第7話 ポスターと習字、それと悲しみ
「これで……ヨシッ!」
ぼくは部員勧誘のポスターを慣れた手つきで玄関前の掲示板に張り付けた。
それが
結局ポスターが完成したのは桜が散った後だった。当然、仮入部期間も部員勧誘の期間もとっくに終わっていた。おかげでポスターなしで部員勧誘をしたのだけれど、収穫はゼロ。箸にも棒にもかからない。
視覚要素が無い状態で情報を伝えるのは難しいのだろうか、それとも単にぼくらの部活が不人気なのだろうか。小宮山さんは頬を膨らませながら前者だと主張していたけれど、ぼくは後者だと譲らなかった。だって『
ポスターの完成が大幅に遅れてしまった理由の大部分は小宮山さんにあった。あんなに息巻いてポスター作製に向かっていた小宮山さんだったけれど、どうしても思い通りにならなかったらしく、リテイクにリテイクを重ねていた。意外と凝り性らしい。一年間一緒に活動してきて、初めて見た一面だった。
幸か不幸か、大御所監督のような振る舞いの甲斐あって、まるで一種の宗教画みたいな傑作が出来上がったのは言うまでもない。
一仕事を終えて部室に向かう道すがら、ぼくは右手についた黒い染みに気が付いた。こすると
何を隠そう、ぼくは物凄く字が汚いというか、果てしなく丁寧さが無いというか、とにかくぼくの書いた字は読めたモノではないので、習字が大嫌いなのだ。それに、書いた半紙を乾かしたり保存したりするために、新聞紙をわざわざ持っていくのも面倒くさい。普段新聞なんて読まないし、不謹慎かもしれないけれど、おくやみ欄を見るとちょっと沈んだ気分になる。
もっとも深夜帯のテレビ欄を見て、声を大きくしている同級生達のテンションに付いていけないというのも、面倒くささを肥大させている。
字の汚さで思い出したけれど、ポスター制作の時も小宮山さんに嫌と言うほどダメ出しされた。もしかしたらぼくの字がリテイクを生んでいたのかもしれない。……うむ、このことには目を瞑って耳を塞ごう、ついでに鼻も摘まむことにしよう。後悔先に立たず、臭いモノには蓋だ。
第二家庭科室の扉をゆっくりと引き、教室内に入る。わずかに開いた窓から、やや湿気を感じる風がゆるりと流れてくる。例の如く小宮山さんはぼくより早く来ていて、いつもの窓際の席に座っていたわけだけど、今日は普段と様子が異なっていた。
彼女は眠っていたのだ。机に突っ伏すようにして。
ぼくは小宮山さんを起こさないように、別のテーブルの方に腰かけることにした。この発想は悪くなかった。ただ、最後まで実行するには、ぼくが不器用過ぎた。
慣れない席の椅子をいつもの感覚で引いたら、予想以上に大きな音が出てしまったのだ。その音のせいで小宮山さんを起こしてしまった。黒い髪の塊が一瞬ピクリとしたかと思うと、伸びをするようにゆっくりと持ち上がった。小宮山さんは随分長い間腕枕をしていたらしく、おでこが赤くなっている。それに手元に見える書類は、クシャクシャになってしまっているようだった。
ただ、ぼくが目を奪われたのはそんなことでは無かった。
小宮山さんは泣いていた。
「ええと……こんにちは小宮山さん」
「ん……女の子の寝起きの顔を見るなんてへんた……最低だね、失望した」
「い、いや、そういう訳じゃ……」ぼくは少し口籠る。「その……大丈夫?」
ぼくが自分の顔を指さしながら問いかけると、小宮山さんはまさに「アッ」という顔をして口元を拭き始めた。一通り袖でこすると、彼女は眉間にシワを寄せて言った。
「もっとオブラートに包んで教えて欲しかったんだけど!」
「いやこれでも配慮は尽くしたつもりなんだけどね。ってヨダレじゃなくて目元だよ!何で泣いているのかなって」
――勢いあまって口に出してしまった!これこそもっとやんわりと教えてあげないといけないのに!
