(二)
夜船星には、生きていく上でこれだけは守ると決めていることがいくつかある。一つ、起床したらどんなに時間がなくてもコーヒーを一杯飲むこと。二つ、どんなに忙しくても月に一冊は本を読むこと。三つ、どんなに寝不足でも月に一回は終電を逃すこと。四つ、ごめんなさいとありがとうをちゃんと言うこと。他にも、寝る前にワイヤレスイヤホンの充電を忘れないことや、ゾゾタウンのツケ払いは利用しないことなど、挙げだしたらきりがないが、大事にしているのはこの四つだ。
そしてこの部屋にも、二人が生活していくために決めていることがある。湊くんは煙草を吸うから、喫煙する場合はキッチンの換気扇の下か、ベランダで吸うこと。喧嘩をしてしまっても同じベッドで眠ること。ゲオで映画をレンタルしたら、返す時に二人で散歩すること。これが、この狭い世界においての密やかな法律だ。破っても特に何も起こらないけれど。
昼過ぎに目が覚めると、朝まで降っていた雨が嘘のように上がっていて、目がチカチカする。
キャリーケースの中身を整理しなければいけないし、車の合宿免許に必要な住民票も取りに行かなければいけない、トイレットペーパーのストックも切れかけていたから買わないと。やることはたくさんあるが、とりあえずは決まりに従って、私はコーヒーを飲むことにする。
電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。お湯が沸くのを待つ間に、お腹もすいていたのでトーストを焼いた。
ドリッパーにお湯を流し込むと、湯気とともに香ばしい匂いが立ち込める。カーテンの隙間から光が差す昼下がり。お気に入りの歌を詰めこんだプレイリストをスピーカーで再生して、淹れたてのコーヒーを恐る恐る飲む。
スマホでSNSをチェックしていると、地元の友達たちが揃いも揃って同じ写真を載せて、内輪ネタでしか伝わらなそうなハッシュタグをつけて、成人式や同窓会のことを投稿している。私はそれを適当にスクロールして、そこら中にいいねを押しまくった。いいね、なんて一つも思っていないのに。
私はこういう身内ノリが大の苦手であった。
生まれ育った土地から一度も外に出たことがないのに、「地元最高」とはしゃいでいるのも理解ができないし、街の人たちみんなが家族みたいな空気で、個人のプライバシーが無いに等しいのも意味が分からない。
小学校の時、私が男の子からラブレターをもらったのが、次の日には学校中に広まっていたことがある。もらったことは誰にも言っていないのに、たまたまその現場を八百屋のおじちゃんが見ていたらしい。おかげでしばらくはそれで冷やかされて、嫌な思いをしたのをよく覚えている。
窮屈な生活圏で、人と人との距離感が異様に近いあの街から、出ていきたいと思う私の方がおかしいのだろうか。みんなの幸せそうな顔を見ると、たまにそう疑ってしまう。
トーストを食べ終えると、ちょうど彼が起きてきたから、私は彼を催促して出かける準備をした。
区役所に行って住民票を取ってから、近くのスーパーにトイレットペーパーを買いに行った。鮮魚コーナーを歩いている時に、彼がお刺身が食べたい、と言ったので、仕方なく(本当に、仕方なく)安物の切り落としを買った。
帰りは少し寄り道して地蔵通りでソフトクリームを食べた。
「寒いのに食べたくなるの、なんでだろうね」
彼は肩を震わせていて、それがおかしかった。
「ね、なんでだろうね」
身を縮めてソフトクリームを食べながら、私たちはくだらない話をした。住宅展示場にある風船人形が小さい頃トラウマだったとか、モンスターエナジーをモンスターと略す人は、ポケットモンスターをポケモンじゃなくポケットと言うのかとか、日本の歯医者の数はコンビニよりも多いらしいとか。歯をガタガタ言わせながら話していると、食べ終わった彼が行こっか、と言った。もう日が暮れ始めている。
「ねえ」
帰り道、レジ袋を二人で持ちながら歩いていると、彼は急に神妙な面持ちで、今更なんだけどと前置きしてから言った。
「今年もよろしくね、星ちゃん」
「うん、私が免許取ったら、車でどこか行こうね」
彼は楽しそうに頷いた。西日に照らされてできた影は、まるで間に子どもを連れて手を繋いでいる家族みたいだ。
家に帰ってから、先に一緒にお風呂に入って、その後切り落としをつまみながら、借りていた「ペット・セメタリー」というゾンビ映画を見た。ゾンビ映画だと聞いていたのに、思っていたより悲しい展開で、終盤は二人して泣いていた。彼は、ジャケット詐欺だよこれはとため息をついていた。もちろんいい意味で、である。
泣き疲れた私たちは、そのままベッドに入って、まだ眠たくはないけれど眠ることにした。
キャリーケースの中身は整理しなかったけど、住民票も取ったし、トイレットペーパーも買ったし、まあ及第点だろう、と自らを納得させてから目を閉じる。
明日は私も彼も朝からバイトだ。
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