第3話 全人類TS状態⁉
「ねぇ、例えばの話なんだけど、目覚めた時に、全世界の男子と女子の体が入れ替わっていたとしたら、汐崎くんはどうする?興奮する?」
小宮山さんの妙な疑問は唐突に訪れた。
買ったばかりの消しゴムを意気揚々と使っていたら、前触れもなく亀裂が入って真っ二つになるくらい急な話だった。唐突さの例えとしてこのエピソードを持ち出したけれど、実際には新品がすぐに使いモノにならなくなるという悲しさの方が大きい。
さて、部活中とはいえ暇を持て余していたぼくは、文庫本のミステリ小説を読んでいるところだった。名のある海外作家の新作、しかも重大な謎解きに差し掛かるところ。
つまり今のぼくは疑り深いのである。下手をすれば疑心暗鬼の域の到達していたと言っても過言ではないだろう。さながら脱獄犯である。
だから小宮山さんの疑問を聞いて、ぼくはまず自分の耳を疑った。
日頃から馬の耳に揶揄されるぼくの耳だけど……いや、確かに聞いたぞ。男女の体が入れ替わるとかなんとか。こればかりは聞き逃していない。担任の話や念仏はさておいても、気になる人の話を聞き逃すはずがない。それだけの自信がぼくにはある。
続いて、消去法で小宮山さんの頭を疑った。
――今までにこの類の話題を彼女の方から持ち掛けてきたことがあっただろうか。
――いいえ、記憶にございません。
と記者と政治家の問答を脳内で再現する。一年間いっしょの部活で過ごしてきたけれど、これは珍しいことだった。基本的にこの類の話、いわゆる大声で交わすことを憚られる内容の話は話題に上がらなかった。ぼくだっていくら共有したかったとしてもグッと我慢してきた。こんなぼくでもラインはわきまえているのだ。
だからこそ驚いてしまった。小宮山さんもこういう話が出来るのか、と。
そもそも、あんなに恵まれた容姿で人気があるからして、自身のキャラ付けは理解しているはずなのだけど…‥。小宮山さんの自己認識はどうなっているのだろうか。やはりつかみどころがない。
ちらりと小宮山さんの方を見やったら、いたって真剣な目でぼくの方を眺め返していた。ぼくはがっくりと肩を落として『ああ、この人は本気なんだな』と納得せざるを得なかった。そしてぼくは、こんな疑問をした小宮山さんへの評価が下がるどころか、むしろ上がりそうになっている、ぼく自身の神経を疑うことになった。小宮山さんとの会話の幅が広がるのだ。悪い事ばかりではない。それに、ぼく的にはこの手の話題は不得手ではあるけれど、嫌いではない。ただ、女子とこういう話をするのはいささか気が引ける。
ぼくは頬を掻きながら言った。
「ええと、何かの罰ゲーム?言わされているなら正直に言ってよ。ぼくと小宮山さんの仲じゃないか」
「いや、その……」
「もしかして黒幕に脅されたりする?この話題を振らなければ家族に危害が及ぶとか」
「ち、ちが……」
「あ!もしかして……」
「もう!変な風に誤解しなくて良いから!」
かなり食い気味に遮られてしまった。
そんな小宮山さんは耳を真っ赤にして目を泳がせている。表情を伺うに、動揺と羞恥に苛まれている様子。……何か悪い事でも言ってしまっただろうか。
エヘンと咳払いをすると、小宮山さんは表情を変えた。
「変に邪推しなくて良いですから。とりあえず質問に答えてください」
「わ、分かったから、そんな怖い顔しないでよ」
「全然怖くなんてないですよー。御託は良いのでほら、はやく。ね?」
いつにまして詰めてくる。敬語っぽい口調が怖さを増長させていた。
そもそも、なぜこんなことが知りたいのだろうか。ぼくの答えが何かに影響するのだろうか。手元のミステリのどろどろとした成分が滲み出て、ぼくの思考はじわじわと侵略されているかのようで……そうして必要以上に疑ってしまいそうになる。
ぼくに対する彼女の評価に、今以上の傷がつかないためにも、当たり障りないことを言おう。そう決意した。