さっき以上にひどい事を言われると思って身構える。たとえ言葉の遣り取りでも、肉弾戦と同レベルの対策が必要なのだ。体力以上に精神力は奪われやすいし。
けれどぼくは裏切られた。
小宮山さんは特に何も言わなかったのだ。やおらに袖で目元を押さえると、平然と髪を整え始めた。顔の横に垂れた髪を耳の後ろに掛け、クセの付いてしまった前髪を手櫛でならし、肩にかかった髪を後ろに流す。なぜだか、少しだけ大人っぽく見えた。
「ちょっと聞いてくれる?」小宮山さんは落ち着いた口調で言った。「何だか怖い夢を見てしまったの」
「……それはどんな夢?」
一呼吸置くと彼女はゆっくりと語りだした。
「ええと、なんて言えばいいのかな、私は暗くて影に覆われた場所に居たの。建物とか町とか、そんな理解できるようなモノは無くて、山のように大きい四角の箱があったり、土星みたいな星がとても近くに見えたりしたの。周りには私以外にも知り合いが何人か居たんだけど、時間が経つにつれてその人達は、重くて流体みたいな影に飲み込まれてしまったの。お父さんもお母さんも、知り合いも友達も。まぁ
「癪ならわざわざぼくの名前は出さなくていいよ!」
小宮山さんはぎこちなく口元を綻ばせた。ぼくも合わせるように微笑む。
「それでね、私どうしようもなく悲しくなってしまったんだ。周りのみんなは居なくなってしまうし、私は暗くて訳の分からない世界に一人で取り残されてしまっている。消えてしまった人たちがどうなってしまったか分からないし、この後私がどうなってしまうかもわからない。もしかしたら死んでしまうのかもしれない、そう考えたら怖くなってしまったのね」
「確かに……嫌な夢だね」ぼくはゆっくりと頷いた。
「だからその……ちょっと怖い夢を見たから泣いてしまっただけよ。普通に生きていれば、よくあることでしょ?」
小宮山さんは自分自身に言い聞かせるように言った。ぼくは静かにもう一度頷いた。
あくびのせいで涙が出たとか、幾らでも理由は作れたのに、小宮山さんは正直に話してくれた。よほど怖い夢だったのだろう。
「ところでその手はどうしたの?」
にわかに発された彼女の問いは、少しの気まずい空気を押し切るようだった。ぼくはその意図に乗っかることにした。
「見てわかる通り習字だよ。今日は授業があったんだ」
見やすいように手をかざす。
「私のクラスも今日習字あったよ。まぁ今はあんまり習字が好きじゃない気分かな」
「おっ!小宮山さんもぼくと同じ考えだなんて!こんな嬉しいことは無いね」
「……どうせ汐崎くんは字が汚いから習字を億劫に感じるだけでしょ?私は別にそんなレベルの話をしているわけではないの」
――うっ、クリティカルヒットだ、これは。
「じゃあ、いつもは好きなの?」
「別にそうでもないよ」
「……もしかして何かあった?」
意を決して、ぼくは尋ねてみた。今日の小宮山さんは、わざと明るく振る舞おうとしているように見える。きっと何かがあったのだ。そしてそれはさっき彼女が見た夢に関係している。多分そうなのだ。これは一年間一緒に居るぼくの直感だ。
小宮山さんはどこか他人事のように溢す。
「まぁ、その、今日の習字の時なんだけど、ほら、おくやみ欄ってあるじゃない?あそこに私が小さいころからお世話になっていた近所のおばあさんの名前が出てたんだよ。最近亡くなったのは知っていたんだけどね。あんな風に活字で淡々と書かれているのを見たら、何だか切なくなっちゃったみたい」
そういう事だったのか。
脳内のあらゆる知識と記憶をひっくり返して、一番気の利いた言葉を錬成しようとしたけれど、すぐには思いつかなかった。喉元までは出かかっているのに、その先に一枚壁があるようにも思えた。
小宮山さんはそんなぼくの目を真っすぐ見据えてゆっくりと発した。
「ねぇ、人は死んだらどうなっちゃうのかな?」
今日の小宮山さんの様子からだったら、想像するに難くない質問だった。いつものぼくならばすぐにでも「天国に行くか地獄に行くか、それが問題だ」と返して「そんなことを言う人間は、どうせ恋人の父親を殺しているから地獄行きよ」くらいのツッコみを待つところだったけど、今日だけはそんな気分になれなかった。
今だけはその疑問を先送りにしたかった。
少なくとも、小宮山さんがもっと明るい時に。
「中学生のうちから死ぬことなんて考えていたら、人生を楽しめないと思うよ?」ぼくは微笑みながら、努めて明るくいった。「そんなことより聞いてよ小宮山さん。うちの担任がまたうるさくってさ!」
小宮山さんは自分の話題が遮られて不満に思ったのか、わずかに目を細めた。まるでぼくのことを軽蔑するように。その表情に少しだけ、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
けれど小宮山さんはすぐに穏やかな顔になって、ぼくの話題に乗っかってくれた。普段の部活とさして変わらない雰囲気を取り戻していくようだった。
ごめん、今だけは許してほしい。
こんな小宮山さんと暗い話をしたくは無いし、沈み込んだ顔も見たくないんだ。
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