第5話 閑話休題 桜もちを食べよう!
なぜこんなことになってしまったのか。
和菓子屋にやって来たところまでは良かったのだけど、その後から何かがおかしくなった。
目の前には、桜の良い香りのする形の違う二つの桜もち。
それと早く飲んでくれとせがむように、もうもうと湯気を立てる
そして、
ぼくは今、なぜか店主のおじさんと向かい合って、和菓子屋に併設された小さな甘味処の、小さなテーブルに座っている。
おじさんは、早く食べてみなさい、と催促するようにぎょろりとした目をぼくの方に向けている。彫が深いせいで目元が暗く、黒々とした髭が怖さに拍車をかけている。この人が和菓子屋の店主であると知らなかったら、ぼくは今すぐにでも逃げ出していただろう。
それにこんな状況では、いくら美味しそうな桜もちと言えども、味なんて分かる訳が無い。きっと分かりっこない。もしも奇跡的に味を感じることが出来たとしても、咀嚼回数の足りなかった餅が喉元を通らなくて、気道を詰まらせた僕がひっくり返ってしまう可能性があるのだ。
ぼくはまだ死にたくない。
ぼくは危機一髪の状況で、お茶の香りを楽しむ仕草をしながら、小宮山さんが帰ってくるのを待つことにした。頭の中ではこの店に入るまでの光景がリフレインしはじめた。
***
とある天気の良い土曜日、ぼくはとある約束をしていたので、とある駅前の、とあるプラスチック製のベンチに腰かけていた。
最近整備されたばかりの駅前には、街路樹として桜の木が植えられており、まさに満開と言った風に咲き誇っていた。
継ぎ目のないアスファルトのロータリーには、車一つ停まっていなくて、どことなく寂しさを覚える。地方の駅前をいくら整備した所で、一度さびれてしまえば元通りにはならないのだろう。
地域のおじさんが、莫大な税金をかけても意味は無いんだよ!とぼやいていたのを思い出した。
あたたかな風が吹き抜けていくけれど、さわさわと桜の枝先を揺らすだけで、花弁が散る気配はない。
どこからこんな立派な木々を持ってきたのだろうか、という疑問が浮かぶ。
ただ、それを抜きにしても、中々な見栄えだった。
かえって人気が無いのが良いのかもしれない。
心地の良い光景を見ながら春を感じていると、近づいてくる足音があった。
軽いスニーカーが跳ねるような音。
なぜだかちょっとだけ、胃が縮まるような感覚を覚える。緊張なのか。
急に湧いた緊張を悟られないように、音のした方向へおもむろに目をやると……。
ふむ、予想した通り、小宮山さんがいた。
淡青の長いワンピースに白いカーディガン、肩に掛けた小さな桃色のポーチ。
なんとも大人っぽい姿だ。
ぼくにはそう表現することしか出来なかった。
身の回りの中学生が着るような私服のイメージとは、地球と太陽の距離くらいかけ離れていたから。
一方で小宮山さんらしい服装だな、とも思った。
普段の制服の時よりも華やかではあるけれど、変わらない気品のようなものが感じられた。
そして何よりも、綺麗だった。
胃の次は、胸のあたりがざわつくような感覚を急に覚えてしまう。
小宮山さんはぼくの顔のあたりを見ると、わずかに口角を上げた。
「こんにちは
「いいや、五分くらいだよ」
ぼくが至って自然に返すと、小宮山さんは若干目を細めて言った。
「こういうときは嘘でも『待ってないよ』って言うモノでしょ?失望したわ」
「だ、だって本当のことを言った方が良いかと思って。それにこの桜を見ていたら時間なんて感じなかったよ」
「ふーん」
不満半分、納得半分と言ったところか。
小宮山さんは少し表情を穏やかにすると、歩き始めてしまった。
「ほら、行こうよ。ここから近いところにあるから」
「行くに決まってるじゃん。だからそんなに急がなくても!」
「結構人気のお店だから売り切れる前に行きたいの。桜もちは待ってくれないんだよ」
「桜もちが待ってくれないのなら、世の中の大半のモノが待ってくれないと思うんだけど!」