「そりゃまぁ……多少は興奮するかもしれないね。普段の自分にあるものが無かったり、逆にあったりするんだから」妙な緊張のせいで語尾が跳ね上がってしまう。
「で、でも多分それよりも、自分が変化してしまった事への驚きの方が大きいと思うな」
「正直に興奮すると言ったことは褒めてあげるよ」
「ああ、どうも。でもそこだけ切り取らないで欲しいな……」
「うんうん、変化への驚きね」
ぼくのボヤキは小宮山さんには届かない。小宮山さんの顔色を伺うに、まだ満足には程遠いようだ。また何か訊こうとしているらしい。少し身構える。
「じゃあ、汐崎くんが女子になっている事と、私が男子になっている事だったらどっちの驚きが大きい?」
なんとも傾き難い天秤を突き付けられたものだ。かと言って、ぼくが述べるべき応えは決まっていた。
「起きてすぐに目に入るのは、ぼく自身の体だから、前者の方に驚くかな。家族も入れ替わっているなら、学校の皆も変わっているんだろうなぁ、とか推測できるし」
「ふーん、つまんないの、失望した」
「い、いやまぁ、小宮山さんが男子になっていたら、それはもう驚くと思うよ。だって想像できないもん。どんな人になるのかなぁーなんて……」
目を細めてにらんでくる小宮山さんを前に、ぼくはぎこちなく笑った。
慌てて弁明しようとしたけれど、ちょうどよい言葉が浮かんでこなくて、ぼくは開きかけた口を噤んだ。
というか、何でぼくはこんな事で失望されなければならないのだろうか。そりゃ小宮山さんが男子になっていたら、驚きのあまり大地を板チョコみたいに割ってしまうだろうし、悲しみのあまり、その裂け目から温泉がわき出す程度の天変地異を起こしてしまうのは、ほぼ確実である。いやでも、小宮山さんが男子になっているときは、ぼくが女子になっているから、別に悲観するほどの話ではないのか……いやいや、正直に言えるわけがないじゃないか。ちょっと恥ずかしいし。
ここに至って、ぼくは自分の中に湧き上がった反抗心に気が付くことになった。
ぼくは意を決して、質問を返すことにした。
「小宮山さんこそどうなんだい。小宮山さんは自分が男子になっていたらどうする?」
「どうするとは?具体的に言ってくれなきゃ分からないかも」
小宮山さんは片眉だけ吊り上げて、挑発的に言った。
普段あまり見せない表情だったので、動揺してしまう。
「こ、興奮する……とか?あとは驚くとかさ。あと何かしてみたい事とかないの?」
「興奮しないと言えば嘘になるね。私、自分に嘘はつきたくないから。でもその興奮も好奇心から来るものだと思うの。なぜこんな現象が起きてしまったか、世界中でどんな混乱が起こるのか、肉体と精神の急な乖離による影響とは……。色々疑問が湧いてくるよね」
小宮山さんは飄々と言ってのけた。
好奇心の鬼、のらりくらりの使徒、過剰思考のお嬢様。どの二つ名を与えてもあながち間違ってはいないだろう。
小宮山さんは少し首を傾げて続けた。
「あと何をしたいか……河川敷で探し物を見つけたいかな」
なんだか意外な意見である。てっきり男子風呂に入るとか男子トイレに入るとか、その類だと思ったのだけど。
いや、そんなわけがないだろうな、とぼくは頭を振る。
相手はあの小宮山さんだ。ぼくじゃあるまいし、低俗な欲望をさらけ出すような人じゃない。
「探し物?トレジャーハント的なことかな?別に体が変わらなくても出来ると思うけど」
「何を言っているの?男子達が河川敷で、鼻息を荒くして探す探し物なんて一つに決まっているじゃない」
「え……え?」
まさか、まさか小宮山さんは、あの肌色成分多めの雑誌の事を言っているのだろうか。近年コンビニでもお目にかかることが困難になっている、あのスケベブックス。思春期男子が血眼になって探すというあの伝説の。いやいや、そんなわけがない、あるはずがない。だってあの小宮山さんだぞ。クラスでも学校でもかなりの人気を誇る小宮山さんだ。流石に自分のキャラクターを理解しているはずだ。この部活内での振る舞いには、普段の生活との若干の差異があることを加味したとしてもだ。
