第三酒 『鳳陽』二章

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 宮城最古の造り蔵である内ヶ崎酒造店。

 今から約400年も遡る1618年に伊達政宗公の命を受けた初代内ヶ崎筑後が富谷に宿場を設けたのがルーツとされています。


 二代目作右衛門蔵は先代から積み重ねられてきた知識を生かし酒造を始め、現代に至るまで地元宮城県で愛される名酒をいくつも製造してきました。宮城の厳しい寒さを利用した寒仕込みで造られる貴重な酒々は日本だけでなく世界中のファンを魅了しています。


「――完全に同じ物ではないと思いますが、同じ酒造で造られた日本酒ならかなり記憶に迫れると……思うんです……」


 酒屋で購入した『大吟醸鳳陽山田錦』を抱えて山道を歩く紫は息も絶え絶えにおおかみさまに話し掛ける。


「陸奥で造られた最古の酒か。――ううむ、思い出せぬ。やはりここで1口飲んで良いかのう?」


「駄目ですよ!知り合いの神様にも飲んで貰うためにここまできたんでしょ。ああもう疲れたー!」


 旅行に来たのにかれこれ2時間程、秘境としか言えない山岳を登り続けている。私この前も山で遭難してたよね、そのせいでポンコツ狼の神様に絡まれて……深く考えたら駄目だ。ちゃん登山ウェアと登山靴に着替えたのが不幸中の幸いだったな。


「この程度の登山で音をあげるなど軟弱じゃなー。だが喜べ紫、幸いにも彼奴きゃつの方から出向いてくれたようじゃ」


 おおかみさまは軽やかに山道を跳ねるように登っており、汗一つかいていない様だ。呆れ顔で紫を視ていたが、ある"気配"を感じ取ったのか正面に視線を移した。


 先程まで静寂を決め込んでいた森林がどよめき出す。鳥類は慌ただしく飛び立ち、小動物が転がり逃げる。耳を澄ませば木々を弾き、落ち葉を擦る音が反響してくる。何か大きな生物が歩いてくる?


 いや違う、這ってたんだ。紫は音の正体と対峙して漸く理解する事ができた。


 ――白蛇だった。但しハプニング映画に迷い混んでしまったと錯覚する程に顔を覗かせた『神様』は巨体だった。顔だけで紫の身長近くまであるだろう、未だ全体の輪郭を拝めずにいる。金色の双眼でさえ紫の手のひらより大きい。


「数百年振りか久しいの白蛇よ。息災で何よりじゃ」


「――寝床を出て来てみれば狼ではないか。これは珍しい事も起きおる、とっくにくたばったと思っておったわい!」


 巨体を震わし笑う白蛇とおおかみさまは親しげに談笑し始めた。蛇は蛇でもこんなにデカいのは普通に怖いわ!出そうになった叫びを寸でのところ飲み込んだ紫は、おおかみさまからされた質問の意図を理解した。苦手とかのレベルじゃないでしょ、アナコンダの3倍くらいあるよ絶対……。


「――以前来た時の記憶が曖昧なんじゃ。些細な事でも良い何か覚えておる事はないかの?」


「残念だが儂も力を失いつつある。ここ二百年余りで儂らを取り巻く環境は大きく変わってしもうた。山麓の人間は西洋の文化を取り入れ豊かになり、参拝客は減りゆく一方だわい。そちと同様に儂の記憶も擦りきれ磨耗しておるすまんのう遠路遙々きてくれたというのに……」


 大蛇は舌をチロチロと覗かせて申し訳なさそうに述べた。図体の割には優しい神様なんだなあ、紫は神も見た目に判断してはいけないとぼんやり思った。


「汝ほどの神でも信仰が落ちるか……。やはり赦しがたいのう人間は」


「その人間がそちの横に居るが、儂への土産か?人間は臭くて好かんが」


「いや、こやつは我の従者よ。ここまで案内をさせたに過ぎん。汝には別の土産があるので安心せよ」


 おおかみさまが此方に目配せしてくる。いつ私がおおかみさまの召し使いなったかを小一時間問いただしたいが話が進まないので紫は持っていた日本酒を掲げる。


「こちらは白蛇さまの地元、宮城県で造られました『鳳陽』という日本酒です。おそらくですがお二人が昔飲んだと思われる日本酒と同じ、内ヶ崎酒造の品です。是非吟味していただきたくお持ち致しました」


