断章 アストラルという元魔王



 時間を少しだけ遡る——————


 その男が初めて自分を認識したのはちょうど5歳の誕生日のことだった。まるで宇宙の神秘に触れたかのような一瞬の出来事であった。凍てつくような冬のある日に、熱を出し、ベッドの上で寝込んで一週間……ようやく熱が引いて、意識を取り戻した直後の出来事。たった一度だけの激しい頭痛がしたのちに、過去の全てを思い出した。



 2,000年前。勇者と交わした約束——————


 それは長きに渡る人間と魔族の戦争を終結させるものであった。

 勇者は誓った—————


1つ、残された民を無碍には扱わないこと

1つ、今よりも遥かにいい世界にすること

1つ、今度は良き友人として、もう一度死力を尽くして戦うこと


 勇者はこれを受諾し、魔族を率いていた魔王アストラルを討ち取った。契約の代償として、勇者には、魔王と再会するまで死ぬことができない“呪い”が授けられた。それを自らの命と共に施した魔王アストラルは今、その時よりも遥かに小さくなった手足をゆっくりと動かしていた。

 まるで人間のようなそれは、動かすたびに痺れ、寒さでかじかんでいるかのように旨く動かせない。だが、動かさなければ現状を把握することはできないと、奥歯に力を入れ、汗を垂らしながら、やせ衰えた自身の体に力を入れる。


 自分の体よりも遥かに大きいベッドからはい出るまで10秒ほどの長い時間がかかる。そこから敷き詰められた赤い絨毯に脚を降ろして、姿勢を維持するのに20秒を要する。ちょうどよく、子供が使うには無駄に広い部屋の隅に姿見の鏡が見えたため、そこまで歩いていこうと足を2歩から3歩進めた。



 そこで息が切れた—————



 上手く肺に息が吸い込めず、浅い呼吸を繰り返す。これは一体どういうことなのだと考えるより先に、上半身に重しを乗せられたかのように腰が折れ曲がり、支えようとして膝に手を付いた瞬間に、震えた膝も耐えられずにそのまま絨毯の上にうつぶせに倒れる。



 その瞬間にかつて魔王であった人間は悟った。この体が酷く脆弱で、歩行すらままならないほど弱っているということを……。ならば、得意の魔術でどうとでもしてみせようと、体内に眠る魔力に干渉する。そして気づく—————


 「なんだこの体は……魔力も枯渇しているだと……なぜ、オレはこんな体に—————」


 そう言いかけたところで、アストラルは自分で言葉を止める。誰だって、好きでこんな体に生まれたかったわけではない。それは、今しがた、転生することで自分が塗りつぶしてしまった小さな存在に対して非常に失礼である、と彼は考えてしまったからである。

 そうして、浅く途切れ途切れの呼吸を繰り返しているうちに、誰かが部屋のドアを開け、自分に駆け寄ってきた。抱き起されて、敬語で説教をされながら苦労して出てきたベッドに戻されて、ようやく、アストラルの第二の人生は幕を開けるのであった。



 そこから、召使いを使って様々な情報をかき集めた。医者が、アストラルが生死の境を彷徨ったことで記憶を失ってしまった、という勝手な解釈をしてくれたおかげで、この行為に関して誰も疑問に思うことはなかった。


 集めた情報によると、ここは勇者との最後の闘いからおおよそ2000年ほど経過した世界であり、多少の小競り合いが起こってこそいるが、今現在は平和であるというものであった。歴史上で、あれからここまで何度も戦乱を経てこそいるが、なんとか国は存続しているらしい。そして、恥ずかしいことに、自分が住んでいる国の名前が『アストラル』という自身のかつての呼び名であった。

 そういう自身の名前は『エマニュエル・アーストライア』といい、この国の第二王子にあたるらしい。これでは恥ずかしいと、一度だけ『我こそがアストラルだ』と名乗ったことがあったが、頭がおかしくなったのだと判断されて、ベッドに戻された。



 情報を手に入れて気づく—————。『再戦の呪い』をかけた勇者はどうしているのかと……

 だがその疑問はすぐに解消された。召使いの話を聞く限り、彼は今もなお健在で『ブリューナス』という王国に剣王として知られている、という情報を手に入れたからである。しかし、それと同時に、一つのやらなければならないことが出来上がる。


 誓いを立てた当時の魔王は、100年ほどの時を経て蘇る腹積もりであった。だが、結果は2000年という、霞むような長い時間を彼に与えてしまったことになる。だとすれば、一刻も早く、彼に合わなければならないという衝動に駆られ、ベッドを飛び出して、再び倒れて気づく。この体では、外に出歩くことはままならないという事実に—————


 外に出られない上に、得意の魔術も使えない。こんな状態で、2000年の歳月を経た、あの勇者に勝てるのかという疑問と同時に、それでは、この長い間、待ち続けてくれた彼に失礼であるという自尊心が彼の心に火を灯した。