「もしかしてそのお宝と言うのは、露出度高めのお姉さんが沢山載っている雑誌でしょうか?」
「他に何があるの?」
ああ、憧れの小宮山さんは雲隠れしてしまったのか、それとも本当に狂ってしまったのか。
「いやーその、最近は購入できる場所も限られているし、ネット文化の発達でわざわざ実物を買う必要がなくなって、昔ほど落ちていないんだよね。だから比喩抜きでお宝かも」
「……結構詳しいんだね、汐崎くん」
なんで憐れみの視線を送ってくるんだ。そっちが話題を出したんじゃないか。
ああ、ぼくの評価はもう地に落ちてしまった。さながら翼をもがれた天使、堕天使だ。
ぼくが一人で絶望していると、小宮山さんは急に表情を変え、フフフと笑った。
そして一言。
「ごめんね、全部冗談だよ、最初の疑問から全部」
ぼくが言葉の意味を飲み込めずに唖然としていると、小宮山さんは笑いながら続けた。
口元にわずかに見える白い歯が、妙に光って見えた。
「私に失望されたと思ってショックを受けているの?それとも私のイメージが崩れていくことにショックを受けたの?」
「……正直両方かな」
苦笑いしながら返すと、小宮さんは「やっぱり?」と言ってまた笑う。
「こういう話題にも乗れるようにしないといけないな、と思ったんだけどやっぱり難しいね」
「ぼくもこの手の話題は苦手だけどさ。わざわざ事前練習する必要はないと思うんだ」
「でも、回避し続けるのは難しいよ。周りの空気を崩すのは気が引けるし」
「おそらくその周りの人は、あたふたする小宮山さんを見たいだけだと思うんだけど……」
「だからこそよ!」
小宮山さんは言葉を区切った。少し伏し目がちになる。
「周囲の理想像のままの私を提供し続けるのは嫌なの」
「自分を抑え込んで生活することほど窮屈なことは無いからね」
皆の憧れの的を続けることは、ぼくみたいな凡人が思っているより難しいことなのだろう。
学校一の美人で才女である彼女が言うならばなおさらだ。入学式の一件、普段の生活で目立つこともあって、気にすることは多いのだろう。
ぼくに何かできることはあるのだろうか。
そう考えて、すぐに何もないことに気が付く。ぼくは非力過ぎた。
ぼくが手を出したところで、却って大変な事態になるオチが見えている。結局のところ、ぼくはこの第二家庭科室で小宮山さんとおしゃべりする事しか出来ないのだ。
まぁ……ぼくとの会話を楽しんでくれていたら良いな。そう思うのだ。
「いっそ、全員の性別が一気にひっくり返ってくれた方が面白いかもね」
ぼくは冗談めかして言った。
「ぼくだって女の子になれば、小宮山さんくらいモテモテになれるかもしれないし」
「いいえ、それは無いと思う。私の命に誓っても良いわ」
「そ、そこまで言わなくても!」
目を細めた小宮山さんは冷ややかに続ける。
「というか、女の子になった汐崎くんは全く想像できないよ……ごめん訂正。想像もしたくないよ」
「おそらく想像は出来ているんだろうけど、おぞましい造形をしているんだろうね。せめて人の形を保っていて欲しいな……」
「性別は逆転するとは言ったけど、生物が変わらないとは一言も言っていないしね」
「やっぱり変なこと考えているんだ!」
ぼくが声を上げて、危険思想反対!と叫ぶと、小宮山さんは表情を崩して微笑む。
「馬か鹿か、どちらでも好きな方をどうぞ」
「ぼくは馬鹿じゃないぞ!」
ぼくの二度目の叫びは春の夕焼けに消えていった。鮮やかな赤だった。
……これは会話を楽しんでいるというより、ぼくが遊ばれているのでは?
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