚痴ったところで、小宮山さんに煙たがられてしまうだけだと思い、ぼくは黙って椅子に腰を下ろした。

 小宮山さんの背後の窓の外には、春の装いから衣替え始めてしまって緑をちらつかせる桜の木を伺うことが出来た。ピンク色の花びら。赤っぽい萼。碧の若葉。季節の変わり目なのだろう、時が無常であることをしみじみと感じてしまう。なんて、教科書に載っていた古典の受け売りみたいなことを考えてみる。


 小宮山さんがその透明感のある顔を傾けて手元の文庫本を読んでいる前で、ぼくはさっそく統率係の資料に目を通すことにした。A4の再生紙で中々の枚数がある。急ぎの仕事が無いだけまだマシなのだろうか。

 当たり前になってしまって特別感はないけれど、部活の時間中であっても、それなりに自由なことが出来るのは良いと思う。と言うか、唯一の活動ともいえる会話ですら、今は捗りそうにない。小宮山さんは自分だけの世界に入ってしまっているのだ。


 この部室、第二家庭科室はとても静かだ。小宮山さんは文庫本にご執心だし、ぼくも沢山の資料を読んでいるだけ。紙をめくる音と呼吸の音。それ以外は意識をしないと耳には入って来ない。時間的にはきっと運動部が声出しを始める時間だけど。

 この閑かな環境は意外と心地よい。実を言うとぼくは図書館みたいな場所では勉強が捗らない人間なのだ。けれど、不思議とこの教室は集中できる。他の場所とこの場所の違いをいつしか解明してみたい。これはぼくの中学生活で取り組むべき命題の一つなのである。


 何分経ったのだろう。ようやく資料の概要を掴めてきたというところで、ぼくは何者かの視線を感じた。具体的に言うのであれば、ぼくの席の斜向いの方向からだ。ともすれば該当する人物は一人しか居ない。ぼくは凝り固まった首をゆっくり動かして、そーっと頭を上げた。そしてチラッと小宮山さんの方に目をやった。


 ――ああ、物凄くそっけない表情を装った小宮山さんがぼくの方見ている。


 どう見ても何か話お振りたいご様子である。

 ぼくは自分の中にフッと湧いた、いたずら心に従うことにした。


「ねぇ小宮山さん」


「な、なに?」


「いや、何か話したそうな顔をしているから」


「別に話したいわけではないけれど……」


 小宮山さんは歯切れの悪い言い方をして口元に手をやった。丁度、あごを覆って人差し指と親指が唇に掛かるような感じだ。知的な仕草である。


「じゃあぼくは仕事があるので」


「ま、まって!」


「ん?」


「い、いえ、何でもないです」


 何でもないとは言いつつ、やっぱり何か話したくてたまらない風な様子である。最近気付いたのだけど、小宮山さんが口元に手をやるのは何か考え事が在って、それを他人と共有したいときなのだ。それに手元の文庫本は完全に閉じてしまっている。指も栞も挟んでいないから、次に読み始める時は苦労するだろう。。


「まぁそろそろいい時間だし、一旦休憩するかな」


ぼくはわざとらしくそう言って伸びをした。


 動きの最中、また小宮山さんの方をチラッと見たら、口元を隠していたけど目元は嬉しそうに笑っていた。馴染みが有るような、それでいて新鮮な笑顔だった。そんな小宮山さんに見惚れて、後ろに椅子ごと倒れそうになってしまったのはここだけの話だ。


「で、今日は何の話をするの?」


「別にそんな畏まらなくてもいいんだけど」小宮山さんは少し口を尖らす。


「まぁ、さっきの汐崎くんの話に関連することだね」


「と言うと?修学旅行のことかな?」


「そうだよ。今日の汐崎くんは物分かりが良いね。見直したよ」


 見直して頂けるのは嬉しい。でもあと百回くらいは見直してもらわないと、失望された回数と釣り合わないのが悲しいところだ。


 小宮山さんはいつもみたくちょっぴり物憂げな顔つきで言った。


「修学旅行に行ったら、どこを見てみたい?」


 その表情とは、あまりに釣り合わない質問だった。


 ぼくはやや面食らいつつも、小宮山さんの質問について考えることにした。いちいち驚いていては小宮山さんの相手は務まらないのだ。


「ええと、ぼくらが来年の修学旅行で行くのは京都と奈良だよね?3泊4日で、一日目は奈良で残りの三日は京都だ。三日目は班の自由行動が出来る、それも一日中だ。ここまでは知っているよね?」


