非日常なんてどこにでも転がっている

悠木 柚

第1話

 平凡ないつも通りの水曜日。なんてのは人によって捉え方が違うだろうけど、こと私に関して言えば昨日の水曜日はとてもユージュアルに過ごしたと自負している。


 七時前に起きて身支度をし、朝食を摂らずクロスバイクにまたがって通勤。朝から社長のどうでもいい訓示を聞かされ、テンションを上げることなく昼休みに入り、午後の時間は課長の話に付き合わされる。十七時の退社は暗黙の了解で無視されているから、みんなと合わせて仕事してますよー的なそぶりを続けて二十一時頃に退社。帰宅途中にある二十四時間スーパーで三十%オフの弁当とビールを購入し、録っていたテレビ番組を再生しながらダイエットの関係で一日一回の食事タイムを楽しんだ。その後はシャワーを浴びてパジャマに着替え、仕事辞めよっかなーとか考えながらパイプベッドにダイブ。


 いつもと何も変わらない。ビフォーもアフターもない、社会の歯車をくるくる回していただけの日課。多少変化を探すなら、スーパームーンがブレて見えてたくらいだけど、それはきっと疲れ目のせいだと思う。


「おかしいな……」


 それに気づいたのは通勤前の玄関先。ドアのカギを閉めようとリュックを弄っていた時だった。今日も今日とて七時前に起きてからの現在進行形。私の記憶が確かなら、昨日まではリュックの外側に小さなポケットがあったはず。アヒルっぽいナニカを模ったキーホルダーに付けていたアパートのカギを、そこに入れていたのは間違いない。なのに今はそれがない。カギもないけどポケットもないなんて、ちょっと意味不明すぎて怖すぎる。しかもドアにあったははずの鍵穴もなくなっていて、そこには小さな液晶版が設置されている。朝から軽めのパニックに陥り、無意識に液晶版を弄った。


 ピッ。


 そんな電子音が響き、カチャリとドアから音がする。まさかと思いドアノブを引くと、既に鍵がかかっていて開かない。


「指紋認証……だとっ」


 駅まで徒歩三十分、最寄りのバス停までは十五分。日当たり不良で築三十年の家賃五万円。お世辞にも素敵とは言い辛いこの【平和荘】が、いつの間にかドアだけ最先端技術になっていた。そんなことってある?


 再度人差し指を液晶版に添えれば、またピッと電子音が鳴った。ドアノブを引くと、さっきまでは頑なに閉ざされていたマイスウィートルームへの結界が解かれ、簡単に、スムーズに、さも当然のごとくドアが開く。それから何度も閉めたり開けたりを繰り返し、ようやく私はひとつの結論に到達した。


「大家め、勝手に鍵を替えやがったな」


 穴の多い推察だけど、それ以外に状況を説明しつつ自分を納得させる理屈は考えられない。それに熟考する時間的余裕は既になくなりつつある。勤勉勤労で知られる日本人としては、会社に遅刻するなんて事態は是が非でも避けたいところ。それが体調不良でも肉親の悲報でもなく、ただの鍵問題ならなおさらだ。しかも施錠できないならともかく、昨日よりも遥かにスペシャルな感じでしっかりドアは閉ざされている。結論としては問題なんて何もない。それなら会社に急がなければ。お気に入りの真っ白なクロスバイクを漕いで全速前進。多分マッハ出てると思う。


「みみずパイセン、おはっすー」

篠原しのはら、私はみみずじゃなく水見みずみだと毎日言ってるだろ」

「じゃあ歩美あゆみっちパイセン」

「貴様ごときに下の名前で呼ばれるのは気に食わん」

「貴様ごとき戴きましたー。つか、真ん中に濁点のある名前って微妙っすよねー」

「お前、泉さんとか緒方さんとか足立さんとか田端さんとか渋谷さんを秒で敵に回したな」

「それちょっと勘弁っすー」


 会社の駐輪場で話しかけてきたのは三年後輩の篠原君だ。チャラい顔の奴がチャラい恰好してチャラい口調で喋っているが、妙に憎めない雰囲気を持ち合わせている金髪ロン毛の二十二歳。うちは外注経理専門のお堅い会社なのに、なぜこんなチーマーの出来損ないみたいな奴が雇われているのかは七不思議。しかも私より格上の大学を卒業しているのだからもはや怪奇現象。


「それより、今日はえらく遅い出勤っすね」

「私くらいになれば色々あるんだよ」

「食べ物とか着る物関係っすか」

「まて。男関係が選択肢にないぞ」

「だってパイセン、短髪のスレンダー体型で貧乳じゃないっすか。万年パンツルックで上着から酒と煙草の臭いもするし。その歳でこれってもうオヤジ化が進んでる的な? 彼氏っつーか彼女がいそうな?」

