第2話 兄弟

「……ライカ!……危ない!」

 落下するライカの身体を、たくましい腕が受け止めた。聞き覚えのある声は、感情を制している兄のそれとはほど遠い。

 ラジオから流れるテノール歌手のような、心地よい声だ。

「あれ……?」

 ライカはまばたきを繰り返しながら、左手を掲げる。寄生星きせいぼしは洒落たリングの形をして、細い手首に嵌まっている。

 左腕が侵蝕され、全身に鉱石の刺が這いまわる感覚は消え失せていた。

(夢でもみたのかな)

 ライカは朝に弱い。夜更かしをしているわけでもないのに、いくら目覚ましをかけても起きることができないのだ。立ったまま意識を失うことも珍しくない。

 今日は二階とエントランスホールを繋ぐ階段から落ちたようだ。

 青年が受け止めてくれなかったら、全身を強打していただろう。

「大丈夫か」

「……シグルド」

 己を抱き止めている男の首もとに、見覚えのある徽章を見る。管理局の機関構成員を示す証が鈍い光を放っていた。

 ライカの目は男の表情を追う。よほど焦っていたのだろう。丹念にワックスで固められた黒髪のオールバックが、ほんの少し乱れている。

 少年の目を引く五つのイヤリングの色は、派手な深赤色で統一されていた。紅玉ルビィの粉末で染めあげたものだ。

 管理局の制服を着ていなければ、その筋の者と見紛う男―シグルド・ワーズワースは、しかし、ライカの知る限り硬派な青年だ。少年を抱く体温は、いつも優しい。

「あ、ありがとう……。大丈夫、少し寝ぼけていただけ」

「……そうか。俺は、また発作が起きたかと」

 シグルドの言葉を遮ったのは、立て付けの悪い扉が開く音だ。

 エントランスホールの左奥から、複数の足音が聞こえる。

 奥の部屋は兄の作業場になっている。ライカは立ち入りを禁じられていた。

「何をしている」

 抑揚のない声がライカの鼓膜に溶けていく。照明の下で柔らかなハニーブロンドが飴色に波打つ。

 前髪に隠された薄いレンズの奥に潜むのは、不機嫌な色に染まった菫色の双眸だ。

 管理局の制服の上に、深い藍色のコートを纏った塔の主は、エントランスホールでかたまる二人を見下していた。

「立て。彼らの前でみっともない姿を晒すな」

 強い力で腕を捕まれ、ライカは小さく声を漏らした。兄の背後で複数の影が蠢いている。

 兄と同じコートに身を包んだ人形達が、無表情で佇んでいた。顔の作りも目の色も一人一人異なる。

 動力源の鉱玉こうぎょくは嵌め込まれていないはずなのに、突き刺さるような視線を感じる。

 まるで兄の感情と共鳴しているかのように、彼らの視線は少年の心臓を抉り抜こうとする。

「っ……、兄さん」

 ライカは、逃げるように視線をそらす。腕を拘束する力が、ふ、と緩んだと思えば、視界の端に右手を振り上げる兄の姿がうつった。

「レネ、乱暴は止せ!」

 痺れを切らして立ち上がったシグルドの大きな手が、レネをとらえる。菫色の目が忌々しげに細められる。

 ライカが恐る恐る兄の方へ向き直ったときには、いつもと変わらぬ無表情がそこにあった。

「お前、最近おかしいぞ。ライカは発作を起こしかけていたんだ。大事な弟なら……」

「煩い。私には……、時間が、ないんだ」

 レネはシグルドの手を振りほどき、左手の指先を上下に動かす。鉱玉のない人形たちを操るのも人形師の仕事だ。

 管理局へ納品される彼らには、まだ命は宿っていない。管理塔で個々に鉱玉こうぎょくをあたえられ、正式な自動人形と成るのだ。

 若い人形師は自らの作品を片手で誘導しながら、踵を返した。

「兄さん。いつ、戻ってくるの」

 ライカの問いに、藍色の背中は答えなかった。外へ続く扉が次々と沈黙の徒を飲み込み、重々しい音を立てて、少年と外界を断ち切った。

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