ぼくは急いで立ち上がって、白くて小さな背中を追いかけることにした。
小宮山さんと二人で桜餅を買いに行くというこの状況、色々思案したけれど、やはりメリットの方が大きいじゃないか。デメリットなんて知ったものか。
学校でも有名な素敵な人と一緒に出掛けることが出来るなんて。
やっぱりぼくは恵まれていると思う。
でも小さな不安が頭の中をよぎったのも確かだった。
『ぼくの今の格好は小宮山さんに釣り合っているのだろうか?』そんな不安だ。
お気に入りの灰色のパーカーと黒っぽいジーンズで来てしまったけれど、華が無いというか。
ダサいとまではいかないけど、女の子と出かけるのにこの服装じゃあ……。
ぼくは小宮山さんの少し後ろ歩きながら、オシャレにも目を向けなければならない今どきの中高生を憂うことにした。
ほんの五分ほど歩いた所に、その和菓子屋はあった。
ザ・
格子状の木と板目の感じは、昔行った宿場町や城下町の古い建物を思い出させる。
ふぅむ、中学生だけで入るには、少々気が引けてしまうな。
小宮山さんが店主さんと知り合いだと言っていたので、間違っても追い出されるようなことはないだろうけど。
軽い挨拶をして店に入る小宮山さんの後ろについて、恐る恐る足を踏み入れる。
すると、鮮やかな和菓子たちが並んだ綺麗なショーケースが現れた。
本命の桜もち、もちろん二種類。それと、色とりどりの練り切り、大きなどら焼き、四角いきんつば、真ん丸な大福、長い
目に入るどれもが美味しそうだ。
全部少しずつ食べてみたいし、『ここからここまで!』と言って全部買い上げたいし、それを実行できるような贅沢な人間に私はなりたい。
それに控え目だけど確かな甘い香りが漂っていて、なんともワクワクする。
和洋の違いはあるけれど、ロアルド・ダールのお話に出てくるチョコレート工場を訪れたら、こんな風に良い香りがして楽しい気分になるのだろうと思う。
ぼくが色々な和菓子に見惚れていると、横にいた小宮山さんが口を開いた。
「おじさん、とりあえず二種類の桜もちを一つずつちょうだい。あと横の甘味処で食べたいかな」
その言葉で初めて気づいた。
ショーケースの奥には大柄で強面の店主が、大木みたいな太い腕を組んでぬらりと立っていたのだ。なんとも厳めしい存在感を隠していたとは……何者か。
おじさんはぼくの方をチラッと見ると、何も言わず頷いて準備を始めた。
「和菓子の味は本物だよ、ここ」小宮山さんは耳打ちするように言った。「おじさんの見た目は怖そうだけどね」
ぼくもささやき返した。
「ねぇ買って帰るんじゃないの?さっき店内で食べるみたいなこと言っていたけど」
「もちろん持ち帰るけど、ここで食べればお茶が出るから少しはゆっくりできるよ」
――なるほど、これが常連の思考回路か。
おじさんがショーケースから餅を取り出している間、ぼくらは店内をキョロキョロと見回したり、おじさんの動きを見たりして、そわそわしていた。やはり中学生だけで入るようなお店ではないのだ。来慣れているであろう小宮山さんもしきりに手元の財布を眺めている。
この待ち時間を楽しむ余裕があるのが大人なのだろうな、と漠然と感じた。
少しするとのれんで区切られた甘味処に案内された。
甘味処と言っても小さな喫茶店のような所で、和菓子屋の店内から繋がっていた。
ぼくと小宮山さんは窓際の明るい席に向かい合って座わることにした。
部活の時は斜向かいに座るので、真ん前に小宮山さんがいるのは新鮮な感じがする。ただ、今の彼女を直視するのはぼくにとっては贅沢すぎるので、窓の方に目を逸らすことにする。
断じて恥ずかしいからではない。
まして、自制を掛けなければ、際限なく小宮山さんの方をジロジロ見てしまいそうな、ぼく自身を恐れたわけでも無い。
「ほらよ」
おじさんはぶっきらぼうにお茶と二種類の桜餅を出してくれた。
――さぁいよいよ食べることが出来るぞ!