 そこから彼の足は少しずつ歩き出した。


 部屋の外に出ようとして歩いて三日は寝込み。せめて魔力を使用して少しでもリハビリをしようと魔術を使用して1週間気絶した。それが初めの1年間。

 6歳の冬になるころには、部屋の外に出られる程度には回復した。魔力も初級魔術ならば数回程度は使用できる程には戻っていた。だが、喜んで廊下を少しだけ歩いてまた寝込んだ。今度は冬の間全てがベッドの上で過ごす羽目になった。

 エマニュエル・アーストライアの生涯の側近であるセイディ・ライスターと出会ったのもこのころであった。彼女にはできうる限りの自分の魔術を教え込み、自分もそれと同時に少しずつ魔力を取り戻していった。彼がセイディを気に入ったのは、自分が転生した魔王だということを子供ながらに信じてくれたからである。



 そうやって、何度も寝込んでは動く生活を続けて、なんとか外に出れるようになるまで4年の歳月を要した。出れると言っても、少し無理をすれば再び倒れてしまうため、魔物を狩れるようになったのはさらに2年の歳月がたち12歳になった冬ぐらいであった。



 半日ほどは側近のセイディと共にモンスターを狩り、レベルを上げては休むことを繰り返して少しずつレベルを上げていく。セイディがお茶会や舞踏会で不在になり始め、一人で狩ることも多くなったのはそこからさらに2年後。

 このころになると、かつての病弱な体は既になく、雪の中を駆けずり回り、モンスターを得意の魔術で狩れるほどには回復していた。それでも、全盛期の4割にも満たない。そんなある日のことであった。


 この日はお飾りの王子としての公務により、隣国のリーゼルフォンドに訪れていた。そして目にしたのは、リーゼルフォンドが魔族を奴隷のように扱っている現状であった。

 彼は激怒して、その商売人を殺し、そこにいた奴隷を全て持ち帰った。その一人が、後にアストラルの世話係の侍女となるエステルである。このころからエステルは言葉をしゃべることができなかった。

 だが、持ち帰った後で外交問題として取り上げられ、リーゼルフォンドとの間で小競り合いが起こったのは間違いない。それが尾を引き、平和を望んでいる穏健派である彼の父である現国王が、戦争を望む過激派を押さえつけられなくなっていった。


 彼は自称では穏健派であったが故に、穏健派と過激派の両者から邪魔者として命を狙われ始めたのは奴隷の一件からさらに1年後のことである。そのころには、彼の能力は全盛期の6割ほどに回復していた。だが、それでも自身の身を案じてくれた現国王の父は、留学という名目で、手が出しづらい学術国家リリアルガルドの新入生として彼を入学させることとなった。




 そこからの3か月は彼にとっても新鮮なものであった。入学式の頃から態度が横暴だと小競り合いの日々が続き、いつもセイディが頭を抱えていた。だが、彼にはその日々がどこか懐かしさを感じるとともに、楽しい日々であったことは間違いない。

 なぜなら、母国にいたときは、王子である彼に正面から挑んで来ようとするものなどいなかったのだから……


 そうして、いつものようにあくびをしながら雑魚を蹴散らしているときに出会ったのが、アリッサという同級生だった。薄桃色の瞳に残光を作り出し、茶色のセミロングの髪を揺らし、常識外れの武器の使い方ばかりをするその人物に、アストラルは興味を持った。武器を投げるやつは腐るほどいるが、変化球を伴って武器を投げるやつは彼女しかいないと後の彼は語っているほどである。

 興味を持ったことで仲間に引き入れようと触れた瞬間に、ゴミクズを見るかのような顔でこちらを睨み返したことは今でもアストラルの記憶から離れない。一国の王子に対してだけでなく、明らかに実力差がある相手にどうしてそんなことができるのかと興奮して、思わず側近のセイディに話してしまったこともあった。



 そんなある日、いつものように生徒同士の喧嘩を、あくびをしながら済ませた日のことである。いつもの通り、転移魔術で借り受けた貴族用の一軒家に帰宅したときのことである。まず初めに目に映ったのは、建物の半分が吹き飛んでいる光景。

 一体何が起きているのかと疑いたくなるような光景に目を疑い、状況を整理する。すると、崩落した建物の付近で側近であるセイディと小太りの男が話しているのが見えた。



 そうしてその日からアストラルと呼ばれていた元魔王と謎の天使の幼女であるサリーとの生活が始まった。




 この事件を引き寄せた件のアリッサという少女は、思った以上に脆く、そして、弱々しいものだと理解した。故に、これ以上、彼女を関わらせてはより大きな渦に巻き込み、そして殺してしまうのではないかと恐怖を覚えたアストラルは、アリッサがこれ以上関わらないように言伝をした。

 アリッサという少女も、これを受けて関わろうとしなかった。そのため、サリーの世話はセイディに任せることとなった。護衛として出かけるときは同行することも多数あり、毎日のようにどこかに出かけていたせいか、リリアルガルド中央魔術学院だけでなく、首都ベネルク中でサリーの名前が認識されることとなっていった……。


 そうして、2週間後……アリッサが再び自身の前に立ちふさがるのであった———————

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