第4話 莉亜と紅色の魚

 金魚を川に放流してはいけない。幼少の頃に読んだ魚図鑑に書かれていた一文だ。


 夏祭りで金魚掬いをしたがいいが、飼育設備を用意することができなかったために身近な水辺に放流するケースがあるのだという。


 しかし観賞魚を放流することは自然破壊に繋がるため違反にあたる。また、金魚は品種改良され、自然界に適応できないものがいることとその鮮やかな色合いが外敵に狙われやすく、よほど環境が良いところでない限り、生存と繁殖が難しいそうだ。


 僕が見つけた川辺に打ち上げられていた金魚は誰かが捨てたものなのだろうか。僕は一日限りの出来事として、深く考えないようにした。



          〇



 次の日も、また次の日も瀬世良さんに出会う。初めて出会った日から一週間経った。アルバイトの休憩時間になり、他の監視員と交代すると急いで東屋に向かう。僕は瀬世良さんに会うのが楽しみになっていた。頼雄も同じ気持ちのようで、東屋に到着するとお互い息を切らしていた。


「走ってきたのか?」

「そっちこそ!」


 額の汗を拭って東屋の中を見ると、瀬世良さんがひらひらと手を振っていた。


「こんにちは。そんなに急いで来なくても良かったのに」

「今日は走りたい気持ちになったんですよ。な、潤一!」

「え……まあな!」


 休憩時間中に三人で屋台の料理や祖母が作ってくれた弁当を食べ、他愛もない話をする日々が続く。瀬世良さんはどんな話をしても楽しげに聞いてくれるため、思いついた話題を躊躇ちゅうちょなく語って聞かせた。


「昨日、うちのじいちゃんと頼雄が酒に酔って、裸踊りしてたんですよ」

「ばっ、言うなよ! 潤一も裸踊り参加してたんですよ。瀬世良さん!」


 瀬世良さんのほがらかな笑みを見つめていると次第に心が惹かれていく。夕暮れ時にアルバイトを終え、遊泳客がいなくなれば小川は僕達だけのものになる。履いていたサンダルを川辺に投げ捨て、ズボンのすそを巻くって小川に飛び込んだ。昼間に黄色い声を上げてはしゃいでいた子供達のように川遊びをした。


「くらえ!」

「冷たっ!」


 僕と頼雄が川水を手で掛け合う姿を見て、瀬世良さんも水掛けに加わってきた。川辺で平らな石を見つけると水切りをしたり、公園のアスレチックを駆け回って鬼ごっこをして遊んだ。


 夜になれば三滝堂職員とキャンプ場でバーベキューをした。狩野さんから天体図や望遠鏡を借りると満天の星を眺め、瀬世良さんが「わあ」と声を上げて、瞳を輝かせていた。


 成人して乾いていくかのように感じた僕の心が次第に童心に帰っていく。こんなにも楽しいと思う夏休みが今まであっただろうか。毎年この集落に訪れて、祖父の愚にも付かぬ身の上話を聞かされ、退屈にしていた日々は終わりを告げたのだ。何故ならこの集落に瀬世良さんが住んでいるからだ。


「また来年も会いたいな……」

「俺も!」


 僕が不意に言ってしまった言葉であったが、瀬世良さんは嬉しそうに頷いてくれた。


「私もまた来年会いたい。あなた達のおかげで楽しい夏を過ごせてる」


 手に汗を握る。その言葉を聞いて胸がギュッと締め付けられた。東屋に吊られていた風鈴が風に揺られ、軽快な音を鳴らす。この時、僕は瀬世良さんに好意を抱いているのだと初めて気付いた。顔全体が熱を帯びていて、頬が紅潮していたに違いない。隣にいた頼雄も照れながら、頬を紅く染めていた。


 瀬世良さんと三滝堂で別れた後、祖父母の家に向かう間、僕と頼雄は指で腹部を突き合って、腹の底から笑った。


「お前、ニヤけてるぞ!」

「そっちこそ!」


 僕達三人が過ごした日々はかけがえのない思い出になるだろうと確信した。どうかこのまま楽しい夏の日々が永遠に続きますようにと、そう願わずにはいられなかった。ただ一つ、気がかりだったのが金魚の死骸を川辺で見かけることが日増しに増えたことだった。



          〇



 そんな日々が続き、夏休みが半分を過ぎるとお盆の時期に入る。アルバイトを終えて祖父母の家に向かう間、迎え火をしている人達を何度も見た。この日は珍しく東屋に瀬世良さんの姿がなかったため、物足りない気持ちになっていた。