ぼくは一人で意気込んで、ひとまずお茶で口を潤そうと、茶碗に手を伸ばした。
その時だった。
「ごめんなさい、おじさん。お金を家に置いてきてしまったので、今から取ってきます。2、3分で戻るので、汐崎くんとお話ししていて下さい。では!」
小宮山さんは、今にも敬礼を始めそうな勢いできっぱりとそう言うと、自分の居座っていた席におじさんを押し込んで、そそくさとお店を出て言ってしまった。
ちょっと待ってよ!というぼくの声も、おじさんの驚きに満ちた顔も、小宮山さんを引き留めることは出来なかった。
唐突過ぎて、反応するのがやっとだった。
駆け出した彼女はまるでメロスだった。さながら、ぼくとおじさんはセリヌンティウスと言ったところだろうか。
身勝手なものだ、本当に。時代が時代ならぼくは縛り首だ。
まぁお話の展開上、メロスが必ず帰ってくることは救いかもしれない。
あと人質は二人もいらない。
そんな適当な分析をする余裕はすぐに無くなった。
おじさんが元通りの強面でぼくの方を睨んでいたのだ。
ここで回想は終わり。冒頭に戻るのである。
***
相変わらずおじさんはぼくの方を見ている。山のような圧迫感が迫ってくる。
こんな状態で小見山さんを待ち続けるのは、本当に至難の技だ。
たとえカップ麺が出来る程度の時間であってもだ。
第一ぼくは3分のカップ麺を2分半で食べ始めるという自分ルールを持っている。その方が食べ終わるまでに麺が伸びる心配が無いのだ。ただ、今の状況を考えれば、1分いや30秒で食べ始めることも頭の片隅に入れておく必要があるようだ。
生きていく上で柔軟性を持つことは大切なのだ。
誤魔化し気味に、手元に目線を落とすと、不意におじさんが口を開いた。
低くて空気を大きく震わせるような声だった。
「君と彼女はどういう間柄なんだい?」
「……へ?」
「友達かい?」
「ええ、まぁ同じ部活に入っています」
「そうかい……仲が良さそうだな」
「悪くは無いですね」
「……そうかい」
おじさんはそう言ったきり、また黙ってぼくの方を見ていた。
沈黙が痛い。さっき小宮山さんに会ったときとは違った胃のザワツキを感じる。
「お、おじさんは小宮山さんとは知り合いなんですか?」
恐る恐る訊いてみる。
「別に知り合いというモノでもない。あの子はうちの店によくお菓子を買いに来るだけだ」
「な、なるほど」
これといって話が広がるということも無く、再び沈黙のにらめっこが始まる。
いっそのこと変顔でもしてやろうか、捨て鉢な考えがよぎる。
ただ、勝つビジョンは微塵も浮かばない、捨て身だ。きっと切腹前の武士はこんな気持ちだったのだろう。
腹を括りかけた時、入口の方から音がして誰かが入って来た。
その引き戸を引く地味な音は、ぼくには最後の審判のラッパのように聞こえた。
きっとおじさんにもだ。
だって、振り向きざまにおじさんの顔を見たら、ここまでの強面とは思えない程に破顔していたから。
そして例に漏れずぼくも、今までになく救われたような感じがしたのだから。
小走りで店に入って来た小宮山さんは「ありがとうおじさん。汐崎くんもお待たせ」と言い、押し出すようにしておじさんと入れ代わると、ぼくの前にストンと座った。
おじさんは流されるがままに、ショーケースの方に戻っていってしまった。
ぼくは眉をひそめて、小声で言った。
「……結構、気まずい空気だったんだけど」
「そんなこと知っているよ、見たらわかるし」
目の前の
小宮山さんはお茶を少しすすると、
「早速食べようか、お手並み拝見!」
そう言うと、パクりと半分ほどを口に収めてしまった。
なぜだか、是が非でも食べなければならない、という気がして、ぼくも急いで長命寺をパクついた。口の中に調和のとれた美味しさが広がる。
「にゃかにゃか美味しいじゃない、思っていたよりモチモチしているし。うん、想像以上」
