第四酒『山崎』

第四酒 『山崎』第一章



 「紫、まだ悩んでるの?なんならオススメにする?」


 居酒屋のネオンが輝き、仕事から解放されたサラリーマンで賑わう繫華街の喧騒を避け、少し路地裏に入った場所。そこには知る人ぞ知る隠れ家bar『翡翠』がひっそりと佇んでいる。


 店長が世界中を飛び回り収集してきた数々の銘酒はどれも入手困難な事もあり、コアな洋酒ファンが足繁く通っている。店内は照明を絞っていて落ち着いたバラードが心地好い。


 やっぱりスコッチ……いやジャパニーズウイスキーも捨てがたいなあ、ここにきたらいつも目移りして全然決まらない。


 色上紫が顎に手を当て真剣に悩んでいるとバーテンダーの"彼"が助け船を出してくれた。短髪に薄浅葱色のインナーカラーを入れた長身の青年は、そっと紫の前にチャームを出してくれる。幼少期から剣道をしてきたためか細身だが、制服の上からでもわかるくらい筋肉質だ。贔屓目を差し引いて見てもその顔立ちは整っていると思う。


「姉ちゃんと呼びな小僧。でもあおいがオススメしてくれるウイスキーもちょっと気になるかも」


「はいはい、大体姉ちゃんお金あんの?言っとくけど僕がアルバイトしてるからってつけで酒飲めないからな」


「姉ちゃんを見くびってもらっては困る。昨日給料日だったから高いのでも良いよー」


 手をひらひらさせて口角を不敵に吊り上げる紫を見て、双子の弟は少し苦笑してみせた。


 思えば仲の良い双子だったと思う。小さい頃から大学が別れるまで一緒に育ってきた。喧嘩も良くしたが今でもこうやってお酒という共通の話題で談笑する事が楽しい。双子だからかお酒の好みも似通っていた事が幸いした。


「紫は今日はどんな気分なの。バーボン?スコッチ?」


「――んー、最近はジャパニーズウイスキーにはまってる。何か良いのある?」


「うん、幾つかあるけど紫が好きそうなのは……ああ、高いけど珍しいのならこれはどう?」


 『山崎』。世界的にも高い評価を得ているジャパニーズウイスキーの中でも抜きん出て人気があり、日本最古のモルトウイスキー蒸留所である山崎蒸留所が60周年を記念して造ったウイスキーだ。


 紫も以前、飲んだことがあり甘く滑らかな味わいに耽溺したのを覚えている。しかし、目の前に差し出されたボトルには『山崎25年』と記載されていた。


「え、25年物?年に1200本しか売ってないのに人気だから全然手に入らない希少なウイスキーじゃん!ちょっとSNSにupするから写真撮って良い!?」


「化粧箱も綺麗だから一緒に撮った方が良いよ。どう、お眼鏡には適った?」


 蒼は自分とウイスキーの写真をぱしゃぱしゃ撮っている紫を眺めて破顔する。


「もちろん飲むに決まってる、財布は薄くなるけどこんな機会逃すと二度と出逢えないから!」


「姉ちゃんならそう言うと思ったよ」


 件の山崎蒸留所がサントリー創業100周年を記念して発売した幻のウイスキー。ただでさ人気である山崎の限定品という事で即売り切れ、オークションで高値で落札されている。紫もサイトを見た事があったが額を見てそっとサイトを閉じた。


 その名酒を前にして気分はうなぎ登りだ。紫が写真を撮り終えると、蒼がボトルを産まれたての赤子を扱う様に抱き上げ、優しく栓を抜いた。


 何時にもなく真剣な眼差しで、蒼がグラスにウイスキーを注ぐ。紫もその一挙一動から眼を離せず、息を飲む。


 ――とっとととと…………。


 シェリー樽で熟成させた特有のジャムやチョコレートを彷彿とさせる甘露なアロマが空間を支配する。蒼が慣れた仕草でグラスを紫の前に置いた。


「――山崎25年です。そういえば動画とか録らなくてよいの?観るなって言われてるから観たことないけど紫の動画ってお酒紹介してるんでしょ」


「し、静かに!今、山崎と対話してるから。ここは今ウイスキーの神様に祈る神社と同じなの、ちょっと黙ってて」


 意味不明な言葉だったが、紫の剣幕に気圧された蒼は頷き、紫の邪魔にならないように他の仕事にとりかかった。


 蒼には悪いと思ったがウイスキーガチ勢の紫は、今この瞬間に山崎25年から発せられる全ての情報を脳に焼き付ける必要があった。


 たった1オンスの液体だが異質な存在感を放っている。確かに価値を知っているというバイアスがあるのは否定できない。しかし、ノンエイジからは感じとれないアロマの圧を嗅覚からだけでなく、肌全体でひしひしと感知できた。


 グラスを持ち上げ軽く振ると、甘露のアロマの中にスモーキーさが見え隠れし、宝石の様に強く輝く琥珀色からは眼を離す事ができない。


「ウイスキーの神様……ありがとうございます」


「――ウイスキーの神様ってなんだよ」


 蒼が小声で毒を吐いているが、お姉ちゃん腕ひしぎ十字固めは後にしよう。そう想いながら紫はグラスを口に運んだ。


 琥珀が口の中を跋扈する。視界が喜びでぱちぱち弾けている様だ。最初は喉に重厚なアルコールを感じる。それが落ち着くにつれ紫の味覚にはビターなこくと絹の如くまろやかな味わいが広がった。


 あまりの情報量でオーバーフローしてしまった紫は、グラスをカウンターに置き眼を閉じる。自然に目尻が湿っていた。


「――美味しい…………」


 ウイスキーが過ごしてきた25年の経験を直に味覚に受けてしまった紫は放心状態で、完全に固まってしまった。


「姉ちゃん、大丈夫!?しっかりして」


「――はっ!情報多可で失神してた」


「なにそのオタク特有の反応……素直に引くわ」


「ウイスキーオタクなんだからしょうがないでしょ!ああ、凄い濃厚なんだけどなんか脳に山崎が過ごしてきた25年間が走馬灯みたいに流れてきた」


「姉ちゃん病院行った方が良いよ、それ幻覚だから」


 紫はゆっくり山崎を嗜んでいたが、ふと時計を見ると"同居神"と夕飯を食べる時間が刻一刻と近づいていた。腹ペコになったあの神様が何をしでかすか……考えただけでも身震いしてしまう。


「ごめん、蒼お会計お願い。そろそろ帰らないと」


「あれいつもより早いね、彼氏でもできた?」


「姉ちゃんの腕ひしぎ十字固めくらいたいの?」


「紫は高校生までクールで物憂げな中性的美女って言われてたのに、お酒飲みだしてから酒癖悪くてモテないよね」


「ほんっっとに関節決めるわよ。いいの私の恋人はウイスキーと日本酒の神様なの」


 まあ、そういう事にしとくか。そう呟きながら蒼が大袈裟に肩をすくめる。


「紫、ちょっと聞きたいんだけど最近動物飼った?」


「え……いや、なんで?毛でも服に着いてた?」


「――いやなんか変わった色が……ううん、気のせいなら良いんだ。気をつけて帰ってね」


「ありがとう蒼、またくるよ」


 腹ペコ神様のひもじい顔を想像してしまった紫は蒼からレシートをもらい急いでお店を後にした。

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