第2話 東日本大震災

 道の駅で一休みを終えた僕達は原付に乗って山林の中へと入っていった。蛇のようにうねる幅の狭い道路を走行していると木立の間から二匹の鹿が駆け出していくのが見えた。


「野生の鹿初めて見たかも」


 幼少の頃から仙台の街中に住んでいる頼雄にとって新鮮な体験だった。鬱蒼うっそうと生い茂る山林を超えた先、集落に到着した。


「じいちゃんち、こっちだから」


 僕達は赤い屋根の一階建て木造住宅に原付を停めた。庭では祖母が草むしりをしていた。


「あれまあ、潤一ちゃんよく来たごだ」


 近寄ってきた祖母が手を伸ばして僕の頭を撫でようとしたが友人のいる手前でそんな恥ずかしい姿を見せたくなかったため距離をとった。


「じいちゃんいる?」

「今、畑仕事しとる」

「そう」


 僕達二人は祖母に連れられて家の中に入り、冷えた麦茶と西瓜すいかを頂いた。



          〇



 僕は毎年、学校が夏休みに入ると祖父母の家に滞在することが決められている。何故なのかというと中学生の頃、祖父の逆鱗に触れてしまったからだ。


 2011年3月、東日本大震災が発生して東北地方に大きな爪痕を残した。当時、僕は登米市の中学校にいて、生まれて初めて震度六強の揺れを経験した。部活動中の友人達と共に校庭にいたため無事だったが、中学校の窓硝子が割れ、地面に敷かれた煉瓦れんがは大小異なる段差ができた。液状化現象でマンホールが隆起りゅうきしたところがあり、僕はその上に乗って飛び跳ねていると顧問に頭をはたかれた。


 顧問の指示で僕達は部活動を切り上げて早々に帰宅することになった。チラホラと雪が降ってきて、白い息を吐きながら自宅までの道のりを歩いていると、二階建て木造住宅の一階部分が潰れて無くなっていたり、商店の棚が散乱していてせわしなく片付けをする人々を見て驚いた。自宅に到着すると玄関前に母がいた。


「良かった! 潤一無事だった」


 僕の自宅は損傷が無かったが、家具が散乱していて片付けをするのが一苦労しそうだと思った。電気を使うことができず、夜は両親と僕、家族三人で暗闇の中を過ごす事になった。余震が続いているため、父から「危ないから外に出るな」と言われたが僕はこっそりと外出した。街明かりのない中、晴れ渡る夜空に満天の星が輝いていた。生まれて初めて体験する出来事に心の何処かで胸を膨らませる自分がいた。


 次の日、家に届いた新聞に津波が押し寄せる海辺の町の写真が掲載され、先日の地震が未曾有みぞうの大災害であったのだとこの時初めて知ることになる。海沿いにある気仙沼や南三陸は壊滅状態になったが内陸部にある登米市は津波が押し寄せることはなかった。


 その年の夏、余震が落ち着いた頃に僕達家族は祖父母が住む集落に足を運んだ。庭のアスファルトの亀裂をサンダルでなぞりながら歩いて家の中に入ると「お互い無事で良かった」と祖母は快く迎えてくれた。


 夜になり、祖父母と僕達家族は茶の間に集まって晩ご飯を食べた。テレビを点けると震災から数ヶ月経ったにも関わらず、壊滅状態になった海辺の町の報道が絶えなかった。それを見て硝子コップに注がれた日本酒をちびちびと飲みながら祖父が涙を流した。


「わしはかつて気仙沼に住んでいた時期があってな。たくさんの友人がいて、辛い日々の中、皆で励まし合い、必死こいて日銭を稼いだものさ。休日は海に出向いて皆で釣りをした。夜遅くまで酒を飲み交わす事なんてしょっちゅうあった。かけがえのない思い出と忘れられない場所が出来た。働いていた工場の都合で内陸の方に移り住むことになったが、友人達は交流を続けてくれた。だが……先の大震災で友人達の大半が津波に流されて死んじまった。思い出の場所も……」


 祖父は鼻を啜りながら語った。


「じいちゃんは無事で良かったね」と僕は言った。


 スッと口から出た何気無い言葉だった。ただ単に祖父を励まそうと思って、言ったつもりだった。それを聞いた祖父は激怒した。


「お前、今なんて言った!」


 祖父の怒号に僕は震え上がった。刺すような視線に奥歯がガタガタと音を鳴らす。祖父が立ち上がると黙り込んでいる僕に向かってきて、胸ぐらを掴むと頬を平手打ちした。茶の間は騒然となった。歯を剥き出しにして怒り狂う祖父を僕の両親が必死に押さえていた。


「おいやめろ、親父!」

「離せ! このガキに分らせてやるんだ!」


 恐ろしかった。普段ぶっきらぼうな祖父の憤怒ふんどの形相に冷や汗をかいた。祖母に手を引かれて僕達は互いに別室で寝かせられた。蒸し暑い夜だった。頬の痛み、部屋の中の湿気を帯びた空気が身体に纏わりついて気持ちが悪くなり、なかなか寝付けられなかった。


 次の日の朝。目を擦りながら茶の間に向かうと新聞を読んでいる普段と変わらない祖父がいた。隣にいた父が耳打ちしてきた。


「謝っておけ。昨日の発言は本当にどうかしてたと思うぞ」

「いや、あれはじいちゃんを励まそうと思って……」

「いいから謝れ」


 僕は渋々、祖父に謝ることにした。


「じいちゃん、ごめんなさい……」


 茶の間に沈黙が流れた。僕は気まずくなって立ち去ろうとした時、祖父が口を開いた。


「毎年この時期になったら、わしの家に来い。お前は節操せっそうがなっていないようだ。鍛え直してやる」

「えっ」


 こうして僕は学校の夏休み期間中に祖父母の家に滞在する事が決められてしまった。節操がない、鍛え直すとは言っても、僕が集落に訪れるたびに祖父は退屈で欠伸あくびの出るような身の上話をするばかりだった。


 嫌気を差して、一度だけ祖父母の家に行く事を拒否した年があったが、祖父が向こうから僕の自宅にやってきて、居付くようになってしまった。毎日のように日本酒を飲んで、家事がなってないだのと叫んでいた。なだめようにも屁理屈へりくつをこねるため、耐えきれなくなった両親が僕に頼み込んできた。「頼むから夏の間、じいちゃんの家にいてくれ」と。


 祖父の身の上の話を聞いていると心の奥底がムカムカしてくる。「自分さえ生きていればそれで良いではないか」と次第に思い込むようになっていた。例え友人の存在がなくなっても生きてさえいれば新しい友人を作ることができる。この世には楽しい事や嬉しい事が満ち溢れている。悲観ひかんしている暇なんて何処にもない……当時の僕はそう思っていた。湿った夏の匂いがする小川の中、一匹の紅色の魚を見るまでは。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る