「確かにね。桜の香りも上品だし、葉っぱの塩っ気とあんこの甘さのバランスがいいね!」
「ただ……」
小宮山さんは残りの半分をモグモグして、お茶を飲んだ後に言った。
「食べ方が下手だと反対側からあんこが出そうになるね」
予想以上に長命寺が美味しかったため、どこかでポイントを下げなければ、という歪んだエゴが働いたのだ。批評家の精神として、間違っているのは重々承知である。
それでも口走ってしまうことは往々にある。
ぼくは自信満々に言った。
「クリームたっぷりシュークリーム現象ってやつだね。咬むと同時に吸わないとクリームが
「……別にそこまでは言っていないけれど」
――さいですか。
小宮山さんはお茶のおかわりを貰うと、矢継ぎ早に道明寺へと手を伸ばした。
「さぁ、本命のご登場だよ」
まさに満面の笑み。今にも舌なめずりを始めそうな様子である。
そして、これまたパクリ。明らかに目の色が変わる。
「フフフ」小宮山さんは怪しく微笑む。
「え、どうしたの」
「流石道明寺、レベルの高い合格点をオールウェイズで出してくれるね」
「……これはラーメンじゃないよ」
「まぁいいからいいから。さっ食べてみなよ」
催促されるがままに、ぼくも道明寺をかじる。
「ん!」
――美味い!
「これは美味しい……さっきの長命寺も美味しかったけれど、やっぱり道明寺の方が馴染むなぁ。もち米のモチモチ感とあんこの甘さのマッチ具合は至高だね。そこに塩味の桜の葉が加わることで、季節感と複雑な味わいが生まれている。いやぁ素晴らしい」
「うんうん、汐崎くんが手放しで褒めるのも頷けるよ」
そう言って、小宮山さんは残りの餅を口に収めてしまった。は、早い……。
これまで小宮山さんと一緒に食事をしたことが無かったけれど、意外と食べるのが早いのだなぁ、と思った。ここまで二つの桜もちをどちらも二口で食している。この店の桜もちは特段大きくも小さくも無いけれど、そんなにポイポイ食べるようなものでは無いはずだ。
まぁ、あまりの美味しさで、ポイポイ食べてしまいたくなる気持ちは分からないでもない。
「で、食べ比べのご感想は?」
小宮山さんは微笑みながら言った。
「感想かぁ」
「わざわざ食べ比べまでしたんだから、何かあるでしょう?」
「うーん正直、両方とも美味しくって驚いてる」
「……実は私もなんだ」
小宮山さんはなぜだか悔しそうに笑った。
「白黒つけようとする必要は無かったのかもね」
「でもぼくはやっぱり道明寺の方が好きだな」
「汐崎くんって意外と強情?」
「別にそんなことは……」
小宮山さんはまた笑う。
「それとも、女の子と二人きりでいる事に緊張してる?」
「ごめん、桜もちに舌を奪われていて、この状況を完全に忘れていたよ」
「うっ、君もひどい事言うね」
「ついで言えば心まで奪われていました」
「なんと、私は桜もち以下ですか」
言葉とは裏腹で、小宮山さんははにかんでいた。
ぼくは一つ仕掛けることにした。
「逆に訊くけれど、小宮山さんは今の状況に何か思うことは無いわけ?」
「無いよ」
即答だった。
「だっていつもの部活とほとんど変わらないもの」
「ですよねー」
ぼくの攻撃を問答無用にいなすと、小宮山さんは立ち上がった。
「ほら、そろそろ持ち帰る分を買って帰りましょ。込み始めて売切れてしまったら悲しいから」
「うん、お目当ての物が売り切れることほど、気分が沈み込むことは無いからね」
そうしてぼく達は家族の分の桜もちを買って帰ることにした。
もちろん二種類ともだ。
小宮山さんと別れた帰り道、ぼくは最後のやり取りを思い返していた。
「無いよ」とそっけ無く言った風だったけれど、その頬が僅かに紅潮していたのを、ぼくは見逃してはいなかったのだ。
帰り際に見えた街並みは、南中しかけの太陽の光と青い晴天のおかげで、光り輝いていた。
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