(三)
大学の後期試験が終わって、二月。
年末に学校をサボり気味だった分を取り返すために、寝る間も惜しんだ三週間が終わりを告げて、溜まっていた疲れがどっと押し寄せる。私は、誰もいない二号館の空き教室で、背もたれに首を乗せて白い天井を見つめていた。イヤフォンからは椎名林檎が流れている。老いていくってなんて快感、などと歌えるのは世界でこの方くらいだろうなとつくづく思いながら、長い長いため息をついた。
夜には大学で唯一と言っていい友達の
しかし、ここ最近バイトのシフトも減らして勉強三昧な生活をしていたので、却って自分が何をしたいのか分からない。とりあえず、スマホで現在開催されている展示を調べてみたものの、これといって気になるものもなく、話は降り出しだ。新しく喫茶店でも開拓してみるか、古本屋で宝探しでもするか、それとも一度家に帰って仮眠を取るか。晴れて自由の身になった私は、その選択肢の多さゆえに逆に何も選べずにいた。自由とは、自由であるべく不自由になることである、とはフランスの哲学者、サルトルの言葉である。
結局何その後も三十分ほど悩んだけれど、何をするか決めきれず、大学の近くにあるジョナサンでパフェを食べてから、はやめに下北に着いて、コンビニで買った缶チューハイをちびちび飲みながら古着を見てぶらぶらした。時間は有意義に使うべきだが、こういう無意味な時間も、やっぱり悪くない。
リハーサルを終えた紡がライブハウスから出てきて、よっ、と手を上げた。この間まで綺麗に発色していた青い髪は、色落ちしてきて少し緑がかっている。彼女とは、大学の入学式の時に会場の席が隣だったことがきっかけで仲良くなったのだが、それから何度髪色が変わったことか。きっと彼女の髪のキューティクルは、もう半分くらいは死滅しているに違いない。
「今日もありがとね」
彼女は拡張途中の耳たぶのピアスを指先でいじりながら言う。
「いいのいいの、私大好きだから、赤色グリッター」
「やっぱしー?ウチらかっこいいよねえ?」
彼女は見本のようなドヤ顔で、エアギターを演奏する。一滴の濁りもない瞳で、赤色グリッターはもっとでかいとこに行くからって、自信よりももっと確信に近い熱量で話す。そんな彼女のこと、一人の女性として尊敬しない訳がなかった。
「まだ本番まで一時間くらいあるけど、先中入ってなよ、バンさんいるし」
バンさんとは、このライブハウスのオーナーである馬場さんのことである。
「そうしようかな。今日も楽しみにしてるから、かっこいいとこ見してよね」
私は拳を彼女の前に差し出す。それを見て彼女も拳を重ねる。
地下へと続く階段は急勾配で、一歩一歩慎重に進むと、重厚感のあるドアがある。そこを潜れば、もう別世界だ。私はライブハウスに入る時のこの高揚感が、たまらなく好きなのだった。
「すいません、雪丸紡の友人なのですが」
受付に立っている男に声をかけると、男の目線が合った。
「ああ、星ちゃん!久しぶりじゃん!」
「あれ、馬場さんですか?髪だいぶ短くなりましたね!イメチェンですか?」
前回会った時肩にかかるほど長かった髪がばっさり切られていて、最初はこの男が馬場さんだと気付かなかった。
「そうそう、なんかロン毛飽きちゃってさ」
「え、折角似合ってたのに、ロン毛」
馬場は、ロン毛だった頃の癖で無い髪を耳にかける仕草をしては、あからさまにあ、髪無いんだったという顔をする。
「飲み物どうする?」
咳払いを一つして、馬場がそう言ったので、私はモヒートを頼んだ。
ライブハウスの中は薄暗くて、天井付近にはスモークが漂っている。私の他に、同じくらいの歳に見える男が二人いた。私と同じように、今日の演者の友達か何かだろう。彼らは静かめの声で、とあるバンドの出した新曲についての話で盛り上がっていて、彼らの談義に耳をそばだてつつ、私はモヒートの写真に、「今から赤色グリッターのライブ!」という一言を添えて、SNSに投稿した。
開演十五分前になると、会場内に大学で見たことのある顔が何人も集まってきた。きっと紡が呼んだのだろう。あっという間に、右も左も同じ大学の学生だ。二十人はいるだろうか。
今日のライブは、赤色グリッターと交友の深いくつかのバンドによる対バンで、赤色グリッターはそのトリを務める。
十八時ぴったりになる頃には、場内には五十人近い人集りができていた。一人で壁によりかかって待っている者、仲の良いグループで騒いでいる者、最前列で目を輝かせる者、それぞれの期待値が高まる中、一組目のバンドがぞろぞろと出てきて、マイクテストと音、照明のチェックをする。この始まる直前の静けさ。ピリついた空気も、私は大好きだ。ひそひそ話をしている場内に、一気にギターの音が響く。抑えていた熱狂が爆発する瞬間、時間が止まる。
赤色グリッター 四月 @shigatsu
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