「もちろん」小宮山さんは小さく頷いた。


「全体の計画で行くことが決まっているのは、奈良の東大寺と法隆寺、二日目京都の金閣寺と銀閣寺と龍安寺、それと四日目の清水寺だよね」と、統率係顔負けの説明を続ける。


 ――なかなか詳しいな。もしかしたら小宮山さんは人一倍修学旅行を楽しみにしているのかもしれない。


「そうだね。で、ぼくら生徒が自由に行き先を決めることが出来るのは、さっきも言った三日目だけだ。となると……」


 ぼくは今しがた見ていた資料の内容を思い返す。徐々に頭の中に京都市内のマップが浮かんでくる。ぼくが訪れてみたい場所は端から決まっている。


「うーん、下鴨神社とか?あと鴨川沿いを歩いてみたいかな」


「へぇなんで?」


「なんとなくかな。あ、でも好きな作家さんの舞台でよく使われるから一回見てみたいってのはあるかも」


「へぇ面白そう」小宮山さんは不意にメモ帳を取り出すと素早く何かを書き記した。


「逆に小宮山さんはどこか行きたいところは無いの?」


「もちろんあそこだね。伏見稲荷神社。あの真っ赤な千本鳥居を見たいかも」


「ああ確かに。本当に千本もあるのか数えるのも楽しそうだね」


「その作業は汐崎くんに任せるよ。一から千まで数えるのなんて大変だもの」


「そ、そうですか」


 小宮山さんは色彩の薄いシンプルなシャープペンをぼくに向けて、他の場所を言うように催促してくる。ぼくとしては小宮山さんが行きたいところに興味があるのだけど。


「他には……京都タワーとか?あんまり京都に詳しくないからまだわからないや」


 ふーん、と溢して小宮山さんはまた手元のペンを動かし始めた。丁度机で隠れていて何を書いているかは分からなかった。


「三十三間堂とか、二つの本願寺とかも面白いんじゃない?あと嵐山とか」


「結構詳しいんだね」


「このくらいは一般常識だよ。汐崎くんはこの程度も知らないなんて。さすがの私も失望を隠しきれないかも」


「普段隠せていると思っているのならばそれは大間違いだよ……」


 ぼくの小さなボヤキは小宮山さんの耳の周りを迂回してどこか遠くへ飛んで行ってしまったようだ。やっぱり小宮山さんの耳には、都合の悪い時だけ蓋をする機能が搭載されているのかもしれない。ぼくにもいつか身に付くときが来るのだろうか。


 一通りメモを終えると、小宮山さんは独り言のように呟いた。


「丸善も良いかもね。もしかしたら本の山にレモンを拝めるかもしれないよ」


「丸善?レモン?どういう事?」


「汐崎くんが高校生になったらわかるかもね」


 ――笑って流されてしまった……。


 これも一般常識なのか?どうにも、ぼくにはまだ知識が足りていないらしい。食べて寝るだけでは知識はつかないんだなぁ。明日からはもっと睡眠時間を取ることにしよう、睡眠学習をするのだ、寝る子は育つのだ。


「まぁ、係の仕事が本格的に始まったら、もっと詳しく話そうよ」


「だね、今の汐崎くんと話していても大して話題は広がりそうに無いしね」


「辛辣だねぇ。一応次に備えて勉強はしておくよ……」


 ぼくは一年間かけて京都奈良の旅行雑誌を頭に叩き込むことを固く心に決めた。間に合いそうになければ、物理的に叩き込む事も視野に入れた。

 なるほど、やはり準備は必要なのだ、何事においても。


「ああ、そうだ言い忘れていたんだけど」


小宮山さんは不意に思い出したように言った。


「実は私も修学旅行の統率係に選ばれたんだよね。それもクラスの長」


「え、そうなの?」


「うん、だから係の打ち合わせとかで会うかもね、よろしく」


 そう言うと彼女は愉快そうに笑った。


「よ、よろしくね」


 ぼくは若干挙動不審になって言葉を返した。


 そもそもぼくと小宮山さんはクラスが別だから一緒に行動することが出来ない、これは前々から理解していたことだからもう割り切っている。いや、でも中学生活の一大イベントの修学旅行なのに……ああ、残念だ。だけど別のクラスだからこそ、同じ係として活動が出来るのか。そう考えれば……いやいや、同じクラスでも同じ係には成れるし……。


 一つだけ言えるのは、統率係は思ったよりも悪くはない、ということなのだ。

 旅の羅針盤は良い方に針先を向けているのかもしれない。

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