「ほう、宮城の地酒か。供物など久しく見ておらなんだ、ありがたくご相伴にあずかろう。酒を飲むのにうってつけの場所がある、案内しようぞ」


 白蛇さまは久しぶりに会えた旧友と新しい参拝者に上機嫌だ。おおかみさまと紫を背に乗せてするすると進み始めた。





 気づけば入山してからかなり時間が経っていた。日は落ち、山岳は暮色に包まれていく。一人と一匹が案内されたのは森林に突如と現れた湖畔だった。澄んだ水面に夕陽が落ちてきて、焚き火をしているが如く赤く輝いている。


 湖畔の端には鳥居と祠があり、大木が神社を雨から護る傘の様に聳え立っていた。


「どうだ、狼の式よ。儂の寝床はなかなかであろう」


 白蛇さまは誇らしげに語り、紫に視線をやる。


「昔は良く人間が登ってきては儂に祈りを捧げたものだ。今となっては傾いた鳥居を補修する者さえ居らぬがのう」


「美しいです、日本にこんな幻想的な風景が残ってるなんて……」


 心の底からそう感じる。神がおわしめす神域に相応しい場所だ。


 空の赤が山の向こう側に消えて行く。現れた月が切り株をテーブル代わりに始めた宴会をライトアップしてくれる。


 紫は一升瓶を抱えて、持参した馬上杯の切子グラスに日本酒を注ぐ。グラスの馬上杯は冷酒に向いており、図らずしも今回の辛口大吟醸とは相性が良かったなあ。紫はそう感じながら二柱の前に『鳳陽』を差し出した。


「用意、ご苦労じゃ紫。では我々の再会と新しい縁を祝して……乾杯じゃ!」


「「乾杯!」」


 それぞれが掛け声と共に『鳳陽』を口に運ぶ。白蛇さまも器用に舌を使い、日本酒を口に含んでいた。


「ほう、これは流水の如く喉を爽快に抜けてゆく。しかし、水の様に淡い味わいではない……寧ろ味が鼻腔で留まり、広がって丸まり、芳醇な香りが支配する。何処か懐かしい……儂好みの良い酒じゃわい」


「本当ですか、それは良かったです!おおかみさまはどうで……」






『――さま、――さま。この酒美味しいねえ』


 同じ場所であって異なる時間、今より遥か昔の想い出。もう面差しさえ掠れてしもうた。唯一、我が真名で呼ぶことを許した愛しい人。汝が簪越しに優しく我の髪を撫でてくれた一時。湖畔を背に、酒を呷る汝に我は手を伸ばす。もう一度で良い、たった一度で良いのじゃ。優しく撫でる汝の手に触れたい。その霞んだ相好をもう一度だけ……。





「おおかみさま!大丈夫ですか、しっかりして下さい!」


 垣間見えていた記憶は霧散していく。頬に温もりを感じ、触れると雫が軌跡を残していた。


「騒ぐでない、少し"視えた"だけじゃ。紫、汝が選んだ酒は間違っておらんかった様じゃな……今も昔も旨い酒じゃよ」


 おおかみさまはもう一度吟味する様にお酒を口に含み、紫を見据える。濡れた空色の瞳が月光を反射させていた。


「――御天道様みたいな奴じゃった。良く笑い良く酒を飲む。側にいるだけで神でさえ温かな気分にさせてくれる……そんな人間じゃ」


「儂も仄かに"視えた"ぞ。あの時も同じ場所で飲んだのであった。顔も名も思い出せぬが、儂を見ても怯まぬ愉快な人間だったのう。しかし、共に酒を飲んだ者の事さえも忘れていくのは虚しいのう……悲しいのう」


 二柱の神様はその相貌に寂寥の色を落とす。そんな神様たちを見て紫は以前から考えていた事を話す。


「信仰を取り戻せば記憶も戻るんですよね。なら私の提案に乗っていただきませんか?」


 紫の真剣な顔をみた二柱は、少し間を置いて後に頷き、問いを投げかけた。


「して紫よ、その"提案"とはいったい何なのじゃ?」


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