「オヤジ化は如何ともしがたいが貧乳ではないぞ。貴様ごときが着痩せする私を見くびるなよ」

「貴様ごとき戴きましたー」


 篠原君とミジンコ程も重要さのない会話を重ねながら階段を上って行った。駅前のとあるビルディング、その二階フロア全域を占めるのが私の勤める【葛飾ジャスト経理】。様々な企業から委託されたり外注を取ったりして経理だけを専門に行う、正真正銘の真面目な会社。ただしチャラ男が普通に勤めてることでもお察しの通り、社内風紀と仕事に対する姿勢はとても緩い。


「円滑に業務を進めるためには三つの大切な袋があります――」


 それって夫婦円満の秘訣でしょ。心底どうでもいい社長の訓示が始まって、朝の貴重な三十分が奪われる。そこはいつものことだから置いておいて。明らかに昨日までと違う変化が目に映る。工事現場で見かける長袖シャツの警備服、背中には『ひと狩り行くの?』と問いかけたくなるライフル銃。そんな出で立ちの社員が複数名。チャラい後輩の篠原君も、着替えて同じ格好をしている。銃刀法違反も甚だしい。


「――では皆さん、今日も一日ご安全に!」


 訓示が終わって解散しても、この疑問は解消されない。ドアから出ていくライフル装備の人たちを目で追ってしまう。


「ああ困った、困りました」


 ひょこひょこ近づいてきたのは、私の所属する事務課の課長。温厚でフレンドリーだが、並外れて話好きなのが玉に瑕。捕まるとその日の業務は必然的に滞る。もっぱら彼の相手は私の業務に含まれていると認知されて久しい。


「おはようございます」

「ああ、うん。それはそうと水見君、とても困った事態になりました」

薄井うすい課長、実は私も困っていまして」

「君が困るなんて珍しい。僕で良ければ話を聞きますよ」

「課長の困りごとは大丈夫なんですか」

「僕のは後回しでオッケーです。で、どうしたんですか」


 シジミ汁の香り漂う四十代独身。百六五センチの私より十センチほど低い背丈のぽっちゃり体型。薄くなった頭頂部にはヒヨコの羽毛ともタンポポの綿毛的とも表現できる細毛が群生していて、思わずフーッと息を吹きかけたくなる。いつも何かに困っているが、それは誰かと喋るための口実にすぎない。


「うちの会社はいつからライフル解禁の狩猟組織になったんですか」

「昔からこんな感じですよ、もしかして水見くん記憶喪失ですか?」

「私は記憶喪失だったのですか」

「いや、僕が聞いてるんですよ。とりあえず医務室に同行しましょうか?」

「医務室なんてうちの会社にありましたっけ」

「マズいなー、それも忘れてるなんて重症ですよ」

「マズいですか」

「我が社は害獣駆除がメイン業務だから社員は怪我が絶えないじゃないですか。医務室が設置されてるのは当然ですよ」

「うちは経理会社ですよね、葛飾ジャスト経理」

「違う違う、警備会社。葛飾ジャスト警備ですよ」


 急転直下の青天の霹靂で寝耳に水。新卒からの在職四年目にして明かされた驚愕の事実。簿記一級資格も公認会計士資格も持ってる私が、畑違いの警備会社に就職していた現実!

 ――って、そんなことはさすがに有り得ない。昨日までの穏やかな世界はどこへやら。


「ああそうでしたね。うん、思い出しました」

「君もやるようになりましたね、上司を誂わないでくださいよ」


 何ひとつ思い出してないし、メモリーにそんな情報はミリもない。でも周囲の状況から察しても、おかしいと感じてるのは私だけ。非常識で荒唐無稽な何かが起こったのは間違いないが、それを騒ぎ立てるメリットも思いつかない。


「で、課長の困った話は何ですか」

「実はカレーに飽きてしまいました」


 いつも通り、十割どうでもいい話題を提供してくる薄井課長。その変わらない通常運転ぶりが、今はとても安心できる。


「国民食とも言えるカレーに飽きることなんてあるんですか」

「それがあったんですよ。いつもなら通勤電車の中でカレーを食べる妄想ができるのに、今日は考えただけでゲンナリしてしまって……」

「ストレスですかね。風俗にでも行ってきてください」

「それで治るでしょうか」

「治ればいいですね」

「贔屓の店は木曜日がサービスデーなんですよね。明日行ってみます」

「木曜日なら今日でしょ。今日行けばいいのに」

「何言ってるんですか水見君。今日は水曜日ですよ」


 安心できる会話が一気に怪しさを孕んできた。自分の常識が誰の常識とも合致しない。世界から孤立するのって、きっとこんな気分なのだろうと思う。

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