「はあ……お盆過ぎるとあっという間に夏休みが終わる気がするんだよな」

「そんなこと言うなよ。気が落ち込んでしまう」


 夏休みが終われば専門学校が始まる。半分も取り組んでいない課題のことを考え、憂鬱気味になりながら歩いていた。


 夕闇の中、雑木林にひぐらしの鳴き声が木霊こだまする。街路灯の明かりに照らされた集落の通りには人の姿がなく、先程まで迎え火をしていた人達の気配が無くなった。アスファルトに映る僕と頼雄の影がどこまでも伸びていくようで甚だ不気味だった。


「なんか急に静まり返ったみたいで怖いな」

「ああ……」


 足元に伸びる影を見つめながら歩いていると、湿った夏の匂いがふと鼻を掠めた。顔を上げるとそこには寂しげな瞳をした瀬世良さんが立っていた。


「あっ、瀬世良さん。こんばんは」


 瀬世良さんは何も言わずに俯くと木造一軒家の玄関口を指差した。僕と頼雄はその方向を見て首を傾げた。一見、何の変哲もない住宅にしか見えなかったからだ。


「瀬世良さん、その家に何かあるんですか?」


 再び瀬世良さんを見たが、そこには誰もいなかった。


「あれ? 瀬世良さんがいない……」

「潤一」


 頼雄に声をかけられて顔を向けると、その先に一軒家に隣接する小さな木造小屋があることに気付く。僕は怪訝けげんに思った。小屋の窓から薄明かりが漏れていて、ゆらゆらと揺蕩う小さな吹き流しのようなものが見えた。扉が半開きになっていて、そこからモーター音が絶えず聞こえてくる。頼雄が躊躇なく小屋の中に入っていくため、僕は慌てて後を追った。


 小屋の中は学習机やテレビ、タンス等が置かれていて、子供部屋のような内装だった。ただ一つ、異様だったのが部屋の隅に置かれている小さな水槽だ。部屋の中の薄明かりは水槽に備え付けられている蛍光灯の明かりだった。水槽の中を覗いて、僕はギョッとした。金魚が泳いでいるが小さな水槽に見合わないほど過密に入れられていたからだ。


 数えれば百匹以上いるのではないかと思った。密集した金魚同士が身を擦り合わせて鱗が剥がれたものがいれば、力尽きて微動だにせず水面に浮いているものもいた。虐待という言葉が頭に過ぎった。


 僕達の存在に気付いたのか餌を欲しがるように金魚が水面に群がり始めた。その時、り上がっていくビロードの舞台幕のように水槽の視界が開かれて、底の砂地に置かれた流木の陰に隠れている一匹の魚を目にする。鮮やかな鱗をもつ紅色の魚だった。大きさは通常の金魚と大差ないが、尾や背などの各ヒレが長く、水中で揺らめく長い尾は天女が纏う羽衣を連想させる。あまりの美しさに恍惚こうこつとして眺めていると後ろから声をかけられてハッとした。


「おい、誰だお前ら」


 振り向くと、そこには見覚えのある男の子がいた。手には金槌かなづちが握られている。


「こ、こんばんは……もしかして莉亜りあくん?」


 僕はたじろいだ。幼い頃、集落を訪れた際に一緒に遊んだことがある祖父母の家の近所に住んでいる三歳程歳下の子だった。名前は莉亜といって、小学生の頃にいじめを受けて不登校になり、自宅に引きこもるようになったと聞いたことがある。その話を聞いて以来、十年以上会っていなかった。


「莉亜くん久しぶりだね……顔つきが変わったからすぐに分からなかったよ……」


 久々に再会した莉亜の容姿を見て、僕は冷や汗をかいた。高校生くらいの年齢のはずが口元が濃い無精髭ぶしょうひけで覆われていて、ぼさぼさの髪は何日も洗っていないのか蛍光灯の薄明かりに照らされて、てかてかと輝いていた。


「出て行けよ、お前ら!」


 莉亜は声を荒げ、金槌の柄を握りしめた。


「ごめん……」


 僕と頼雄は小屋から立ち去ろうとした。ふと水槽を見ると流木の陰に隠れている紅色の魚がジッと何かを見つめていることに気付く。僕はその方向に目を向けると驚いた。小屋の壁に街中で見かけるような交通安全のポスターが貼られているが、そのポスターに瀬世良さんと瓜二つの人物の写真が掲載されていたからだ。



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