せせらぎの紅

江ノ橋あかり

せせらぎの紅

第1話 湿った夏の匂い


 湿った夏の匂いがした。水面が揺らめく。


 僕の祖父母が住む山林の集落に「三滝堂みたきどう」という緩やかに流れる透き通るような小川があって、その川は夏になると近隣の子供達が川遊びにやってくる。


 蝉時雨が降り注ぐ中、水着姿の子供達が黄色い声を上げて楽しげに遊ぶ姿を眺めていると幼少の頃を思い出してどこか微笑ましい気持ちにさせる。


 近年、緩やかに流れる小川の中を優雅に泳ぐ紅色の魚の目撃情報が相次いでいる。その話を聞くと僕は心苦しく、そして物思いにけてしまうのであった。



          〇



 3年前の初夏の記憶。


 僕が通う専門学校の友人、頼雄と共に仙台市から登米市までの長く伸びる県道に原付を走らせていた。


 照りつける日差しと道路から立ち込める陽炎かげろうの中で頼雄と「あづい、あづい」と言いながら山林の集落にある僕の祖父母の家に向かっていた。


 道中に新しく開業した道の駅があると知り、僕達はそこに立ち寄って一休みする事にした。


 三陸縦貫自動車道の三滝堂インターチェンジに隣接して建設された道の駅で、産直品販売コーナーやレストラン、コンビニが併設へいせつされている。


 僕は店外に設置されている長椅子に座り、店で買ったラムネを飲みながら休んでいた。程なくして頼雄がトイレから戻ってきた。


「すまん、すまん。最近腹がゆるくてよ」

「馬鹿、そんな変な色した栄養ドリンク飲んでっからだ」


 頼雄は常飲している栄養ドリンクの黒い缶を携えて、腹をさすりながら僕の隣に座り込んだ。


「俺らのどちらかが自動車免許持ってたらこんなあづい思いしなかったのにな」

「うるせえ。もうここまで来てしまったんだし、そんな事言うな」


 額の汗を拭い、僕達は陽炎が立ち込める広々とした駐車場を眺めた。夏休みシーズンのため、家族連れの車で駐車場は満車に近いほどひしめき合っていた。


 風鈴の音色が聞こえてきて、ふと軒先のきさきを見るとそこには宝石のようにきらめく小さな硝子風鈴が吊るされていた。綺麗だなと見つめていると僕の左肩を誰かが叩いた。振り向くとそこには一人の女性がいた。


「こんにちは、失礼します」


 そう言って、女性は僕と頼雄を手でグイと分け入って長椅子の真ん中に座り込んだ。


 なんだこの人と僕は顔をしかめた。その人は二十代前半に見えた。体の線が細く、仙台駅前で見かけるような一般的な女性の容姿をしている。特徴的なのが口元の真紅のルージュだった。


 女性は水面で息継ぎをする魚のように口をパクパクさせたと思うと、僕が手に持っていたラムネ瓶を突如奪い取った。


「あっ!」


 呆気にとられた。女性は気泡の弾けるラムネを冷水のようにスッと飲み干した。


「ふーっ、生き返った」

「な、何ですか……」


 僕がたじろいでいると女性はこちらを見つめ語りかけてきた。


「私の名は瀬世良せせらと申します。以後お見知りおきを」


 瀬世良さんは隣にいた頼雄の黒い缶も奪い取った。


「ちょ!」


 僕達は驚いた。瀬世良さんが栄養ドリンクを口にした瞬間、頬を膨らませたと思うと吹き出して咳き込んだからだ。


「ウエ! ゴホッゴホッ」

「だ、大丈夫ですか?」

「あなたは毒を飲むのですか!」


 瀬世良さんは咳き込みながら長椅子から立ち上がると車がひしめき合う駐車場の中を進んでいき、キャンピングカーの陰に隠れて見えなくなった。僕達はその光景を呆然として見つめていた。


「何なんだあの人。お前のじいさんちの周辺って変な人住んでるのか?」

「いや、あんな人初めて見たけど……」


 瀬世良さんの去り際にふと懐かしい想いにさせる匂いがした。早朝の山林を歩いているときに嗅いだことがある。生い茂る草木から発せられる湿気を帯びた匂いに似ていた。何と表現すればいいのか僕には分からなかったが、頭の中に「湿った夏の匂い」という言葉が思い浮かんだ。

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